第十七話 落とし打ち、二度目
船が岸に着く前に、エイヴァルたちのほうが、氷の上へ走り出していた。
帝国の兵の線が、光る船に気を取られた、その隙だった。家の兵が十人あまり、ヴァルテを真ん中に、割れた氷の上を跳んでくる。最後に、エイヴァルが、剣を抜いたまま、後ろ向きに退いてきた。
「乗れ!」
ナオは、船べりから手を伸ばした。
家の兵が、次々に乗りこんでくる。ヴァルテが、色の戻った左手で船べりをつかみ、自分で体を引き上げた。
エイヴァルが、最後に残った。
船べりの外に立って、ナオの伸ばした手を、見た。
それから、その手をつかんだ。
ナオは、焼けた手のひらで、エイヴァルを引き上げた。痛みで、目の前が白くなった。それでも、放さなかった。
帆が、ふくらんだ。
船が、岸を離れた。岬の下の浜へ。
「船だ!」
舳先で、家の兵の一人が叫んだ。
入り江の口のほうから、小舟が一艘、氷の割れ目を縫って、まっすぐこちらへ向かってきていた。漕いでいるのは、帝国の兵が四人。若い兵たちだった。ナオと、さほど年の変わらない顔が、櫂を握っていた。
その舳先に、少年が一人、立っていた。
黒い槌を、両手で握って。
胸の前に、白い矢を浮かべて。
「……ソルグ」
ナオの口から、その名がこぼれた。
小舟が、近づいてくる。
ナオは、帆柱のそばに立ったまま、動けなかった。
逃げられる。神様の船は、いつも追い風だ。小舟より、ずっと速い。けれど、小舟は、船の進む先の、岬の下の浜との間に、回りこんでくる。浜には、屋敷へ逃げた村人たちがいる。
「止まれ」
小舟の舳先で、ソルグが言った。
声は、平らだった。泉で、名前を言ったときと同じ。
「その船を、止めろ。割符を、こっちへ」
誰も、答えなかった。
「ソルグ!」
ナオは、叫んでいた。
「振るな。それを振ったら、お前の……」
「命令だ」
ソルグの声は、揺れなかった。
「軍団長の、命令だ」
ナオは、言葉を失った。
命令だから。頼まれたから。言われたから。その一言で、どこへでも行ける。何でもできる。それがどういうことなのか、ナオは、誰よりもよく知っていた。
ソルグが、槌を、ゆっくりと振り上げた。
黒い槌の表面を這う稲妻が、太くなった。空気が、ぴりぴりと震えた。家の兵たちが、思わず身を伏せた。
槌が、振り下ろされた。
船ではなかった。船の手前の、氷の上へ。
雷が、落ちた。
写しの稲妻とは、まるで違った。空が、一瞬、白くなった。耳が、何も聞こえなくなった。船の手前の氷が、人の背丈ほどの深さまで、真っ白な柱になって吹き上がった。氷の破片が、雨のように甲板に降りそそいだ。
船が、大きく傾いだ。
ナオは、帆柱にしがみついた。
耳鳴りの中で、それが見えた。
ソルグの胸の前の、白い矢。
さっきまで、腕一本の間合いにあった。それが、今は、肘から先ほどの間合いまで、近づいていた。
槌を使えば、矢は、一つ近づく。
ほかの者たちにも、見えたらしかった。家の兵の誰かが、うめくように言った。
「何だ、あれは……矢か?」
小舟の漕ぎ手の若い兵たちも、見ていた。一人が、櫂を握ったまま、ソルグの胸の前を凝視していた。その顔から、血の気が引いていた。
知らなかったのだ、とナオは思った。十二人目の胸の前に、何が浮かんでいたのかを。
エイヴァルが、舳先へ出た。
霞んだ剣を構えて、ナオの前に立った。槌と船の間に、自分の体を入れるように。
剣は、何も応えなかった。いつものとおりの、重い鉄の棒だった。
エイヴァルは、それを知っていて、構えていた。
ソルグが、また、槌を振り上げた。
今度は、船を狙っていた。
その顔が、歪んでいた。
泉でも、屋敷の広間でも、何も浮かべなかった顔だった。それが、今は、くしゃくしゃに歪んでいた。
目から、涙がこぼれていた。歯を食いしばって、声を殺して、それでも、涙だけは止まらずに、頬を伝って、顎から落ちていた。
槌を握る指が、白かった。
いつもより、ずっと、白かった。
振れば、船は割れる。氷の上の、この船も、乗っている者たちも。
振れば、矢は、届く。
ソルグは、それを知っていた。知っていて、振り上げていた。命令だから。はっ、と答えたから。言われたとおりにする者は、言われたとおりにするしかないから。
「指、三本!」
声がした。
甲高い、割れた声だった。
ナオは、一瞬、誰の声か分からなかった。
サリヤだった。
船べりに立って、ソルグの胸を、指さしていた。顔が、真っ赤だった。帳面が、足もとの甲板に落ちていた。
「矢が、胸まで指三本! 次に振ったら、届く!」
家の兵たちが、サリヤを見た。エイヴァルが、サリヤを見た。
サリヤは、誰の顔も見ていなかった。ソルグの胸の前の、何もないはずの宙だけを、まっすぐに見ていた。
ほかの誰にも、もう、矢は見えていなかった。槌が使われた、あの一瞬にしか見えなかったのだ。
サリヤにだけは、見えていた。
ナオの膝が、震えていた。
怖かった。
あの槌が、もう一度振り下ろされれば、空が白くなる。氷が柱になって吹き上がる。人の体など、ひとたまりもない。祖母は、稲妻の槍を落とした。けれど、あれは写しだった。あれは、本物だ。
それに、ナオは、一度も、本当に人の手を打ったことがない。
宿の裏庭。杭の結び目。何百回の型。スヴァルンの裏庭の、樺の枝。ぱしっ、と間の抜けた音。
ナオの体が、動いていた。
考えたのではなかった。口も、動かなかった。手が、先に動いた。胸に抱えていた返し布をむしり取り、中の割符を、右手で握った。
木の棒。ナオの腕ほどの長さの。
杖の長さだった。
ナオは、船べりを蹴った。
氷の上に、跳び降りた。割れた氷の上を、小舟の舳先へ、三歩。四歩。足の下で、氷が揺れた。
ソルグの目が、ナオを見た。
槌が、頂まで上がっていた。
世界から、音が消えた。
氷のきしむ音も、家の兵たちの叫びも、帆の鳴る音も。聞こえるのは、自分の息の音だけだった。手の中の割符のぬくみだけが、はっきりと分かった。
――手を打つんじゃない。手の中の物に、出ていってもらうんだよ。
膝を緩める。肘を締める。
手首の、親指の側の、骨のくぼみ。
上からではなく、下から。
こつん。
音が、戻ってきた。
祖母の杖と、同じ音だった。乾いた、小さな音。
ナオの腕に、手応えは、ほとんどなかった。ナオの力では、少年の手首を打つのが、やっとだった。祖母のように、指をひとりでに開かせるほどの力は、なかった。
それなのに。
槌が、跳ねた。
ソルグの両手は、柄を握りしめたままだった。指は、白くなるほど締まったままだった。その手の中から、槌のほうが、するりと抜けた。
握りしめた指を、内側から押し開けるようにして。まるで、そこにいるのが嫌で、自分から出ていくように。
黒い槌は、宙で一度回って、小舟の舳先の板に、どさりと落ちた。
板が、みしりと鳴った。
ナオは、自分の手の中の割符を見た。
違う、と思った。祖母の杖の落とし打ちとは、違う。ナオが落としたのではない。物のほうが、手を離れた。
なぜなのかは、分からなかった。
ナオは、小舟の舳先によじ登った。
漕ぎ手の若い兵たちは、櫂を握ったまま、誰も動かなかった。ただ、目を見開いて、ナオを見ていた。
ナオは、槌の柄に、手をかけた。
重かった。
持ち上げるのが、やっとだった。両手で柄を握り、膝を使って、ようやく胸の高さまで持ち上がった。表面を這っていた稲妻が、ナオの手の中で、ふっと細くなり、静かになった。
ソルグの胸の前で、白い矢が、揺れた。
それから、消えた。
霜が、朝日に溶けるように。音もなく。
「帳に記します」
帆柱の上で、シルシが言った。
「雷の槌。持ち手、十二人目の手を離れ、還し手ナオ殿の手へ。矢、消えました」
ソルグが、膝をついた。
両手が、空っぽのまま、宙に浮いていた。指が、まだ、柄を握る形のまま、白く固まっていた。それが、少しずつ、少しずつ、開いていった。
ソルグは、自分の胸に、手を当てた。
矢のあった場所に。
それから、顔を覆った。
声を、上げて泣いた。十六の少年の声で。何年も、何年も、出さずにいた声で。
「……なんで」
泣きながら、ソルグが言った。
「なんで、拾った。敵の、槌を」
ナオは、槌の柄を握ったまま、少し考えた。
「落ちたから」
それしか、思いつかなかった。
「落ちた物は、拾う。返し屋だから」
漕ぎ手の若い兵たちが、それを見ていた。誰も、笑わなかった。誰も、櫂を動かさなかった。一人は、唇を噛んでいた。一人は、自分の胸に、そっと手を当てていた。
沖で、角笛が鳴った。
低く、長く、三度。
帝国の船が、錨を上げはじめていた。岸を固めていた兵たちが、槍を下ろし、入り江の口のほうへ退いていく。
切り札を、失ったのだ。
小舟の若い兵たちが、顔を見合わせた。それから、一人が、ナオを見た。ナオが抱えた槌を見て、泣いているソルグを見て、もう一度、ナオを見た。
何も言わずに、その兵は、櫂を水に入れた。
小舟は、ナオとソルグを、神様の船の横まで運んで、それから、入り江の口へ、仲間の船のほうへ、漕ぎ去っていった。
去り際に、櫂を握った若い兵が、一度だけ振り返った。
その目は、ナオの手の中の、割符を見ていた。
◇
神様の船の甲板に、静けさが戻っていた。
ナオは、槌を甲板に下ろした。腕が、震えて止まらなかった。焼けた手のひらから、血がにじんでいた。
ソルグは、船べりにもたれて、まだ泣いていた。ヴァルテが、何も言わずに、その肩に自分の外套をかけていた。
「見たか、若様」
ヴァルテが、ソルグの肩に手を置いたまま、低く言った。
「あの返し屋の打ち方じゃ、俺の孫だって槍は落とさねえ。なのに、槌のほうが、小僧の手から逃げていきやがった。握られてるのが、嫌だったみてえに」
家の兵たちが、黙ってナオを見ていた。
広間で、ナオを睨んでいた兵もいた。網を持って場所を移した、年寄りの兵もいた。誰も、何も言わなかった。けれど、その目は、もう、ナオを睨んではいなかった。
ナオは、自分の右手を見た。
割符を握った手は、まだ震えていた。手のひらの二つの星から、血がにじんでいた。さっき、氷の上へ跳んだとき、自分が何を考えていたのか、思い出せなかった。ただ、膝が震えていたことだけを、覚えていた。
エイヴァルが、ナオの前に立っていた。
何か言おうとしていた。けれど、言葉が出てこないようだった。敵の少年を救った返し屋を、ただ、見ていた。
それから、エイヴァルの目が、サリヤへ動いた。
サリヤは、甲板に落ちた帳面を、拾い上げているところだった。その手が、かすかに震えていた。
「帳守」
エイヴァルが言った。
「なぜ、見えた。あの矢は、槌が使われた一瞬しか、俺たちには見えなかった。お前は、ずっと見ていた。指三本だと、言った」
サリヤは、答えなかった。
帳面の表紙の革を、両手で握りしめていた。
ナオは、口を開きかけた。
やめろ。訊くな。サリヤは、それを訊かれたくないんだ――。
「お答えいたします」
帆柱の上から、平らな声が降ってきた。
シルシだった。
「サリヤ殿の左眼は、預け物でございます。戻り眼。状態は、預かり。帳には、そう記されております」
甲板が、しんとなった。
ナオは、帆柱を見上げた。
烏は、首をかしげていた。何か悪いことを言ったとは、少しも思っていない顔だった。問われたから、答えた。帳に記されていることを。嘘は、つけないから。
サリヤが、顔を上げた。
帆柱の上の烏を、睨んでいた。
その左の目の奥に、ほのかな金色の光が揺れていた。涙ではなかった。今まで、ナオが一度も気づかなかった光だった。




