第二十話 母の頼み
「戸を、閉めて」
ヤルナは、炉の火から目を上げずに言った。
ナオが板戸を閉めると、広間の喧騒が、遠くの波の音のようになった。狭い部屋だった。小さな炉に、火が一つ。壁に、織りかけの機。機には、北の組紐の模様の布が、半分まで織り上がっていた。
ヤルナは、炉の前に座ったまま、向かいの腰掛けを、目で示した。
ナオは、座った。
しばらく、ヤルナは何も言わなかった。炉の火を見ていた。ナオも、黙っていた。話しはじめるまで、待つつもりだった。
「夫は」
ヤルナが言った。
「去年の秋、入り江の向こうの森で死にました。狼が出たと聞いて、真っ先に飛び出していった。剣を抜いたまま、倒れていました」
厨の女から、聞いた話だった。ナオは、黙って聞いていた。
「あの人は、剣が動かないことを知っていました。何度も、何度も、架の前で、私にそう言いました。動かないのは、自分が足りないからだと。それでも、あの人は、剣を持って出ていった。剣を持たないスヴァルンの当主など、誰も当主と呼ばないから」
ヤルナの指が、膝の上で、組み合わされていた。
「息子にも、同じ道を歩かせるつもりはありませんでした。剣など、どうでもいい。あの子が生きていれば、それでいい。そう思っていました」
ヤルナは、顔を上げた。
「けれど、あの子は、剣を持って集いへ行くでしょう。持たずには、行かない。あの人の子ですから」
ヤルナの目が、ナオの胸の返し布に落ちた。
この屋敷に来た日から、何度も、ヤルナはそこを見ていた。ナオは、今になって気づいた。ヤルナが見ていたのは、ナオではなかった。ナオの抱えている物だった。
「帝国が、この入り江に来たのは、あなたが来たからです」
声は、静かだった。責める声ではなかった。それが、かえって重かった。
「あの光る船を、入り江の真ん中で開いた。帝国の船から、それが見えた。村の者たちは、もう皆、知っています。割符は、ここにある。槌も、ここにある。帝国は、取り返しに来る。今度は、軍団の本隊で」
ナオは、膝の上で、手を握った。
二つの星の焼け跡が、痛んだ。
「あなたは、村の者を救いました。それは、礼を言います。あの船がなければ、三十一人が、氷の下でした」
ヤルナは、一度、目を閉じた。
「けれど、あなたがいるかぎり、帝国は来る。次は、村の者だけでは済まない。この屋敷も、家の兵も、息子も」
ヤルナは、炉の火から、ナオへ、まっすぐに目を向けた。
「去ってください」
ナオは、息をのんだ。
「槌と、割符を持って。この領から。帝国が追ってくるのは、あなたです。剣ではない。あなたがいなくなれば、帝国がこの入り江に来る理由は、一つ減ります」
「でも、剣は……」
「剣は、息子が持って、集いへ行きます。上王の御前に立って、跡継ぎと認められる。それで、この家は、春を越せます」
「明けまでに、返さないと……」
「明けは、一年先です」
ヤルナの声が、ほんの少しだけ、強くなった。
「一年先の神様より、春の集いのほうが、近いのです。私には」
それから、ヤルナは、膝の上で組んだ両手を、ゆっくりとほどいた。
炉の前の板の床に、両手をついた。
頭を、下げた。
「頼みます」
ナオの口が、開いた。
はい、の形になった。
体の奥の、ずっと深いところから、その言葉が上がってきた。頼まれた。この家の奥方に。床に手をついて。断れるはずがない。頼まれたことは、今まで一度も、断ったことがない。
――決めな。あんたが。
祖母の声が、耳の奥で鳴った。
その声と、目の前の、床についた白い手とが、ナオの中で、ぶつかった。
ナオは、長いあいだ、黙っていた。
ヤルナは、頭を上げなかった。
「……はい」
ナオは、言った。
「去ります」
ヤルナが、顔を上げた。
その目に、何かが浮かびかけて、すぐに消えた。安堵だったのかもしれない。あるいは、別の何かだったのかもしれない。ナオには、分からなかった。
「息子には、言わないでください」
ヤルナが言った。
「あの子は、止めるでしょう。あなたに、礼を言ったばかりですから。止めれば、あの子は、あなたと一緒に行くと言いだすかもしれない。剣を持って」
ナオは、うなずいた。
「明日の夜明け前に」
「……はい」
ヤルナは、立ち上がった。機のそばへ行き、織りかけの布に、手を触れた。もう、ナオのほうは見なかった。
ナオは、部屋を出た。
◇
薪小屋の軒下で、ナオは、膝を抱えていた。
頼まれて、はいと言った。いつもと同じだった。港町の坂で、包みを押しつけられて、はいと言ったのと。森の道の村で、手紙を渡されて、はいと言ったのと。
でも、と、ナオは思った。
でも、本当に、それだけでいいのか。
帝国が来るのは、ナオがいるからだ。それは、本当だった。ナオが去れば、帝国は追ってくる。それも、たぶん、本当だった。
なら。
追ってくる帝国を、どこへ連れていくかは、ナオが決められるのではないか。
ナオは、顔を上げた。
こっそり去れば、帝国は、ナオがいなくなったことに、すぐには気づかない。気づかないまま、この入り江に、本隊で来る。割符があると思って。
けれど、目立つように去れば。
割符と槌を持って、街道を、北へ。帝国の斥候に見えるように。槌を背負って、烏を連れて。そうすれば、帝国は、ナオを追ってくる。入り江ではなく、北の街道へ。
村から、敵を引き離せる。屋敷から。エイヴァルから。
ヤルナは、そこまでは頼まなかった。去ってくれ、と言っただけだった。
どう去るかは、頼まれていなかった。
ナオは、手のひらを開いて、星の焼け跡を見た。
頼まれたことの中に、一つだけ、自分で決めたことを入れる。
それが、今のナオにできる、精一杯だった。
◇
「北へ行く」
厨の隅で、ナオは、サリヤに言った。ソルグも、そばにいた。
「街道を。目立つように。帝国が、追ってくるように」
サリヤは、帳面を閉じた。
「誰に頼まれたの」
「去れ、とは、頼まれた」
「どう去れ、とは」
「頼まれてない」
サリヤは、しばらくナオを見ていた。
「……悪くない」
それだけ言って、鞄を肩にかけた。
「証人は、還し手に付いていく。私も行く」
ソルグは、返事の代わりに立ち上がり、ヴァルテの古い外套の襟を立てた。
「お前は、残ってもいい」
「軍団の斥候の動きなら、おれが分かる。どこに見せれば、どこまで追ってくるか」
ソルグは、ナオの寝床の脇の、毛布で巻いた槌を見た。
「それに、あれは、雷の島の物なんだろう」
「エイヴァルには、言うな」
ナオは言った。
言ってから、それが、生まれて初めての隠し事だと気づいた。
十七年、ナオは、隠し事を持ったことがなかった。持つ必要がなかった。頼まれたことをして、聞かれたことに答えて、それで一日が終わった。
エイヴァルの顔が、浮かんだ。耳の端を赤くして、礼を言う、と言った顔。今のは、うまかったか、と訊いた声。
胸の奥が、きしんだ。
◇
夜明け前、ナオは、岬の下の浜に降りた。
星がまだ、空いっぱいに残っていた。暗い穴も。北の空では、極光が、細く、静かに揺れていた。
神様の船が、浜に繋がれていた。
夜明けの色の帆が、灯ったままだった。
ナオは、船べりに、手を当てた。
「返しに行く。そのために、いまは畳む」
帆の光が、すうっと消えた。帆柱が縮み、板が外れ、骨が扇を閉じるように折りたたまれていく。浜に、闇が戻った。
ナオの腕の中に、両腕で抱えるほどの包みが残った。
それを、縄で背に負った。その上に、毛布で巻いた槌を括りつけた。重さで、膝が沈んだ。胸には、返し布にくるんだ割符。
背の荷の上に、烏が降りた。
「重い」
「わたくしは、烏ですので」
ナオは、岬の上を振り返った。
屋敷は、まだ眠っていた。奥の戸の向こうの、窓が一つ。その窓だけが、ほのかに明るかった。
木を削る音が、ここまで聞こえてくるような気がした。




