第十話 写し
五日目の朝、ナオは武具小屋で、剣に油を引いていた。
家の兵たちの剣だった。十本あまり、壁の架に並んでいる。どれも、広間の賢き者の剣と同じ形をしていた。幅の広い刃。北の組紐を刻んだ柄。
写しだ。
ナオは布に油を含ませ、刃を一本ずつ拭っていった。頼まれた仕事だった。年寄りの兵が、腰が痛いと言うので、代わったのだ。
拭いながら、ナオは、刃の光を見ていた。
光は、あった。けれど、帝国の稲妻の槍とは比べものにならなかった。油を引いた刃の奥で、蝋燭の燃えさしのような光が、かすかに揺れている。中には、ほとんど光っていないものもあった。
「暗いだろう」
戸口で、年寄りの兵が言った。腰をさすっている。
「俺が若いころは、こいつら、夜道で松明の代わりになった。旦那さまのお父上のころまでは、まだましだった。旦那さまが亡くなって、若様が剣を継いでから、一日ごとに暗くなっていく」
「一日ごとに」
「ああ。昨日より今日、今日より明日だ。春の集いまでに、ただの鉄の棒になるかもしれねえ」
兵は、架の剣を一本取って、光にかざした。
「写しってのは、本物から光を分けてもらうんだそうだ。本物が暗けりゃ、写しも暗い。広間のあれが、あのざまじゃな」
兵は剣を架に戻し、黙った。言いすぎたと思ったのかもしれなかった。
架のいちばん端に、一本だけ、ほかと違う剣が立てかけてあった。
ヴァルテの剣だった。
柄の革は黒ずみ、刃の背には、無数の細かな研ぎ跡が、雨の筋のように並んでいる。ほかの剣より、ひと回り細かった。研ぎ減ったのだと、ナオには分かった。
その刃の光は、ほかの写しのように揺れていなかった。
小さいけれど、ぶれない光だった。最初の夜、狼を押し返した光と同じだった。
ナオが手を伸ばしかけたとき、後ろから声がした。
「そいつは、俺がやる」
ヴァルテだった。
ヴァルテは、左の腕を吊ったまま、右手で自分の剣を取った。
腕の白さは、肘を越えて、二の腕のほうへ広がっていた。袖から見える指先が、蝋のように色を失っている。それでもヴァルテは、何でもないような顔をしていた。
「ほかのは暗くなるのに、それだけ、暗くならないんですね」
「なるさ。遅いだけだ」
ヴァルテは、腰掛けに座り、膝の上に剣を横たえた。右手で、刃の背を、ゆっくりと撫でた。
「こいつは、二百年、うちの家が手入れしてきた」
「うちの……ヴァルテさんの家ですか」
「ああ。俺の親父も、その親父も、狩り頭だった。スヴァルンの家に仕えて、この写しを腰に下げて、狼を追った。毎晩研いで、毎晩油を引いた。二百年、一晩も欠かさずにな」
ヴァルテは、刃の研ぎ跡を、指で一本ずつなぞった。
「研ぎ跡の一本一本が、誰かの晩だ。どれが誰のだか、もう分からねえがな」
ナオは、その指を見ていた。
包丁の柄の窪み。人差し指の腹が触れるところだけ、飴色に光っていた木。毎晩、同じ手が同じように握ったところだけが、ああなる。
「広間の剣も、家の人が手入れしてきたんですよね」
「若様の剣か」
ヴァルテは、ナオのほうを見なかった。
「あれは、手入れはされてきた。飾り物としてな。架に掛けて、年に一度、油を引く。狩りには使わねえ。抜くのは、集いと、弔いのときだけだった」
ヴァルテは、それ以上は言わなかった。
代わりに、懐から砥石を出した。
「おい。押さえててくれ。片手じゃ、刃が逃げる。頼む」
「はい」
ナオは、ヴァルテの前にしゃがみ、剣の柄を両手で握った。
指が、勝手に収まった。
柄の革の下に、浅い窪みがあった。親指の当たるところ。人差し指の腹が触れるところ。けれど、包丁のときとは違った。
窪みは一つではなかった。少しずつずれて、いくつも重なっていた。大きな手の窪み。細い指の窪み。その上に、また別の手の窪み。
何人もの手が、同じ柄を、少しずつ違う握り方で、何十年も握ってきたのだ。
しゃっ、と、ヴァルテが刃を研いだ。柄を通して、ナオの手のひらに、その震えが伝わってきた。
「いい手だな、返し屋」
ヴァルテが、研ぎながら言った。
「余計な力が入ってねえ。物に、握らせてもらってる手だ」
ナオは、何と答えていいのか分からなかった。
ただ、柄を握る手を、少しだけ緩めた。
ナオは気づいた。ヴァルテは、あの剣を、一度も「家宝」と呼ばなかった。若様の剣。広間のあれ。いつも、そう呼んでいた。
◇
その夜、ナオは、広間の炉へ薪を運んでいた。
これも、頼まれた仕事だった。厨の女が、火の番の兵が風邪をひいたから代わりにと言ったのだ。
炉のそばに、エイヴァルが座っていた。
剣を振っていると思っていた。けれど、その夜のエイヴァルは、膝の上に小さな木切れを乗せて、刃の短い小刀を動かしていた。
木を、彫っていた。
ナオは、薪を下ろしながら、横目で見た。
手のひらほどの白い木に、細い溝が刻まれていく。溝と溝が、交わり、くぐり、また交わる。組紐の模様だった。
広間の剣の架に彫られているのと同じ、北の組紐。けれど、エイヴァルの手で彫られていく模様は、架のものより細かく、どこまでも途切れなかった。
小刀の先が、迷わなかった。
剣を振るときの、重さに体を持っていかれる手とは、まるで別の手だった。
「何を見てる」
エイヴァルが、顔を上げずに言った。
「……すみません」
「謝れとは言ってない」
エイヴァルは、小刀を止めなかった。
ナオは、薪を一本ずつ、炉の脇に積んでいった。しばらく、木を削る小さな音と、炉の火のはぜる音だけがした。
やがて、エイヴァルが言った。
「あの剣は、賢き者の手でなら、自分で戦うんだそうだ」
ナオは、手を止めた。
「子どものころから、そう聞かされてきた。この家の当主は、代々、賢き者だから剣に選ばれる。だから、この家は北で一目置かれてきた」
小刀が、木の上で止まった。
「親父は、選ばれなかった。俺も、選ばれない」
エイヴァルは、炉の火を見ていた。
「賢き者って、何だ」
問いだった。けれど、ナオに訊いたのではなかった。炉の火に、架の剣に、あるいは死んだ父に、投げた言葉だった。
ナオは、黙っていた。
話を、最後まで聞くつもりだった。けれど、エイヴァルは、それ以上、口を開かなかった。小刀を握ったまま、じっと炉を見ていた。
ナオは、口を開いた。
誰にも、頼まれていなかった。答えてくれと、エイヴァルは言わなかった。それでも、言葉が、喉もとまで上がってきていた。
ヴァルテの研ぎ跡。包丁の柄の窪み。千年も手もとに置いてりゃ、誰だって自分の物だと思う、と言った祖母の声。
「……借り物だと知ってる手、かもしれない」
エイヴァルの肩が、動いた。
「自分の物じゃないって、分かって持ってる手。そういう手のことを、剣は、賢いって……」
小刀が、木に突き立った。
木切れを貫いて、膝の上の革の前掛けにまで、刃が届いていた。エイヴァルは、それを抜こうともしなかった。
「黙れ」
低い声だった。
「お前に、何が分かる」
エイヴァルが、立ち上がった。木切れが、膝から落ちて、炉の灰の上に転がった。
「この剣のせいで、親父は死んだ。この剣のせいで、俺は笑われる。それでもこれは、この家の物だ。親父の物で、俺の物だ。それを、借り物だと?」
「……すみません」
「出ていけ」
声が、短く、強くなっていた。
「広間から出ていけ。今すぐだ」
ナオは、広間を出た。
戸を閉める前に、一度だけ振り返った。エイヴァルは、炉の灰の上から、木切れを拾い上げていた。小刀の刺さった穴を、親指で撫でていた。
組紐の模様は、そこで途切れていた。
ナオは、戸を閉めた。
頼まれていないことを、言った。言ってから、言わなければよかったと思った。それでも、言ったことは、取り消せなかった。
胸の割符が、ぬくかった。
◇
廊下の奥に、明かりがあった。
広間の、もう一つの出入り口の脇。屋根を支える太い柱の前に、サリヤが立っていた。小さな油の灯を、柱に近づけている。
柱の木肌には、古い文字が刻まれていた。煤と年月で黒ずんで、ほとんど木目と見分けがつかない。
サリヤは、その文字を、指で一つずつなぞっていた。もう片方の手で、帳面に書き写している。
筆が、ときどき止まった。
止まって、また、指が文字をなぞる。
「何してるんだ」
サリヤは、振り向かなかった。
「読んでる」
灯の明かりの中で、サリヤの指が、柱のいちばん古い刻みの上で、止まっていた。




