第十四話 遠吠え
遠吠えは、朝になっても止まなかった。
間を置いて、北から来る。来るたびに、入り江の氷がきしみ、屋敷の柱が細かく震えた。極光は、昼の白い空の中でも、うっすらと緑に揺れていた。
狼たちが、変わった。
これまで、影の狼は夜にしか来なかった。その日は、昼の陽の下を、森の縁を、平気でうろついていた。光らない目が、木々のあいだから村を見ている。村の者は、昼でも炉の火を細くし、戸を閉め切った。
昼過ぎ、見張りの兵が、息を切らして岬を駆け上がってきた。
「帝国の軍団が、領境の峠に集まってます。船から上がった連中が、陸を回って。百、いや、もっと」
広間が、ざわめいた。
エイヴァルは、奥の座で、黙ってそれを聞いていた。
きのうから、エイヴァルは一言も口をきいていなかった。剣は、架に戻されていた。鞘の先に、柱を打ったときの傷がついていた。
ナオに話しかける者は、いなくなった。
厨の女は、ナオが水を汲んでくると、黙って桶を受け取った。網を繕っていた年寄りの兵は、ナオが近づくと、網を持って場所を移した。馬番の少年だけが、すれ違いざまに、困ったような顔で小さく頭を下げた。
ヤルナは、ナオを見もしなかった。
出ていけ、とは、もう誰も言わなかった。狼が昼に出る森へ、客を放り出すわけにはいかない。それだけのことだった。
「当然でしょう」
サリヤが、厨の隅で言った。帳面を膝に広げたまま。
「家の誇りが、借り物の上に立ってたって、暴いたんだから。暴いたのは私。でも、連れてきたのは、あんた」
「……分かってる」
「分かってるなら、いい」
サリヤの筆は、いつもの速さで動いていた。けれど、ナオは気づいていた。サリヤは、きのうの夜から、ほとんど何も食べていない。
夕方、ナオは、厨の鍋から、魚の汁を椀に一杯よそった。
誰にも頼まれていなかった。厨の女は、ナオが鍋に近づいても、止めなかった。
ナオは、その椀を、サリヤの横の腰掛けに置いた。
「頼んでない」
サリヤは、帳面から目を上げなかった。
「……うん」
ナオは、それだけ言って、薪を割りに外へ出た。
戻ってくると、椀は、空になっていた。
◇
その夜も、ナオは眠れなかった。
遠吠えが来るたびに、薪小屋の板壁がびりびりと鳴った。外套にくるまって、目を閉じても、胸の奥まで声が響いてくる。
起き上がって、屋敷の裏の戸口から中へ入った。厨の炉の熾火で、手を温めるつもりだった。
広間に、明かりがあった。
炉の火は、もう落ちかけていた。その残り火の赤い光の中に、人が一人、座っていた。
剣の架の前だった。
エイヴァルが、架を見上げるようにして、床に直に座っていた。膝の上に、あの木切れがあった。組紐の彫りが途中で途切れ、小刀の刺さった穴が開いた、白い木切れ。小刀は、その横に置かれていた。
エイヴァルの右手は、膝の上の木切れではなく、架に掛けられた剣の柄のほうへ伸びていた。触れてはいない。けれど、指先が、柄のすぐそばの宙で、止まっていた。
ナオは、戸口で足を止めた。
引き返そうとした。
「返し屋」
エイヴァルが、振り向かずに言った。
「薪を、くべろ。火が落ちる」
ナオは、薪小屋から薪を三本抱えてきて、炉にくべた。
火が、少しずつ戻ってきた。
エイヴァルは、何も言わなかった。ナオも、黙っていた。炉の脇に、少し離れて、腰を下ろした。
遠吠えが来た。
柱が震えた。架の剣が、かたかたと小さく鳴った。
遠吠えが止んだ。
それから長いあいだ、炉の火のはぜる音だけがした。
「……十の冬に」
エイヴァルが言った。
「初めて、あれを握らせてもらった。親父が、架から下ろして、俺の手に持たせた。重くて、持ち上がらなかった。親父は笑って、いつか、お前の手で動くって言った。賢き者の手でなら、剣はみずから戦う。お前は、スヴァルンの子だから、って」
ナオは、黙って聞いていた。
急がなかった。相手が言葉を探しているあいだ、炉の火を見ていた。
「十二の冬には、持ち上がるようになった。十四で、振れるようになった。毎晩、振った。親父には内緒で。剣が動いてくれないのは、俺の腕が足りないからだと思った。腕が強くなれば、剣が、俺を認めてくれると思った」
エイヴァルの指先が、剣の柄のそばの宙で、少しだけ震えた。
「去年の秋、親父が死んだ。剣を抜いたまま。剣は、刃こぼれひとつしてなかった。親父のほうは、何も残ってなかった」
声が、途切れた。
ナオは、待った。
遠吠えが、また来た。柱が震えた。止んだ。
エイヴァルは、その間ずっと、黙っていた。ナオも、黙っていた。何かを言えば、この人は、もう二度と話さないだろうと思った。
「ほかのヤールたちに笑われるのは、どうでもよかった」
エイヴァルが、また口を開いた。
「剣に選ばれない跡継ぎ。そう呼ばれても、どうでもよかった。親父の弔いで笑われても、黙って酒を注いだ。剣が動かないのは本当だから。俺が、まだ足りないのは本当だから」
エイヴァルは、ようやく、剣の柄のそばから手を引いた。膝の上の木切れに、目を落とした。
「きのう、帳守が柱を読んだ。三代、剣は誰の手でも動かなかった。言葉のせいで。手のせいじゃない」
エイヴァルの声が、低く、かすれた。
「なら、俺が毎晩振ってきたのは、何だったんだ」
ナオは、答えなかった。
答えを、持っていなかった。
「腹が立った。お前に。帳守に。柱を削った曾祖父に。何も知らずに死んだ親父に」
エイヴァルは、木切れを、両手で握った。
「でも、一番腹が立ったのは」
言葉が、止まった。
長い、長い間があった。
ナオは、待った。炉の火が、一本目の薪を燃やし尽くして、二本目に移った。
「……剣が欲しいんじゃなかったんだ」
エイヴァルが言った。
小さな声だった。誰にも言ったことのない言葉を、初めて口から出した人の声だった。
「剣が、戦ってくれる男になりたかった。親父がなれなかったものに。この家の当主に。剣に、お前でいいって、一度でいいから言ってほしかった」
エイヴァルは、顔を伏せた。
「借り物だろうが、家宝だろうが、どうでもよかった。俺は、あの剣に、認められたかっただけなんだ」
炉の火が、ぱちりと鳴った。
ナオは、しばらく黙っていた。
何か言うべきだと思った。けれど、何を言っても、それはナオの言葉で、エイヴァルの言葉ではなかった。幾晩か前、この同じ炉の前で、頼まれてもいない言葉を口にして、この人を怒らせた。
「……聞いた」
ナオは、それだけ言った。
「最後まで、聞いた」
エイヴァルが、顔を上げた。
何か言い返そうとして、口を開いて、閉じた。それから、少しだけ、口の端が動いた。笑ったのかどうか、ナオには分からなかった。
「お前は、なんで返し屋なんかやってる」
「頼まれたから」
「誰に」
「ばあちゃんに。七つのとき」
「それだけか」
「それだけ」
エイヴァルは、今度は、はっきりと短く息を吐いた。笑ったのだと、ナオにも分かった。
「変な奴だ」
エイヴァルは、床の小刀を拾った。
膝の上の木切れの、組紐の彫りが途切れたところに、刃を当てた。小刀の刺さった穴の、すぐ脇。そこから、溝を一本、彫りはじめた。
手は、まだ少しぎこちなかった。それでも、小刀の先は、もう迷っていなかった。途切れたところから、組紐の続きが、少しずつ伸びていった。
ナオは、炉に三本目の薪をくべた。
遠吠えが来ても、エイヴァルの手は止まらなかった。
◇
夜明け前、角笛が鳴った。
一度ではなかった。岬の上から、村の見張り台から、入り江の向こうの森の縁から。短く、鋭く、何度も。
広間の戸が、外から叩き開けられた。
「軍団が来る! 峠を越えた!」
エイヴァルが、立ち上がった。
膝の上から、木切れが滑り落ちた。エイヴァルはそれを拾い、胸の隠しに押しこんだ。それから、架の剣を下ろして、腰に下げた。
廊下の奥から、ヴァルテが出てきた。左の腕を吊ったまま、右手に、あの古い写しを提げていた。顔は蝋のように白く、それでも、目だけは狩りの朝の目をしていた。
「若様。行きますか」
「ああ」
二人は、それ以上何も言わずに、並んで戸口を出ていった。
戸口の向こう、白みはじめた空の下で、峠の上に、稲妻の点が、数えきれないほど並んでいた。




