第十三話 書き換えられた言葉
サリヤは、ひと晩、柱の前から動かなかった。
ナオが朝、厨へ向かうとき、サリヤはまだそこにいた。膝の上の帳面は、白いままだった。割符の包みは、ナオの寝床の脇に、いつのまにか戻されていた。
「何が書いてあったんだ」
サリヤは、答えなかった。
代わりに、柱を見上げた。
朝の光が、廊下の小窓から斜めに差して、柱の木肌を照らしていた。昨夜は灯の明かりで見えなかったものが、見えた。
刻み文字は、二重になっていた。
上の文字は、くっきりと深い。けれどその下に、削られた跡があった。刃物で、木の表面ごと平らに削いだ跡。その削いだ木肌の底に、もっと古い、もっと浅い刻みが、かすかに残っていた。
削りきれなかったのだ。
何百年も前に、誰かが、深く、ていねいに刻んだから。
「何をしている」
廊下の向こうから、声がした。
エイヴァルだった。腰に剣を下げ、朝の素振りの汗がまだ額に光っていた。
「その柱は、この家の祖が立てた柱だ。客が勝手に触るものではない」
サリヤが、立ち上がった。
ナオは、サリヤの顔を見た。いつもの、何も浮かべない顔だった。けれど、帳面を持つ手が、表紙の革を、かすかに握り直していた。
「この柱に、剣の受け継ぎの言葉が刻んである」
「知っている。この家の者なら、誰でも」
「読める?」
「家宝として譲る。そう刻んである。子どものころ、親父に教わった」
「それは、上の文字」
サリヤは、柱の削り跡を、指でなぞった。
「下に、もう一つある」
◇
広間に、人が集まっていた。
エイヴァルが、家の者を呼んだのではなかった。廊下の声が、厨に、武具小屋に、馬小屋に、伝わっていったのだ。
ヤルナが来た。ヴァルテが、白い腕を吊ったまま来た。厨の女も、年寄りの兵も、馬番の少年も、戸口の陰からのぞいていた。
梁の上で、二羽の烏が、黙って見下ろしていた。
「読んでみろ」
エイヴァルが言った。声は、低かった。
「読んで、嘘だと分かったら、お前を叩き出す」
サリヤは、ナオを見なかった。ヤルナも、ヴァルテも見なかった。柱だけを見ていた。
ナオは、サリヤの指が、ほんの一瞬だけ、帳面の上で止まったのを見た。
昨夜、読み終えて、書かなかった指だった。
それから、サリヤは言った。
「私は、帳に嘘を書けない」
誰に言ったのでもない声だった。自分に言い聞かせたのかもしれなかった。
「書けないから、読む」
サリヤは、削られた跡の底の、古い刻みを、指でなぞりながら読んだ。
「われ、スヴァルンの祖は、この剣を、預かり物として、子に渡す。いつか持ち主に返す日まで、預かり物として、子に渡せ」
広間が、しんとなった。
サリヤの指が、上の深い文字へ移った。
「われ、スヴァルンの当主は、この剣を、家宝として、子に譲る。代々、家宝として、譲れ」
サリヤは、柱の脇の、小さな刻みを指した。
「書き換えた年が、ここに。三代前。この年に、スヴァルンは、隣の領との戦に負けてる。会の帳にも、そう書いてある。勝った側は、預かり物なら上王に預け直せと、剣を求めた。当主は、柱の言葉を削って、家宝に書き換えた。家の物なら、誰にも渡さなくていいから」
サリヤは、帳面を開いた。
筆を取った。
筆の速さは、いつもと同じだった。
「受け継ぎの言葉が、預け物の状態を決める。家宝として譲られた物は、受け取った者の手で、最初から曇る」
書きながら、サリヤは言った。
「三代。この剣は、三代、誰の手でも動かなかった。それは、手のせいじゃない。言葉のせい」
エイヴァルは、動かなかった。
剣の柄に置いた手も、動かなかった。
「……嘘だ」
低い、かすれた声だった。
「嘘は、書けない」
サリヤは、筆を止めなかった。
「嘘だ!」
エイヴァルの手が、腰の剣を、鞘ごと引き抜いた。
広間の誰かが、息をのんだ。エイヴァルは、その剣を、柱に叩きつけた。鞘の先が、削られた跡を打った。古い木屑が、ぱらぱらと散った。
もう一度。もう一度。
削られた跡の底の、古い刻みは、消えなかった。
何百年も前に、誰かが、深く、ていねいに刻んだから。
エイヴァルの手が、止まった。
剣の重さに引かれて、腕が下がった。鞘の先が、床に落ちた。
「親父は」
エイヴァルが言った。柱を見たまま。
「親父は、これを知ってたのか」
誰も、答えなかった。
「剣が動かないのは、自分が賢くないからだと思って、死んだのか。狼の前で、動かない剣を振って」
声が、途切れた。
エイヴァルは、ゆっくりと振り向いた。
その目が、ナオを見つけた。
「お前か」
「……え」
「お前が来てから、全部だ。剣を返せと言った。借り物だと言った。帳守を連れてきて、柱を削らせた」
「削ったのは、おれじゃ……」
「全部、取り上げに来たんだろう」
エイヴァルの声が、短く、強くなった。
「剣も。家の名も。親父も。親父が誇りにしてたものも、全部」
ナオは、何も言えなかった。
違う、と言いたかった。けれど、何が違うのか、言葉にならなかった。剣を返してほしいと言ったのは、本当だった。借り物だと言ったのも、本当だった。
ヤルナが、前へ出た。
息子とナオのあいだに、立った。
「三代前の当主が、柱に何を刻もうと」
ヤルナの声は、冷たく、まっすぐだった。
「この家が、何百年も、この剣を守ってきたことに変わりはありません。夫は、この剣を腰に、狼の前に立ちました。その剣を、言葉一つで、借り物と呼ばせるつもりはありません」
ヤルナは、サリヤを見た。それから、ナオを見た。
「これは、スヴァルンの家宝です。この家の主が、そう決めました。帳守の帳に何と書かれようと、この家では、そうです」
家の兵たちが、ヤルナの言葉にうなずいた。何人かは、ナオを睨んでいた。
ナオは、ヴァルテを見た。
ヴァルテは、戸口の脇に立っていた。白い腕を吊ったまま、柱の、削られた跡を見ていた。
口は、動かなかった。
ヴァルテの顔に浮かんでいたのは、怒りでも、悲しみでもなかった。長いあいだ探していた失くし物の在り処を、思ってもみない場所で知らされた人の顔だった。
ヴァルテの右手が、腰の古い写しの柄を、そっと握っていた。
エイヴァルが、広間を出ていった。
鞘ごとの剣を、引きずるように持って。
ヤルナが、そのあとを追った。家の者たちが、一人、また一人と、広間を出ていく。最後に残ったのは、ナオと、サリヤと、梁の上の二羽の烏だけだった。
サリヤは、帳面に、最後の一行を書いていた。
筆が、止まった。
サリヤは、しばらく、書いたばかりの字を見ていた。それから、帳面を閉じた。
「……書くしか、なかった」
小さな声だった。ナオに言ったのかどうかも、分からなかった。
戸口に、足音がした。
ヴァルテが、戻ってきていた。
「嬢ちゃん。もう一度、読んでくれ。下のほうを。ゆっくりな」
サリヤは、ヴァルテを見た。それから、柱に向き直って、削り跡の底の古い文字を、もう一度、指でなぞりながら読んだ。
預かり物として、子に渡す。いつか持ち主に返す日まで。
ヴァルテは、口の中で、それを繰り返した。一語ずつ。何かの歌の文句を覚えるように。
「……預かり物、か」
ヴァルテは、柱の削り跡に、右手の指を当てた。
「俺の親父はな、家宝って言葉が嫌いだった。若様の剣のことを、一度もそう呼ばなかった。うちの写しのことも。理由を訊いても、言わなかった。たぶん、親父も知らなかったんだろう。知らねえで、ただ、嫌だったんだ」
ヴァルテは、自分の腰の古い写しに目を落とした。
「俺もだ。なんでだか、口が、その言葉を言いたがらなかった」
ヴァルテは、それきり黙って、廊下へ出ていった。
吊った左腕の白さが、灯の明かりの中で、雪のように見えた。
◇
その夜、ナオは、薪小屋の軒下で眠れずにいた。
風が止んでいた。入り江の氷が、時おり、遠くで鳴った。
そのとき、北から、声が来た。
海の上で聞いた、あの声だった。
長い、低い、遠吠え。
けれど、海の上で聞いたときよりも、ずっと近かった。地面が、かすかに震えた。薪の山の一番上の一本が、ことりと転げ落ちた。屋敷の中で、犬が、いっせいに吠えはじめた。
遠吠えは、一度では止まなかった。
二度。三度。
北の空の極光が、その声に揺すられるように、激しくうねっていた。
入り江の向こうの森で、狼たちが、それに応えて鳴きはじめた。一頭。十頭。百頭。
北じゅうが、鳴いていた。




