第十九話 上王の使い
上王の使者は、白い髭を短く刈りこんだ、痩せた男だった。
青い外套の胸に、槍と波の紋。腰には、剣ではなく、細長い革の筒を下げていた。後ろに、槍を持った兵を六人従えている。
上王の名代として、北の諸侯の館を一軒ずつ回っているのだという。その槍の穂先は、どれも、ほとんど光っていなかった。
写しだ、とナオは思った。上王の槍の写し。本物が曇れば、写しも暗い。
「スヴァルンの若殿に、上王ロルヴェン陛下の御言葉を伝える」
広間の真ん中で、使者は、革の筒から巻いた羊皮紙を抜き出した。
広間には、まだ村の人たちがいた。毛布にくるまったまま、壁際に寄って、使者を見ていた。奥の座には、エイヴァルが座っていた。その横に、ヤルナが立っていた。
ナオは、戸口に近い腰掛けの端にいた。隣にサリヤ。柱の陰に、ソルグ。梁の上に、二羽の烏。
使者は、羊皮紙を広げ、読み上げた。
「北の諸侯に告ぐ。この冬至の明けより、烏なるものが諸侯の館に降り、預け物の返しを説いておる。惑わされてはならぬ。預け物は、千年、北を守ってきた北の守りである。神々は眠っておられる。眠る者が、取り立てに来ることはない」
使者の声は、乾いていた。
「よって、上王は、ここに禁ずる。預け物を、神々の名において返したヤールは、その日をもって、その領地を失う。領地は、上王が預かる」
広間が、ざわめいた。
使者は、羊皮紙を巻き戻し、エイヴァルを見た。
「若殿。春の集いでは、亡き先代の跡継ぎとしてのお認めがある。慣いにより、跡継ぎは、家の剣を持って上王の御前に立つ。剣を持たぬ者は、跡継ぎとは認められぬ」
使者は、一拍置いた。
「烏に惑わされ、剣を手放されることのなきよう。上王は、そうお望みである」
使者は、少し声を和らげた。
「先代は、狼の前で、最後まで剣を手放されなかったと聞く。見事なお覚悟であった。若殿も、父君に恥じぬよう」
エイヴァルの指が、柄の上で、白くなった。
エイヴァルは、黙っていた。
腰の剣の柄に、手が置かれていた。
ナオは、その手を見ていた。
剣を返せば、領地を失う。剣を持っていなければ、跡継ぎと認められない。返さなければ、明けに、神々が取り立てに来る。
どの道を選んでも、エイヴァルは、何かを失う。
「承った」
エイヴァルが、短く言った。
それ以上は、何も言わなかった。
使者は、満足したようにうなずいた。
それから、広間の中を、ゆっくりと見回した。壁際の村人たち。家の兵たち。梁の上の二羽の烏。
その目が、ナオの寝床の脇の、毛布で巻いた黒い塊の上で、止まった。
「それが、雷の槌か」
広間が、しんとなった。
「入り江の戦の噂は、ここへ来る途中の浜で聞いた。帝国の軍団が、百年前に雷の島から奪った槌を、返し屋の子どもが拾ったと」
使者は、ナオを見た。
「そなたが、その返し屋か」
「……はい」
「雷の槌は、北の物だ。雷の島の、ヴェトラの物だ。帝国の手から離れたのであれば、上王が預かる。それが、北の筋というものだ」
使者は、手を差し出した。
「渡してもらおう」
ナオの口が、はい、の形になった。
体が、勝手に立ち上がっていた。足が、寝床のほうへ向いていた。毛布で巻いた槌のほうへ。
渡せ、と言われた。偉い人に、言われた。北の筋だと、言われた。
頼まれれば、ナオは動ける。言われれば、体が先に動く。それがナオだった。船を開いたのも、槌を落とさせたのも、たった昨日のことなのに、それでも、体は、もう寝床のほうへ動いていた。
柱の陰で、ソルグが、身じろぎした。
ナオは、毛布の端に、手をかけた。
「待って」
サリヤの声だった。
サリヤが、立ち上がっていた。
帳面を、胸の前で開いていた。
「川の帳守の会の書記、サリヤ。会の帳に基づいて、申し上げる」
声は、低かった。大きくもなかった。けれど、使者が、思わずサリヤのほうを向いた。
「神預けの約、第四条。千年目の明けまでに、一つ残らず、人の手で返せ。人の手。国の手とは、書いてない。上王の手とも、書いてない」
サリヤは、ページをめくった。筆の跡を、指でなぞりながら。
「会の帳には、千年分の返しの記録がある。返されたのは、一つだけ。七百十二年、九夜の腕輪。そのときも、腕輪は、割符とともに、返し場へ運ばれた。通り道の国の王が、取り分を求めた記録は、ない」
「それは、遠い昔話だ」
「帳は、昔話じゃない」
サリヤは、使者を、まっすぐに見た。
「雷の槌は、奪いの手から落ちて、還し手の手に拾われた。今、あの槌は、返しに行く途中の物。還し手の手にある物に、上王の取り分はない」
使者の顔が、こわばった。
「書記ふぜいが、上王の御言葉に……」
「お言葉ではございますが」
梁の上から、平らな声が降ってきた。
シルシだった。
「還し手殿の手から、力ずくでお取りになれば、それは奪いでございます。奪いの物には、光の矢が向きます。帳には、そう記すほかございません」
使者が、梁を見上げた。
一瞬、その顔から、血の気が引いた。
入り江の戦の噂は、届いているのだ。十二人目の胸の前に、何が浮かんでいたのかも。
使者は、差し出していた手を、ゆっくりと下ろした。
「……陛下には、そのままお伝えする」
それだけ言って、使者は、羊皮紙を革の筒に戻した。
◇
上王の船が、入り江を出ていくのを、ナオは岬の上から見ていた。
サリヤが、隣に立っていた。
ナオは、自分の手を見た。毛布の端に、手をかけた手。
「……渡すところだった」
「知ってる」
「船を開いて、槌を拾って、それでも、言われたら、渡すところだった」
サリヤは、黙っていた。
「おれ、何も変わってない」
「一晩で変わるなら、苦労しない」
サリヤは、帳面を鞄にしまった。
「でも、言われてから、手が止まるまでが、前より少し長かった。港町の頃なら、使者が手を出す前に、あんたはもう槌を抱えてた」
ナオは、サリヤを見た。
「それ、帳に書いたのか」
「書かない。帳は、預け物の帳だから」
サリヤは、岬の坂を下りかけて、一度だけ振り返った。
「私の頭の中の帳には、書いた」
屋敷へ戻ると、広間の空気が、変わっていた。
村の人たちが、炉のまわりで、低い声で話していた。ナオが入っていくと、話し声が、ふっと止んだ。
毛布にくるまった女が、子どもを抱き寄せた。
「……帝国は、また来るよ」
誰かが、ナオに聞こえないように言った。聞こえていた。
「槌が、ここにあるんだから。取り返しに来る。割符ってのも、ここにあるんだろう。それも取りに来る」
「あの子がいるから、帝国が来るんだ」
四十年火を絶やさなかった老人が、壺を抱えたまま、その声のほうを睨んだ。話し声は、それで止んだ。
けれど、言葉は、もう広間の中に落ちていた。拾い上げることは、誰にもできなかった。
広間の奥で、エイヴァルが、剣の架の前に立っていた。
ナオが通りかかると、エイヴァルは、架を見上げたまま言った。
「返せば、領地を失う」
ナオは、足を止めた。
「持っていなければ、跡継ぎじゃない。返さなければ、明けに神が来る。……らしい」
エイヴァルは、少しだけ、ナオのほうへ顔を向けた。
「お前なら、どうする」
ナオは、答えられなかった。
祖母の言葉が、喉もとまで上がってきた。決めな。あんたが。けれど、それは祖母の言葉で、ナオの言葉ではなかった。
「……分からない」
「だろうな」
エイヴァルは、また、架の剣に目を戻した。
「俺にも、分からない」
寝床の脇へ戻ると、ソルグが、毛布で巻いた槌の前に座っていた。
触れてはいなかった。膝を抱えて、ただ、黒い塊を見ていた。
「渡さなかったな」
「サリヤが、止めた」
「そうか」
ソルグは、しばらく黙っていた。
「……雷の島の物、か」
小さな声だった。使者の言葉を、口の中で転がすような。
「島のことは、ほとんど覚えてない。浜の色と、母さんの声の高さくらいだ。この槌が、あそこにあったなんて、軍団では誰も言わなかった」
ソルグは、膝の上で、指を一本ずつ開いた。昨日まで、柄を握りしめて白くなっていた指だった。
「軍団の物だと、思ってた」
ナオは、何も言わなかった。
ソルグも、それ以上は言わなかった。けれど、黒い塊を見る目は、昨日までとは、少しだけ違っていた。
夕方、厨で、薪を割っていると、戸口に人が立った。
ヤルナだった。
「返し屋」
ヤルナは、ナオの名を呼ばなかった。いつもと同じだった。
けれど、その声は、いつもの冷たさとは、少しだけ違っていた。
「今夜、奥の部屋へ来なさい。一人で。話があります」
ヤルナは、それだけ言って、戸口から消えた。




