第十六話 開く船
沖で、稲妻が光った。
入り江の口に錨を下ろしていた帝国の船の甲板から、青白い光が一筋、氷の上へ走った。村人たちの塊から、二十歩ほど離れたところに落ちた。
氷が、裂けた。
乾いた、高い音だった。白い氷の面に、黒い筋が、蜘蛛の巣のように走った。筋の中から、黒い水が、じわりとにじみ出てくる。
村人たちが、悲鳴を上げて身を寄せた。
二筋目。三筋目。
稲妻は、村人たちを狙ってはいなかった。その周りの氷を、少しずつ、少しずつ、割っていく。逃げ場を、削っていくように。
「人質だ」
サリヤが、ナオの横で言った。
「岸の家の兵を、引きずり出すための。氷を全部割る気はない。でも、いつまでも割らない気もない」
岸では、エイヴァルとヴァルテが、帝国の兵の線とにらみ合っていた。
兵たちは、もう斬りかかってこなかった。槍を構えたまま、動かない。待っているのだ。家の兵が、村人を助けに氷の上へ出てくるのを。
出てくれば、岸を固めた稲妻の槍が、背中から襲う。出てこなければ、沖の稲妻が、氷を割りつづける。
入り江の向こう岸の森の縁では、狼たちの暗い目が、少しずつ数を増していた。
氷の上の稲妻の光に、寄せられていた。
一頭が、森を出た。氷の上を、音もなく滑ってくる。二頭。五頭。
ナオは、自分の背中の包みを、両手で下ろした。
誰も、ナオを見ていなかった。
エイヴァルは、岸で剣を構えていた。ヴァルテも。サリヤは、隣で、氷の上の村人たちを見ていた。村人たちは、ナオのことなど見ていなかった。この背中の包みが何なのかも、知らなかった。
頼んでくれる人は、どこにもいなかった。
開けば、光る。
光れば、狼が来る。光れば、沖の帝国の船から、それが見える。港町で、ナオの顔を見た男が、あの船に乗っているかもしれない。
そうなれば、割符がここにあると知られる。スヴァルンの家に、帝国の本隊を呼ぶことになる。
ナオの口が、何かの形になりかけた。
はい、ではなかった。
ナオは、包みを抱えて、氷の上へ走り出していた。
「ちょっと!」
サリヤの声が、背中で聞こえた。
かまわなかった。
凍った入り江の上を、ナオは走った。氷の割れ目を跳び越えた。足が滑った。膝をついた。また立った。後ろで、帝国の兵の誰かが叫んだ。稲妻が一筋、ナオのすぐ横の氷を割った。
村人たちの塊の手前で、ナオは止まった。
足もとの氷の割れ目から、黒い水がのぞいていた。
ナオは、包みを、その黒い水の上に置いた。
割符を握った手で、帆布に触れた。
「この人たちを乗せる」
声は、震えていなかった。
「それから、おれが、お前を返しに行く。だから、開いてくれ」
手のひらが、焼けた。
一度目と同じ熱さだった。熾火を素手で握ったような。ナオは、歯を食いしばった。声は、出さなかった。
包みが、ほどけた。
帆布が開き、骨が起き上がり、板が噛み合っていく。氷の割れ目の黒い水の上に、舟の腹が伸びていく。帆柱が立った。帆が上がった。
夜明けの、いちばん東の端の色。
燃える村よりも明るく、入り江の真ん中に、その色が灯った。
風が、起きた。
帆の後ろから。ナオの背中から。入り江の口へ向かって、まっすぐに。
氷の上を滑ってきていた狼たちが、その風を正面から受けた。
影の体が、風に煽られて、ちぎれた。霧が吹き払われるように、輪郭がほどけて、後ろへ、後ろへと流されていく。
狼たちは、四本の足で氷を掻いて、風に逆らおうとした。逆らえなかった。暗い目が、一つ、また一つと、森の縁のほうへ吹き戻されていった。
追い風だった。
ナオたちには、追い風。狼たちには、向かい風。
神様の船は、いつも、乗る者の後ろから風を吹かせる。
「乗って!」
ナオは、叫んだ。
村人たちは、動かなかった。目の前に、氷の割れ目から突然生えてきた、光る船。何が起きたのか分からず、ただ、帆の光を見上げていた。
「乗れ!」
別の声がした。
四十年火を絶やさなかった老人だった。壺を胸に抱えたまま、真っ先に、船べりに足を掛けた。
「この子の言うとおりにしろ。火を消せと言われて、消した家は、一軒も喰われなかった」
村人たちが、動いた。
子どもを抱き上げ、老人を押し上げ、次々に船べりを越えていく。ナオは、船べりにしがみつく手を、一つずつ引っぱり上げた。焼けた手のひらが、引っぱるたびに裂けるように痛んだ。
かまわなかった。
「三十一人」
いつのまにか、サリヤが船の上にいた。帳面を片手に、乗りこんでくる村人を、一人ずつ数えていた。
「あと、四人。三人。……全員」
船の底に、子どもが一人、しゃがみこんでいた。五つくらいの女の子だった。泣いてはいなかった。帆を見上げて、小さな手を、光のほうへ伸ばしていた。
指先が、帆の光に触れた。
熱くはなかったらしい。女の子は、手のひらをひらひらと返して、不思議そうに眺めていた。夜明けの色が、その小さな手を、淡く染めていた。
壺を抱えた老人が、ナオの横に腰を下ろした。
「ありがとよ、返し屋」
ナオは、何と答えればいいのか分からなかった。
礼を言われるのは、慣れていた。荷を届けたとき。頼まれたことを済ませたとき。けれど今は、誰にも頼まれていなかった。誰も、船を開いてくれとは言わなかった。
「……あんた、今」
サリヤが、帳面から目を上げずに言った。
「誰にも、頼まれてなかった」
責める声ではなかった。帳に書く事実を、読み上げるような声だった。
「……うん」
ナオは、焼けた手のひらを握った。痛かった。
おれが、決めた。
口には出さなかった。けれど、その言葉は、手のひらの痛みと一緒に、ナオの中にずっと残っていた。
帆が、ふくらんだ。
船が、氷の割れ目を押し広げながら、動き出した。入り江の口のほうへではなかった。岬の下へ。屋敷の崖の真下の、舟小屋のある浜へ。帝国の兵の線の、届かないところへ。
岸で、エイヴァルが、こちらを見ていた。
剣を構えたまま、動きを止めて、帆の光を見上げていた。
夜明けの色に光る帆。氷の上を走る神様の船。預け物の、本当の姿。
エイヴァルの手の中の、霞んだ剣とは、まるで違う物だった。
ナオは、船べりから、エイヴァルの顔を見た。遠くて、表情までは見えなかった。ただ、その手が、剣の柄を、強く握り直したのだけが分かった。
船が、岬の下の浜に着いた。
村人たちが、次々に降りていく。崖の階段を、屋敷のほうへ登っていく。最後の一人が降りたとき、ナオは、船べりに手を当てかけて、止めた。
ナオは、自分の右の手のひらを見た。
星の形の焼け跡が、二つになっていた。
畳めば、光は消える。けれど、もう一度開けば、三つ目が焼ける。一つの季節に七つを超えれば、この手は何も握れなくなる。
岸には、まだ、エイヴァルたちがいた。
帝国の兵の線の前に、二十人に満たない家の兵が、背中を合わせて立っていた。
「戻る」
ナオは言った。誰に訊いたのでもなかった。
サリヤが、帳面から顔を上げた。何か言いかけて、やめた。代わりに、船べりに腰を下ろし、帳面を膝の上で閉じた。降りる気はない、という座り方だった。
帆が、向きを変えた。夜明けの色の光を灯したまま、船は、岸のほうへ、ゆっくりと滑り出した。
◇
入り江の口の、帝国の旗艦の甲板。
ガルヴァドは、両手を背で組んで、舳先に立っていた。
入り江の中を、夜明けの色の光が、岸のほうへ滑っていくのを見ていた。
「軍団長。今の光は」
「見ていた」
副官の問いに、ガルヴァドは、振り向かずに答えた。
「港町の浜で、一度見た光だ。あのとき、あの光の中に、星の形の焼けが光っていた。今も、あるはずだ。舟から人を引っぱり上げている、あの手の中に」
ガルヴァドは、目を細めた。
「割符は、スヴァルンにある。還し手ごと」
副官が、息をのんだ。
「本隊を呼びますか」
「呼ぶ。だが、その前に」
ガルヴァドは、甲板の後ろのほうへ、顎を向けた。
槌を担いだ少年が、船べりに、一人で立っていた。胸の前に、白い矢を浮かべて。
「十二人目」
「はっ」
「槌を持て。小舟で、あの浜へ行け。舟ごと、割符を持ってこい」
少年の手が、槌の柄を握った。
指が、白くなった。
「槌を使ってかまわん。使えば、矢は一つ近づく。それは分かっているな」
「……はっ」
ガルヴァドは、それ以上、少年を見なかった。
背で組んだ両手は、ほどけなかった。




