86 ヨパラの生い立ち2
ヨパラは、その本をすぐにめくり始めた。
ページを繰るたびに、幼い日々の記憶がよみがえってくる。
そして、その本に書かれていた──ドランザーク帝国の、あまりにも非道な所業に、怒りで手が震えていった。
同時に、母と共に生き抜いた、厳しい日々の記憶もよみがえってくる。
──王妃リュセリナと王子ミストファルは、薄暗い地下通路に立っていた。
そこへ、魔導によって造られた兵士が姿を現し、静かに声をかけてくる。
ヨパラの脳裏に、おぼろげながら当時の情景が戻ってきた。
「すぐにお逃げください。皇帝からの命です」
その言葉に従うように、地下通路を急ぐ母の姿が見えた。
「ミストファル、大丈夫です。この者たちが守ります」
ミストファルは、泣くのをこらえながら、母の手を強く握りしめて走っていた。
──リュセリナには、移転の魔法は使えなかった。
それでも、なんとか無事に宮殿の外へ出ると、振り返った先に、もはや王宮の姿はなかった。
リュセリナは、すべてを悟った。
「ここは危険です。別の国へ逃げましょう」
そう言うと、ミストファルを腕に抱き、浮遊魔法を使って、できるかぎり遠くへと飛び去っていった。
ようやく隣国の故郷にまで逃げのびたとき──
リュセリナの魔力は、すでに尽きかけていた。
彼女は、息子を安心させるように微笑んでみせた。
けれど、頬には静かに涙が流れていた。
「ミストファル、ごめんなさい。私にできることは、これしかないの……」
そう言いながら、リュセリナはミストファルの頭に手をそっと添えた。
「記憶を消して、魔力も封じて」
静かに、その魔法を唱える。
リュセリナは、ミストファルだけは守りたかった。
この子が大きくなったとき、父の仇を討つために命を投げ打つことを──何よりも恐れていた。
そして、たとえこの子が敵の手に落ちたとしても、王子であることが決して知られぬようにと。
──ドランザーク帝国は強大な軍事帝国であり、国土も広く、軍隊も強力であった。
魔力を使い果たしたリュセリナは、隣国であるハルパン王国へと歩いて逃げた。
「ヨパラ、まだ歩ける?」
ヨパラは不思議そうな顔をしながらも、気丈に答える。
「ぼく、まだ、あるける」
リュセリナは──
ミストファルの名も、自らの名も変えていた。
リリナと名乗り、過去を捨てるように。
そして、リリナは身を隠すようにして、ハルパン王国の片隅で暮らし始めた。
風の便りで、ドランザークがいまだ王子を探していると聞き、怯えながらの日々を送っていた。
魔法を使うことは一切なく、か細い腕でヨパラを育てていた。
身につけていた装飾品は、すべて売り払い──
泥まみれになって、身を隠すように働いていた。
それでも、教育だけは決して怠らなかった。
「自分ひとりでも、食べていけるように」と──そう願いながら。
けれども、ヨパラはその勉強にたびたび不満をこぼし、時には母を困らせていた。
リュセリナは厳しく、そして優しく。いつもヨパラを──心から愛していた。
──ヨパラが十六歳になったとき、母は亡くなった。
「ヨパラ……ごめんなさい……」
その言葉は、何度も聞かされていたものだった。
そしてヨパラは、母の願いではなく、冒険者となるという危険な道を選んだ。
本を読み終えたヨパラは、かつて母に強く言ってしまった言葉を思い出し、涙をこぼした。
父の悔しさと、ドランザーク帝国への憎しみで、胸の奥が焦げるような思いだった。
──そのとき、レイヴァンがいつものように足音高く近づいてきた。
少し顔を伏せているヨパラの様子がおかしいことに気づき、声をかけた。
「ヨパラさん……何か、ありましたか?」
ヨパラは、少し落ち着いた声で答えた。
「いや、大したことじゃない」
レイヴァンは、本のタイトルをちらりと見て、懐かしそうに言った。
「パルヨザードですか。街並みが美しい国でしたね」
ヨパラは、驚いたように言った。
「レイヴァンさん、知っているんですか?」
「はい。私は長く生きておりますから、この大陸のことはだいたい把握しています」
「私の趣味は、ふらりと気ままに旅することなんですよ」
「何か、その国について知りたいのですか?」
ヨパラは、これまでのいきさつをすべて話した。
レイヴァンは、特に驚く様子もなく、丁寧に応じた。
「それは、実に悲しい出来事ですね……」
「そういえば──忘れていました」
「インフィ様が、口には出しませんが……ヨパラさんがいなくて、寂しがっておられます」
「もしよろしければ、インフィ様と共に旅をしていただけないかと思い、訪ねてまいりました」
「その件についてインフィ様にお伝えすれば、きっと力を貸してくださると思います」
ヨパラは、落ち着いた声でレイヴァンに言った。
「すぐに連れて行ってくれ。そして、この国のことをもっと詳しく教えてくれ」
レイヴァンは、嬉しそうに微笑んだ。
「かしこまりました」
──そう言うと、二人の姿はその場から消えた。
図書室の磨かれた大理石の床には、
『パルヨザード魔法小国の繁栄と滅亡』という一冊の本だけが、そっと残されていた。