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【第一部完】カエシヤ 〜神々の預け物〜  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第一部「賢き者の剣」

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第十二話 十二人目

「雷の島の顔だった」

 翌朝、ヴァルテが言った。

 厨の炉のそばで、ヴァルテは白い左腕を膝に乗せていた。白さは、もう肩の近くまで来ていた。それでもヴァルテは、右手で器用に干し魚をむしっていた。

「あの、槌を担いでた小僧だ。島の者は、目の色が、嵐の前の空みたいな灰色をしてる。髪は、浜の砂の色だ。北の者が見りゃ、一目で分かる」

「雷の島って」

「ここから北東へ、船で四日。ヴェトラの島だ。百年前まで、あの槌は、あの島にあった」

 ヴァルテは、魚の骨を炉に放りこんだ。

「帝国が来て、奪っていった。島の首長の家は、それから百年、槌を取り戻すと言い続けてる。取り戻せちゃいねえがな」


 サリヤが、帳面を開いた。

「雷の槌。百年前、帝国の雷の軍団が奪う。以来、奪い」

 淡々と、読み上げた。

「持ち手、十一人。全員、胸を射抜かれて死亡。帳に名が残っているのは、そのうち四人」

「四人?」

「残りの七人は、名前が分からない。帝国の帳には、一人目、二人目、としか書かれてない。会の者が、死んだ場所と日付だけを、拾って書いた」

 サリヤは、ページをめくった。


「十年前、雷の島に帝国の船が来て、村を三つ焼いた。島の帳には、子どもが十七人いなくなったと書いてある」

 ナオは、黙っていた。

 十年前。あの少年は、今、十六くらいだ。

「……さらわれて、兵に育てられたのか」

「たぶん。帳には、そこまでは書いてない」

 サリヤは、帳面を閉じた。

「書いてないことは、言わない」


    ◇


 昼過ぎ、ナオは、薪小屋の裏で、烏に訊いた。

「あの矢、止められないのか」

 シルシは、薪の山の上にとまっていた。

「持ち手が、心から返すと決めれば、矢は止まります」

「あいつが、自分で?」

「はい」


 ナオは、少年の顔を思い出した。何も浮かべない顔。はっ、としか言わない口。

 あの少年が、帝国に逆らって、自分で何かを決めるところを、ナオは思い浮かべることができなかった。自分のことのように、思い浮かべることができなかった。

「ほかには」

 烏は、少しだけ間を置いた。


「持ち手の手から、物が離れ、それを還し手殿が拾えば、矢は消えます」

「おれが? でも、生きてる手から取ったら」

「奪いの手から落ちた物を拾うのは、奪いではございません。あの槌は、奪いの物でございますので」


 ナオは、薪の山を見つめた。

 落ちた物を、拾う。

 手から、落とさせる。

 ――落とし打ち。

 祖母の杖。手首の骨の、親指の側のくぼみ。下から打つ。宿の裏庭で、型だけは何百回もやった。けれど、ナオは一度も、本当に人の手を打ったことがない。

 それに、あの少年は、槌の柄を、指が白くなるほど握りしめていた。

 祖母の杖でも、あれを落とせるだろうか。


 ナオは、薪の山から、細い樺の枝を一本抜いた。

 裏庭の、馬をつなぐ杭の前に立った。杭の、ちょうど人の手首の高さのところに、古い縄の結び目があった。

 構えた。

 膝を緩める。肘を締める。相手の手首の、親指の側のくぼみ。上からではなく、下から。打つのではなく、跳ね上げる。

 ――手を打つんじゃない。手の中の物に、出ていってもらうんだよ。


 祖母は、そう言っていた。七つのナオには、何のことだか分からなかった。

 枝が、結び目を打った。

 こつん、とは鳴らなかった。ぱしっ、と、間の抜けた音がして、枝のほうが手の中で跳ねた。

 もう一度。もう一度。

 何十回目かに、ようやく、祖母の杖に少しだけ似た音がした。

 顔を上げると、屋敷の裏の戸口に、エイヴァルが立っていた。腕を組んで、ナオを見ていた。

 目が合うと、エイヴァルは何も言わずに戸の内へ消えた。


    ◇


 夕方、厨の女に、水を汲んできてくれと頼まれた。

 入り江の岸の、岩の割れ目から湧く泉だった。屋敷の井戸が凍ったので、冬はそこまで汲みに行くのだという。

「はい」

 ナオは、割符を返し布にくるんで、サリヤに預けた。


「どうして」

「岸に、帝国の船が近い」

 サリヤは、何も言わずに受け取った。両手で、抱えるように持った。

 烏は、ナオの後ろからついてきた。離れられません、とまた言った。けれど岸に降りると、烏は黙って、崖の上の黒い松の梢に上がった。

 黒い木の上の、黒い烏。夕暮れの森の中で、それはもう、ただの暗がりの一部だった。


 泉には、先客がいた。

 あの少年だった。

 帝国の小舟が、泉の近くの浜に乗り上げていた。少年は、水の樽を三つ、泉のそばに並べて、一つずつ水を満たしていた。

 槌は、足もとの雪の上に置かれていた。それでも、少年の手は、ときどき槌の柄に戻った。触れて、確かめて、また離れる。


 胸の前には、あの白い矢が浮いていた。

 ナオは、桶を提げたまま、泉の反対側にしゃがんだ。

 少年が、ちらりとこちらを見た。声はかけてこなかった。

 しばらく、二人で黙って水を汲んだ。

「……名前は」


 ナオは、言ってから、自分で驚いた。

 頼まれていないのに、口が動いた。

 少年は、手を止めなかった。


「十二人目」

「それは、名前じゃない」

 少年の手が、止まった。

 長いあいだ、泉の水が湧く音だけがした。

「……ソルグ」

 小さな声だった。

 口に出したことを、すぐに後悔したような声だった。

「……それ、重くないのか」


 ナオは、雪の上の槌を見た。

「重い」

 ソルグは、樽の口から目を上げなかった。

「持つたびに、重くなる気がする。……気のせいだと言われた」

 ソルグは、それきり黙った。胸の前の矢のことは、一言も言わなかった。


 浜のほうから、足音がした。

 雪を踏む、重い靴の音。二人分。

 ナオは、泉の岩の陰に身を伏せた。

 少年――ソルグは、それを見ていた。何も言わなかった。顔も、そちらへ向けなかった。ただ、樽に水を満たす手を、また動かしはじめた。

 足音が、泉のそばで止まった。


「水は足りるか」

 ナオは、その声を知っていた。

 平らで、よく通る声。北の港町の、夜明けの通りで聞いた声。

 ガルヴァドだった。

 岩の隙間から、ナオは見た。背の高い影が、外套の裾を風になびかせて立っていた。両手を、背で組んでいる。横に、副官らしい男が一人。


「はっ」

 ソルグが答えた。

 ガルヴァドは、ソルグを見なかった。ソルグの胸の前の、白い矢を見ていた。それから、副官に言った。

「矢は」

「腕一本。この前の島の戦から、動いておりません」

「春の集いまで、槌は使わせるな。使わせるのは、剣を取るときだけだ」

「それで足りなければ」

「そのときは、十三人目に渡す」


 ガルヴァドの声は、少しも変わらなかった。今日の水の量を確かめたときと、同じ声だった。

「あれは駒だ。駒が十二並べば、槌は百年働いた。十三並べば、百十年働く。それだけのことだ」

 副官が、黙ってうなずいた。

 ソルグは、樽に水を満たしていた。

 その手が、ほんの一瞬だけ止まって、また動いた。顔には、何も浮かんでいなかった。


 足音が、浜のほうへ遠ざかっていった。

 ソルグは、満たした樽を一つずつ小舟へ運んだ。最後に、槌を担いだ。重さに、細い体が傾いだ。胸の前の矢が、まっすぐ、その胸を待っていた。

 小舟が、氷の割れ目を縫って、沖の船のほうへ漕ぎ出していった。

 ソルグは、一度も、泉のほうを振り返らなかった。

 ナオは、岩の陰で、桶の縁を握りしめていた。

 救いたかった。

 けれど、どうすればいいのか、分からなかった。手を伸ばせば、届くところにいた。それなのに、ナオにできたのは、名前を一つ訊くことだけだった。


    ◇


 屋敷へ戻ると、廊下の奥に、灯がともっていた。

 柱の前に、サリヤが座りこんでいた。

 膝の上に、ナオが預けた割符の包みを抱えていた。その横に、帳面が開いていた。油の灯は、もう芯まで燃え尽きかけていた。

 柱の刻み文字の、最後の一行の上に、サリヤの指が置かれていた。


「……読み終わった」

 サリヤが、言った。

 帳面を書くときの声と、同じだった。

 けれど、サリヤは、帳面に何も書いていなかった。筆は、膝の横に置かれたままだった。

 ナオの知るかぎり、サリヤが、読んだことをすぐに書かなかったのは、それが初めてだった。

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