第十五話 雷の軍団
稲妻が、峠を降りてきた。
夜明けの青い光の中を、何百という青白い点が、斜面を伝って流れ落ちてくる。雪崩のようだった。点の一つひとつが、帝国の兵の槍の穂先だった。
岬の上から、ナオはそれを見ていた。
スヴァルンの家の兵は、二十人に満たなかった。エイヴァルを先頭に、村の入り口の柵の前に並んでいる。その手の写しが、夜明けの薄明かりの中で、ほとんど光っていなかった。
ヴァルテの写しだけが、小さく、ぶれずに光っていた。
最初の稲妻が、柵に落ちた。
槍の穂先から放たれた青白い光が、乾いた音を立てて丸太に食いこみ、柵が火を噴いた。二本目が、村外れの家の屋根に。芝の屋根が、白い煙を上げて燃えはじめた。
家の兵たちが、写しを構えた。
帝国の兵の槍とぶつかった。写しの刃が、稲妻をまとった穂先に触れるたびに、火花が散った。けれど、押されていた。
帝国の写しは、数千本の中の一本で、一本ずつの光は薄い。それでも、スヴァルンの写しよりは、まだ明るかった。
エイヴァルが、剣を振っていた。
霞んだ刃が、帝国の兵の槍を打ち払う。重さだけで。剣は、何もしなかった。エイヴァルの腕と、肩と、背中だけで、剣は振られていた。
稲妻の穂先が、エイヴァルの肩をかすめた。外套が焦げ、エイヴァルの体が雪の上に傾いだ。二人目の兵が、そこへ槍を突き出した。
古い写しが、横から、その穂先を払った。
ヴァルテだった。白い左腕をだらりと垂らしたまま、右手一本で。
「若様、背中を」
エイヴァルは、答えなかった。ただ、立ち上がって、ヴァルテと背中を合わせた。
霞んだ剣と、小さく光る古い写し。二本が、背中合わせに、帝国の兵の輪の中で回りはじめた。
村の家々の屋根が、次々に燃え上がった。
燃える屋根の光が、入り江の雪を橙色に染めた。
そして、森の縁で、暗い目が、いっせいにこちらを向いた。
「狼が来る」
サリヤが言った。ナオの隣で、帳面を胸に抱えていた。
「火に寄せられて」
ナオは、岬の坂を駆け降りた。
◇
村の中は、煙と悲鳴でいっぱいだった。
燃える家から、村人たちが転がり出てくる。子どもを抱えた女。老人を背負った男。どこへ逃げればいいのか分からず、燃えていない家のほうへ、火の明かりのほうへ、集まろうとしている。
その明かりのほうへ、森の縁から、影の狼たちが降りてきていた。
「そっちは駄目だ!」
ナオは叫んだ。
「明るいところは駄目だ。狼が来る」
「じゃあ、どこへ行けってんだ!」
男が怒鳴り返した。ナオは、あたりを見回した。
燃える村。燃える柵。稲妻の槍。森の縁の暗い目。
その向こうに、入り江があった。
凍った入り江。白い氷の平らな面が、岬の下から、入り江の口まで広がっている。燃えるものは何もない。灯もない。夜明けの空の青さだけを映して、しんと静まっている。
「氷の上へ」
ナオは言った。
「入り江の、真ん中へ。火から離れて。暗いところへ」
「氷が割れたら……」
「この冬の氷なら、もつ」
答えたのは、サリヤだった。いつのまにか、ナオの横にいた。
「会の帳に、ここの入り江は、冬至から春分まで、荷馬車が渡ると書いてある。行って」
男は、サリヤを見て、ナオを見て、それから、背中の老人を背負い直した。
「行くぞ! 氷の上だ!」
ナオの背中で、畳んだ船の包みが、重かった。
開けば、村人を全員乗せて、沖へ逃げられるかもしれない。けれど、開けば光る。
夜明けの色の帆が、燃える村よりも明るく、入り江の真ん中で灯る。狼は、その光に来る。帝国の兵は、その光で、ここに割符があると知る。
港町の崖の下で、そう言ったのは、ナオ自身だった。
ナオは、包みの縄を、強く握り直した。
まだだ。
ナオとサリヤは、燃えていない家を一軒ずつ回って、戸を叩いた。
火を消して。氷の上へ。暗いほうへ。
七つ目の家で、四十年絶やさなかった炉の火の老人が、小さな壺を抱えて出てきた。壺の蓋の隙間から、熾火のぬくもりだけが漏れていた。光は漏れていなかった。
老人は、ナオを見て、黙ってうなずいた。
村人たちが、入り江の氷へ降りていく。子どもの手を引いて、老人を背負って。氷の上の暗がりへ、暗がりへと、白い息を吐きながら。
狼たちは、それを追わなかった。燃える屋根のほうへ、稲妻の槍のほうへ、まっすぐに向かっていった。
◇
乱戦になった。
帝国の兵と、スヴァルンの兵と、影の狼。三つが、燃える村の中で入り乱れた。狼は、兵の槍の稲妻に跳びかかった。
稲妻の光が、喰われて細くなる。帝国の兵が悲鳴を上げ、狼を槍で突く。狼は霧のようにほどけ、また形を取る。
写しでは、狼は終わらなかった。
追い払うことはできても、終わらせることはできない。帝国の写しも、スヴァルンの写しも。
ナオは、氷の縁で、最後の村人の子どもの背中を押していた。振り返ったとき、それが見えた。
燃える柵のそばで、エイヴァルが、帝国の兵二人を相手に剣を振っていた。その背中の、すぐ後ろに。
片耳の狼がいた。
牛ほどもある体。根もとからない片方の耳。ほかの狼よりも深く、暗い目。
十日前の夜、ヴァルテの腕を咬んだ狼だった。
狼の体が、低く沈んだ。跳ぶ前の、ため。
「若様!」
ヴァルテの声だった。
ヴァルテが、燃える家の陰から飛び出してきた。
左の腕は、もう肩まで白かった。吊っていた布は、どこかで落としたらしかった。白い腕は、だらりと垂れて、まるで自分の腕ではない物のように揺れていた。
それでも、右手の古い写しは、まっすぐに構えられていた。
片耳の狼が、跳んだ。
ヴァルテが、その下に、体を滑りこませた。
古い写しが、下から上へ、一打ち。
狼の喉もとから、胸へ。
刃が、影の体を通り抜けた。
ほかの写しのときのように、狼は霧になってほどけなかった。形を取り戻さなかった。
狼の体が、内側から光った。
小さな光だった。無数の、蛍のような光。それが、狼の影の体のあちこちから、ぽろぽろとこぼれ出して、夜明けの空へ昇っていった。
喰われた村の灯の光なのだと、ナオには分かった。囲炉裏の火。窓の明かり。何年も、何十年も、どこかの家で燃えていた火の光。
光がこぼれきると、狼の影は、もう、どこにもなかった。
ただ、雪の上に、浅い窪みが残っているだけだった。
ヴァルテが、膝をついた。
古い写しを杖にして、肩で息をしていた。
「ヴァルテ!」
エイヴァルが、駆け寄った。帝国の兵が、それを見て一歩退いた。
ナオも、氷の縁から走った。
ヴァルテの左の腕が、雪の上に投げ出されていた。
その白さが、引いていた。
肩のほうから、雪が解けるように。二の腕。肘。手首。白かった肌に、ゆっくりと、血の色が戻ってくる。牙の跡が、端から少しずつ、閉じていく。
最後に、指先に、色が戻った。
ヴァルテは、自分の左手を、ゆっくりと握った。開いた。また握った。
「……ぬくい」
ぶっきらぼうな声だった。いつもと同じだった。
けれど、右手の古い写しは、もう、少しも震えていなかった。
「咬んだ口が、終わったから」
ナオの後ろで、声がした。
サリヤが、立っていた。ヴァルテの腕を、見ていた。閉じていく牙の跡を。
それから、サリヤは、目をそらした。
燃える村のほうでも、氷の上の村人たちのほうでもなかった。何もない雪の上へ。誰の顔も見なくていいところへ。
左の瞼に、指はやらなかった。
ただ、ずっと、目をそらしていた。
◇
角笛が鳴った。
帝国の角笛だった。低く、長く、二度。
帝国の兵たちが、潮が引くように、村の中から退いていった。燃える家を残して。狼たちも、片耳の狼が消えたのを境に、森の縁へ散っていた。
終わったのかと、ナオは思った。
違った。
帝国の兵たちは、村の外へ退いたのではなかった。入り江の岸に沿って、横に広がっていった。燃える村と、凍った入り江のあいだに、稲妻の点が、一本の線になって並んだ。
氷の上の、村人たちの前に。
入り江の向こう岸の森の縁では、散ったはずの狼の目が、また、暗く光りはじめていた。
沖のほうで、氷が、低く鳴った。
ナオは、氷の上を見た。
入り江の真ん中に、身を寄せ合った村人たちが、小さな黒い塊になって、ぽつんと取り残されていた。




