第十一話 使者と矢
帝国の船が入り江の沖に現れたのは、六日目の昼だった。
三隻。帆に雷の紋。入り江の口の外で錨を下ろし、それ以上は近づいてこなかった。代わりに、小舟が一つ、白い布を竿に掲げて、氷の割れ目を縫うように岸へ漕ぎ寄せてきた。
「使者だ」
岬の上で、見張りの兵が角笛を吹いた。
屋敷じゅうが、ざわめいた。
ナオは、厨の戸口からそれを見ていた。サリヤが、隣に立った。
「あんたは、出ないほうがいい」
「どうして」
「探してるのは、烏を連れた返し屋の子でしょう。港で、さんざん聞いて回ってた」
ナオは、背の包みの上の烏を見た。
「シルシ。お前、どこかに……」
「隠れられません」
「分かってる。梁にでも、とまっててくれ。あっちの烏と並んで」
烏は少し考えるように首をかしげ、それから、広間の梁へ飛んでいった。取り立ての烏の隣に、黙ってとまった。
黒い影が、二つ。
ナオは、厨の戸口の陰に身を引いた。
広間では、エイヴァルが家の兵を並ばせていた。
「剣は抜くな。だが、手は離すな」
短い命令だった。兵たちが、壁際に散っていく。
戸口の脇に、ヴァルテが立った。左の腕を吊ったまま、右手に、あの古い剣を提げていた。顔は蝋のように白かった。
「休んでろ、ヴァルテ」
「帝国の使いを、狩り頭が寝床で迎えたとあっちゃ、旦那さまに顔向けできねえ」
エイヴァルは、それ以上は言わなかった。
◇
使者は、三十くらいの男だった。
帝国の軍の外套に、銀の雷の紋。腰に剣を提げているが、手は柄から離していた。後ろに、兵が二人ついている。
そのうちの一人が、槌を担いでいた。
ナオは、戸口の陰から、その槌を見た。
黒い槌だった。柄は短く、頭は、人の頭ほどもある。鉄とも石ともつかない、つやのない黒。その黒の表面を、細い稲妻が、絶えず這い回っていた。
帝国の兵の槍の稲妻とは、まるで違った。写しの稲妻が蝋燭の火なら、これは、嵐の空の一部を切り取って、鉄の形に押しこめたようだった。
雷の槌。
帝国の写しの軍団の、本物。
それを担いでいるのは、少年だった。
ナオより、一つか二つ、年下に見えた。背は高くない。ひょろりと細い体に、帝国の兵の鎧が、少し大きすぎた。顔には、何も浮かんでいなかった。怒りも、怯えも、退屈さえも。
槌の柄を握る指だけが、白くなるほど力んでいた。
広間の奥の座に、エイヴァルが座っていた。腰に、霞んだ剣を下げている。その横に、ヤルナが立っていた。家の兵たちが、壁際に並んでいる。
使者は、炉の手前で立ち止まり、軽く頭を下げた。
「雷の軍団、軍団長ガルヴァドの名代として参った」
よく通る、しかし平らな声だった。
「用件は一つ。スヴァルン家の剣を、帝国に預けていただきたい」
「預ける」
エイヴァルが、繰り返した。
「さよう。お渡しいただければ、軍団は、この領を影の狼から守る。上王が何を言ってこようと、帝国の名において、この家を守る」
使者は、ひと呼吸置いた。
「それから、皇帝陛下は、そなたをスヴァルンのヤールとしてお認めになる。北の集いで、他家に何を言われようと、帝国はそなたを当主と呼ぶ」
使者は、壁際の兵たちの腰に目をやった。
「失礼ながら、そちらの兵の写しは、春までもつまい。帝国の鋳場の写しを、百本、お贈りしよう。夜道で松明の代わりになる写しを」
壁際の兵の誰かが、喉を鳴らした。
広間が、静まり返った。
ナオは、ヤルナの顔を見た。
ヤルナは、使者を見ていた。それから、息子の横顔を見た。唇が、わずかに動いた。何かを言いかけて、やめたようだった。
「断る」
エイヴァルが、言った。
迷いのない声だった。けれど、言う前に、ほんの一瞬だけ、戸口のヴァルテの白い腕に、目がいったのを、ナオは見た。
「この剣は、スヴァルンの剣だ。神に返せと言う返し屋にも渡さない。帝国にも渡さない」
「若。よく、お考えを」
「考えた」
エイヴァルは、立ち上がった。剣の柄に、手が置かれていた。
「帝国が守ってくれるのは、剣を持っている間だけだろう。剣を渡したら、この家には何が残る。帝国の名で呼ばれる当主か。俺は、そんなものになるために、剣に笑われてきたんじゃない」
使者は、表情を変えなかった。
「承った。軍団長には、そのままお伝えする」
使者は、梁を見上げた。
ナオの心臓が、止まりかけた。
「烏が、二羽か」
使者は、少しだけ口の端を上げた。
「この家は、よほど神々に好かれていると見える」
それだけ言って、使者は背を向けた。
◇
そのときだった。
槌を担いだ少年が、主のあとについて、向きを変えた。
その胸の前に、何かが光った。
ナオは、目を凝らした。
光の、矢だった。
細い、白い矢が一本、少年の胸の真ん前に、浮いていた。鏃を、まっすぐ胸に向けて。腕を一本伸ばしたほどの間合いで、宙に止まっている。少年が歩くと、矢も、同じ間合いのまま、すうっとついていく。
少年が、ふと、こちらを見た。
厨の戸口の陰の、ナオを。
目が合った。
少年の目は、暗くも明るくもなかった。何も映していない、凪いだ水のような目だった。ほんの一瞬だけ、その水の底で、何かが動いた気がした。それが何なのか分かる前に、少年は目をそらした。
少年は、矢を見なかった。
見えていないのではない、とナオには分かった。見えていて、見ないようにしているのだ。顔に何も浮かべないように、目をそらしているのだ。
「見えますか、還し手殿」
いつのまにか、シルシが、厨の戸口の上の梁に降りてきていた。ナオにしか聞こえないほどの声だった。
「あれは」
「奪いの物に付く矢でございます」
烏の声は、平らだった。
「持ち手と、わたくしども烏と、割符を持つ方には、いつも見えます。ほかの方には、あの槌が使われるときにしか見えません」
還し矢、と人は呼ぶ。そう、烏は続けた。奪った物を使うたびに、一段ずつ近づき、届けば、胸を貫く。
ナオは、少年の胸の前の、白い光を見た。
腕一本。あれが、届くまでの残り。
ナオは、ふと、横を見た。
サリヤが、戸口のもう片方の陰に立っていた。
その目が、少年を見ていた。
いや、少年ではなかった。サリヤの目は、少年の顔より、少し下を見ていた。胸の前の、何もないはずの宙を。
少年が、広間の戸口で一度立ち止まった。矢も止まった。サリヤの目も、止まった。少年が、また歩き出した。矢が動いた。サリヤの目も、同じ速さで、横へ動いた。
矢を、追っていた。
ナオは、口を開きかけた。
お前にも、見えてるのか。
サリヤは、ナオのほうを見なかった。顔は、いつもの、何も浮かべない顔だった。けれど、帳面を持つ手が、ほんの少しだけ、強く革の表紙をつかんでいた。
ナオは、口を閉じた。
訊けば、答えてくれるかもしれない。答えてくれないかもしれない。どちらにしても、サリヤは、それを訊かれたくないのだ。左の瞼に、そっと指をやったときと、同じように。
◇
岬の坂を、使者たちが下りていく。
ナオは、薪小屋の陰まで出て、それを見送った。
槌を担いだ少年が、遅れていた。槌が重いのだ。細い背中が、一歩ごとに右へ傾ぐ。胸の前の矢だけが、まっすぐ、少年を待っていた。
坂の途中で、使者が振り返った。
「おい。遅いぞ」
そして、少年を名前で呼ばなかった。
「十二人目。急げ」
「はっ」
少年は、それだけ答えた。
顔には、やはり、何も浮かんでいなかった。
はっ。
その一言が、ナオの耳に残った。
言われたとおりにする者の返事だった。何を言われても、先に口から出てしまう返事。断るという言葉を、一度も口にしたことのない者の返事。
ナオは、自分の口が、いつのまにか、はい、の形になりかけていたことに気づいた。
胸の前に矢を浮かべたまま、少年は、坂の下の小舟に乗りこんだ。重い槌を、両腕で抱えるようにして。
十二人目。
では、その前に、十一人いたのだ。




