第十八話 戻り眼
「黙っててって、言ったでしょう!」
屋敷の広間に、サリヤの声が響いた。
夜だった。燃えた村の煙の匂いが、まだ屋敷の中まで漂っていた。広間の炉のまわりには、村から逃げてきた人たちが、毛布にくるまって身を寄せ合っていた。誰もが、疲れきって、黙っていた。
その中で、サリヤだけが、立っていた。
梁の上の烏を、見上げて。
「港町の鍛冶の広間で。私は、黙っててって言った」
「はい。おっしゃいました」
シルシは、首をかしげた。
「けれど、あのとき黙れと言われたのは、わたくしが証人だと名乗ったことについてでございました。今日は、若殿に問われましたので」
「問われたのは、私!」
「若殿は、なぜ見えたのか、とお尋ねでした。帳に記されていることでしたので、お答えいたしました。わたくしは、嘘をつけません。そして、知っていることを問われて、黙っているのも、嘘と同じようなものでございますので」
サリヤの手が、震えていた。
帳面を、握りしめていた。指が、表紙の革に食いこんでいた。
「あんたなんか……」
言いかけて、サリヤは、口を閉じた。
広間じゅうの人が、サリヤを見ていた。村の人も。家の兵も。エイヴァルも。ヴァルテも。ソルグも。
サリヤは、その視線の中で、一度だけ、深く息を吸った。
それから、炉のそばの腰掛けに、すとんと座った。
顔から、赤みが引いていった。いつもの、何も浮かべない顔に、戻っていった。
◇
ナオは、しばらく、サリヤに近づけなかった。
厨で、汁を椀に二つよそった。一つを、ソルグの前に置いた。ソルグは、広間の隅の、柱の陰に座りこんでいた。帝国の鎧は、もう脱いでいた。ヴァルテの古い外套にくるまって、膝を抱えていた。
「食べろ」
「……はっ」
ソルグは、椀を受け取った。
受け取ってから、自分の返事に気づいたように、少し顔をしかめた。それから、黙って汁をすすった。
椀が空になると、ソルグは、それを膝の上で両手に包んだまま、言った。
「これから、おれは、どうなる」
「どうって」
「軍団に戻れば、槌を失った兵だ。戻らなければ、脱走兵だ。どっちでも、次の命令が来る」
ナオは、少し考えた。
「ここには、命令する人はいない」
ソルグが、顔を上げた。灰色の目が、ナオを見た。嵐の前の空の色だと、ヴァルテが言っていた目だった。
「……じゃあ、何をすればいい」
「分からない」
ナオは、正直に言った。
「おれも、分からない。頼まれないと、何をすればいいのか」
ソルグは、しばらくナオを見ていた。それから、また膝を抱えて、柱に頭をもたせかけた。
けれど、目は、閉じなかった。
ナオは、もう一つの椀を持って、炉のそばへ行った。
サリヤの横に置いた。
サリヤは、帳面を膝に広げていた。けれど、筆は、取っていなかった。
ナオは、少し離れて、腰を下ろした。
広間の隅の、ナオの寝床の脇に、黒い槌が置いてあった。返し布で包みきれなかったので、ヴァルテの古い毛布で巻いてある。稲妻は、もう表面を這っていなかった。ただの、ひどく重い、黒い塊だった。
ナオの両腕には、まだ、その重さが残っていた。
昼間、氷の上で、膝が震えた。あの震えは、もう止まっていた。けれど、腕の重さだけは、まだ、そこにあった。
岬の下の浜には、まだ、神様の船が、帆を灯したまま繋がれていた。畳めば、光は消える。けれど、次に開くとき、また一つ焼ける。
帝国には、もう、ここに割符があると知られている。それなら、いつでも村の人を乗せて逃げられるように、開いたままにしておくほうがいい。ナオは、そう決めていた。
奥の戸から、ヤルナが出てきた。腕いっぱいに、毛布を抱えていた。村の人たちの間を歩いて、一枚ずつ配っていく。子どもには、二枚。
ナオの前を通るとき、ヤルナは、足を止めなかった。礼の言葉も、なかった。
けれど、ナオの寝床の脇の、毛布で巻いた黒い槌の前で、ヤルナの足が、一瞬だけ遅くなった。
ヤルナは、それを見下ろしていた。帝国が、百年手放さなかった物。帝国が、取り返しに来る物。
それから、何も言わずに、厨のほうへ歩いていった。
炉の火が、はぜた。
「……訊かないの」
サリヤが言った。炉の火を見たまま。
「何を」
「眼のこと」
ナオは、少し考えた。
「訊いてほしいなら、訊く」
「訊いてほしくない」
「じゃあ、訊かない」
サリヤは、答えなかった。
しばらくして、汁の椀に手を伸ばした。一口すすった。
それから、ナオは、一つだけ、訊いた。
訊かずにいられなかった。
「……返すの」
サリヤの手が、椀の縁で止まった。
返事は、なかった。
炉の火が、二度はぜるあいだ、サリヤは黙っていた。それから、椀を置いて、筆を取った。
サリヤは、帳面の、新しいページを開いた。
筆が、紙の上に降りた。
ナオは、横からそれを見ていた。サリヤが、何も言わなかったから。見るな、とは言わなかったから。
E。
0。
1。
その「1」の字の終わりが、ほんの少しだけ、震えて、かすれていた。
港町から、ナオは何度も、サリヤが帳面に書くのを見てきた。濡れた指でも、狼の前でも、柱の古い言葉を読み上げたあとでも、サリヤの字は、一度も乱れなかった。
その字が、一つだけ、崩れていた。
サリヤは、それを直さなかった。そのまま、続けて書いた。
戻り眼。状態、預かり。預かり人、川の帳守の会の書記、サリヤ。
筆の速さは、もう、いつもと同じだった。
その下に、一行、欄が引いてあった。帳面のどのページにもある欄だった。返し。日付。返し場。証人。
サリヤは、その欄に、何も書かなかった。
筆を置いた。帳面を閉じた。
ナオは、何も訊かなかった。
サリヤが眠ったあと、ナオは、梁の上を見上げた。
シルシが、こちらを見下ろしていた。
「還し手殿」
烏は、いつもより、少しだけ小さな声で言った。
「わたくしは、悪いことをいたしましたか」
ナオは、すぐには答えられなかった。
烏は、嘘をつかなかった。訊かれたことに、答えただけだった。それが、サリヤを、あんなふうに叫ばせた。
「……分からない」
ナオは言った。
「でも、サリヤは、自分で先に言ったんだ。指三本って。あれを言ったら、見えてるってばれるのに」
「はい」
「お前が言ったのは、そのあとだ」
烏は、首をかしげた。長いあいだ、そのままでいた。それから、羽をたたみ直して、梁の上で小さく丸くなった。
◇
夜更けに、エイヴァルが来た。
ナオは、広間の戸口の脇で、薪を積んでいた。誰に頼まれたのでもなかった。村の人たちが寒くないように、炉の火を朝まで絶やさないつもりだった。
エイヴァルは、ナオの横に立って、しばらく、黙って薪を見ていた。
「……村の者を、乗せたな」
「はい」
「あの小僧も、助けた」
「はい」
エイヴァルは、また、黙った。
それから、ひどく小さな声で、言った。
「礼を、言う」
ナオは、薪を持ったまま、エイヴァルを見た。
エイヴァルは、ナオのほうを見ていなかった。広間の天井の、梁のあたりを見ていた。耳の端が、赤かった。炉の火のせいではなかった。
「……言ったぞ」
「はい。聞きました」
「なら、いい」
エイヴァルは、背を向けて、奥の戸へ歩いていった。
途中で一度、足を止めた。
「親父は、礼の言い方を知らなかった。俺もだと、ヴァルテに言われた」
振り向かずに、それだけ言った。
「今のは、うまかったか」
「……よく、分かりません」
「そうか」
エイヴァルは、奥の戸の向こうへ消えた。
ナオは、薪を一本、炉にくべた。
戸の向こうから、かすかに、木を削る音が聞こえてきた。
◇
入り江の口の、さらに沖。
帝国の旗艦の船室で、ガルヴァドは、一人で、海図の前に立っていた。
両手を、背で組んで。
雷の槌を、失った。
百年、帝国の雷の軍団の要だった本物を。陛下が、北の守りとして、ガルヴァドに預けた物を。
捨て駒は、十一人死んだ。それは、勘定のうちだった。十二人目も、勘定のうちだった。槌そのものを失うことは、勘定に入っていなかった。
陛下の前に、空の手で立つことはできない。
何かを、持ち帰らねばならない。
ガルヴァドは、海図の上の、スヴァルンの岬を見下ろした。剣のある屋敷。割符のある屋敷。
背で組んだ両手の、指が、一度、ほどけかけた。
ガルヴァドは、それを、組み直した。
さっきより、ほんの少し、固く。
◇
夜明けに、見張りの角笛が鳴った。
帝国の角笛ではなかった。スヴァルンの角笛だった。けれど、急を告げる鳴り方ではなかった。長く、一度だけ。客を告げる鳴り方だった。
ナオは、広間の戸口から、入り江を見下ろした。
帝国の船は、いなくなっていた。
代わりに、入り江の口から、一隻の細長い船が、ゆっくりと入ってくるところだった。帆に、大きく、青い紋が染め抜かれていた。槍と波を組み合わせた紋だった。
ナオの後ろで、ヴァルテが、低く言った。
「上王の旗だ」




