第九話 聞く耳
客として居残る、ということが、ナオにはよく分からなかった。
宿では、客は泊まって、食べて、出ていく。ナオはいつも、客の荷を運ぶ側だった。座って食べているだけの自分というものが、どうにも落ち着かない。
だから、一日目の朝、厨の女に「暇なら水を汲んでおいで」と言われたとき、ナオは心からほっとした。
「はい」
桶を二つ提げて、入り江の氷の割れ目まで三往復した。
戻ると、薪を割ってくれと言われた。
「はい」
割り終えると、網の繕いを。馬の蹄の雪を落とすのを。干し魚の数を数えるのを。
「はい」
夕方には、屋敷じゅうの者が、ナオを「返し屋」と呼ぶようになっていた。用があると、皆、そう呼ぶ。名前は、誰も訊かなかった。
ヤルナにも、一度だけ呼ばれた。
奥の部屋の長持から、冬の毛布を出して、広間の隅の、客の寝床へ運んでくれという。ナオが運び終えると、ヤルナは戸口に立ったまま言った。
「いつ、出ていくのです」
「……ヴァルテさんに、居てくれと頼まれて」
「ヴァルテは、狩り頭です。客を決めるのは、この家の主です」
ヤルナの目は、ナオの顔ではなく、また、ナオの胸の返し布に落ちていた。
「息子は、あなたに出ていけと言いました。私も、同じ考えです。ただ、狩り頭の頼みを、主が踏みにじるわけにもいかない。それだけのことです」
ヤルナは、戸を閉めた。
毛布は、ナオとサリヤの寝床のぶんだった。
サリヤは、ナオが薪を割っているのを、厨の戸口から見ていた。
「それ、全部引き受けてるの」
「頼まれたから」
「客なんでしょう」
「客は、何をすればいいのか分からない」
サリヤは、何か言いたそうな顔をした。けれど、何も言わずに、帳面を開いた。
ナオは、薪割りの斧を振り下ろした。
頼まれたことをしているあいだは、考えずにすむ。剣のことも。一年のことも。祖母のことも。
◇
頼まれ仕事には、話がついてきた。
水を汲みながら、厨の女が話した。
「旦那さまはね、去年の秋、あの入り江の向こうの森で亡くなったんだよ。狼が出たって聞いて、若い者を連れて真っ先に飛び出していって」
女は、汲んだ水を鍋に移しながら、手を止めた。
「剣を抜いたまま、倒れてたって。剣は、なんともなかった。刃こぼれひとつ。旦那さまのほうは……」
ナオは、桶を持ったまま、待った。
「……剣は、一度も動かなかったんだよ。旦那さまのためにも。あたしらは、旦那さまは剣に選ばれてたって、ずっと信じてたのにね」
網を繕いながら、年寄りの兵が話した。
「去年の冬、旦那さまの弔いに、近くのヤールたちが来た。酒が入ると、ろくなことを言わねえ。剣に選ばれなかった親父の、そのまた剣に選ばれない跡継ぎ、ってな」
兵は、網の目に指を通して、強く引いた。
「若様は、聞こえてた。聞こえてて、黙って酒を注いで回った。俺は、そっちのほうが見てられなかった」
馬の蹄を掃除しながら、馬番の少年が話した。
「春になったら、フロイスタで集いがあるんだ。上王さまの前に、北じゅうのヤールが集まる。そこで、若様が跡継ぎだって認められるかどうかが決まる」
少年は、馬の首を撫でた。
「跡継ぎは、家の剣を持って集いに行くんだって。剣を持ってなけりゃ、認められない。剣を持ってても、剣に選ばれてなけりゃ、笑われる。若様は、どっちにしても笑われるって、みんな言ってる」
ナオは、聞いた。
一人ひとりの話を、最後まで聞いた。急がなかった。相手が言葉を探しているときは、黙って待った。手を動かしながらだと、人は、顔を合わせているときよりも、少しだけ多くのことを話す。
話を聞くたびに、屋敷の中の人の顔が、少しずつ見えてきた。
厨の女は、旦那さまの好きだった煮物を、今でも秋になると作ってしまう。
狩り頭のヴァルテは、若様が生まれた晩、屋敷の外で一晩じゅう角笛を吹いて、旦那さまに叱られたのだと、年寄りの兵が笑った。馬番の少年は、若様に乗馬を教わった。
みんな、エイヴァルのことを話した。
けれど、エイヴァル本人は、ナオと目を合わせようとしなかった。廊下ですれ違えば、黙って脇を抜けていく。腕に巻いた布は、二日目には取れていた。
一度だけ、すれ違いざまに、エイヴァルが足を止めた。
「まだいたのか」
「ヴァルテさんに、頼まれて」
「あいつは、誰にでも頼む。犬にも、馬にも」
エイヴァルは、それだけ言って行ってしまった。その手は、腰の剣の柄に置かれたままだった。屋敷の中でも、エイヴァルは、剣を外さなかった。
烏たちは、どうしているのかと思えば、二日目の朝から、広間の梁に並んでとまっていた。
シルシと、取り立ての烏。黒い影が二つ。
「何、話してるんだ」
ナオが下から訊くと、シルシが首をかしげた。
「何も。あちらは、わたくしよりずっと古い烏でございます。口をきくのは、預かり人に知らせるときと、帳に記すときだけ、だそうで」
「じゃあ、お前は喋りすぎだ」
「若うございますので」
家の兵の誰かが、ぷっと吹き出した。屋敷に来てから、人の笑う声を聞いたのは、それが初めてだった。
◇
三日目の夜、ナオは眠れなかった。
寝床を抜け出して、薪小屋の軒下で外套にくるまっていると、屋敷の裏手から、音が聞こえてきた。
風を切る音だった。
ひゅう、と鳴って、止む。しばらくして、また鳴る。
ナオは、そっと起き上がり、薪小屋の角から裏手をのぞいた。
雪の積もった中庭に、人が一人立っていた。
エイヴァルだった。
夜空に、緑の光がうねっていた。極光だった。その淡い光の中で、エイヴァルが、あの霞んだ剣を、両手で振っていた。
振り上げる。振り下ろす。剣の重さに、体が前へ持っていかれる。足を踏ん張って、また構える。
振り上げる。振り下ろす。
剣は、一度も、自分では動かなかった。ただ、重い鉄の棒のように、エイヴァルの腕の力だけで、空を切っていた。
一度、振り下ろした剣の重さに引かれて、エイヴァルの足が雪の上で滑った。膝をついた。剣の切っ先が、雪に深く刺さった。
エイヴァルは、しばらく、そのまま動かなかった。
それから、剣を引き抜いて、立ち上がった。
それでも、エイヴァルは振るのをやめなかった。
息が、白く、荒くなっていく。額から、湯気が上がっている。
ナオは、声をかけなかった。
かけられなかった。頼まれてもいないのに、人の夜の中へ入っていく言葉を、ナオは一つも持っていなかった。
◇
四日目、ヴァルテの腕の白さが、肘まで広がった。
厨の炉のそばで、ヴァルテは左腕を膝に乗せていた。布をほどいた腕を、サリヤが、黙って見ていた。
牙の跡は、最初の夜と少しも変わっていなかった。塞がっていない。血も出ていない。ただ、傷のまわりの白さが、手首から肘のほうへ、雪が積もるように広がっていた。
「冷えるだけだ。年寄りの腕は、もともと冷てえ」
ヴァルテは、そう言って笑った。
サリヤは、笑わなかった。
「影の狼の傷は、膏薬では塞がらない」
「知ってるのか、嬢ちゃん」
「帳に、何百と書いてある」
サリヤは、ヴァルテの腕から目を上げなかった。
「咬んだ口が生きてるかぎり、塞がらない。毒は、咬んだ口の続きだから」
厨が、しんとした。
「じゃあ、どうすりゃ塞がる」
「咬んだ狼が、終われば」
サリヤは、そう言って、自分の左の瞼に、指をやった。
ほんの一瞬だった。目にかかった髪を払うような、何気ない仕草だった。
けれど、ナオは見ていた。
サリヤの指は、髪には触れていなかった。閉じた瞼の上に、そっと置かれて、すぐに離れた。
サリヤは、何も言わずに立ち上がり、厨を出ていった。
ナオは、訊かなかった。
訊いてくれと、誰も頼まなかったからだ。
◇
その夜、厨の炉の火が落ちかけたころ、音がした。
しゃっ、しゃっ。
ナオは、薪を運ぶ手を止めた。
厨の隅で、ヴァルテが、あの古い剣を膝に乗せていた。動かない左手で刃の背を押さえ、右手の砥石で、刃を研いでいる。
しゃっ、しゃっ。
ナオは、その音を知っていた。
北の港町の、坂のいちばん上の家。漁から帰った男が、毎晩、土間に座って立てていた音。ナオは聞いたことがない。けれど、ネリカさんが話してくれた。うるさいと言ったら、刃物は寝る前に機嫌を取っとくもんだって。
しゃっ、しゃっ。
炉の熾火の明かりの中で、古い剣の刃が、研がれるたびに、小さく光っていた。




