第二十一話 囮
見つかるために歩くのは、初めてだった。
港町を出てから、ナオはずっと、見つからないように逃げてきた。水路の縁を。暗渠の中を。崖の下の溝を。今日は、その反対だった。
街道は、入り江の村から北へ、森の縁を縫って延びていた。
雪は、きのうの夜に止んでいた。轍の跡が、凍った泥に深く刻まれている。荷馬車の通る道だった。夏なら、北の港へ干し魚を運ぶ車が、毎日のように行き来するのだという。
冬の今は、誰もいなかった。
ナオは、その真ん中を歩いていた。
背中には、畳んだ船の包みと、毛布で巻いた槌。重さで、一歩ごとに膝が沈む。胸には、返し布にくるんだ割符。そして、背の荷のいちばん上に、烏。
「斥候は、どこにいるんだ」
ナオが訊くと、少し後ろを歩いていたソルグが、あたりの丘を見回した。
「軍団の斥候は、見晴らしのいい場所に立つ。丘の上と、川の渡しと、森の切れ目だ。そこから見える道を通らないと、見つけてもらえない。……もう少し、高いところを歩け」
「見つけてもらう、って変な言い方だな」
「変な策だからな」
ソルグは、にこりともせずに言った。
入り江を出てから、ソルグは、少しだけ口数が増えた。ナオが何かを訊けば、はっ、ではなく、言葉で答えた。
けれど、訊かれないことは、何も言わなかった。
昼前、街道沿いの小さな村を通った。
家が四つ。井戸のそばで、腰の曲がった女が、ナオを呼び止めた。
「北へ行くなら、峠の向こうの息子に、これを」
布にくるんだ、小さな包みだった。干した木の実の匂いがした。
ナオの口が、開いた。
はい、と言う前に、ほんの一拍、間があった。背中の荷の重さを思った。北の街道を、目立つように歩く。追っ手を連れて。その先の峠の村に、帝国の兵を連れていくことになる。
「……はい」
それでも、口は、そう言った。
包みを受け取って、外套の隠しに押しこんだ。サリヤが、横で、何も言わずにそれを見ていた。
村を出てしばらく歩いたところで、ナオは、一度だけ振り返った。
南の空。入り江のほう。もう、岬も、屋敷の屋根も見えなかった。
今ごろ、エイヴァルは、ナオがいないことに気づいただろうか。気づいて、どう思っただろうか。
礼を言う、と言った人だった。今のは、うまかったか、と訊いた人だった。
「還し手殿」
背中の荷の上で、烏が言った。
「北へ向かわれるのは、返しのためでございますか」
「……違う。囮のためだ」
「さようでございますか」
烏は、首をかしげた。
「では、船は、開きません。申し上げておきます」
「分かってる」
分かっていた。開くつもりもなかった。それでも、烏にそう言われると、背中の包みが、少しだけ重くなった気がした。
昼過ぎ、街道が、低い丘を越えた。
丘の頂で、ソルグが足を止めた。
「ここだ」
ソルグは、丘の向こうの、凍った川の渡しを指さした。渡しのそばに、小さな見張り小屋のようなものがあった。煙が、一筋、上がっていた。
「あそこに、二人いる。軍団の斥候は、二人一組だ」
「見えるのか」
「煙の上がり方で分かる。軍団の焚き火は、炭を使う。煙が細くて、まっすぐだ」
ナオは、丘の頂に立った。
背中の烏が、羽を広げた。
それから、ナオは、返し布を少しだけほどいた。割符を、日の光にかざした。木の棒が、光るわけではなかった。けれど、背の荷の上で、黒い烏が羽を広げた少年の姿は、渡しの小屋から、よく見えるはずだった。
しばらくして、小屋から、人影が二つ、出てきた。
一つが、こちらを見上げていた。
もう一つが、馬に飛び乗って、南へ駆けていった。入り江のほうへ。軍団の陣のほうへ。
「見つけてもらった」
ソルグが言った。
◇
その日のうちに、追っ手が来た。
夕暮れ、街道の後ろの森の縁に、稲妻の点が並んだ。十、十五。馬の蹄の音が、凍った道を伝って聞こえてきた。
「来た」
サリヤが言った。
三人は、街道を外れて、森の中へ入った。追いつかれない程度に。けれど、見失われない程度に。ソルグが、雪の上の足跡を、わざと消し残した。折れた枝を、目につく高さに残した。
「軍団の追跡兵は、足跡より枝を見る。雪は風で消えるが、枝は残るからな」
「お前、そういうの、全部覚えてるのか」
「教えこまれた。追うほうの側でな」
ソルグは、折った枝の先を、少しだけ北へ向けた。
「追われるほうの側になるとは、思わなかった」
夜、森の中の、倒木の陰で、三人は火を焚かずに休んだ。
追っ手の焚き火が、森の向こうに、ちらちらと見えていた。ちょうど、こちらから見える距離だった。向こうからも、こちらの場所は、だいたい分かっているはずだった。
「当たったね」
サリヤが、倒木にもたれて言った。
「帝国は、あんたを追ってる。入り江じゃなくて」
「……うん」
ナオは、膝を抱えていた。
当たった。
自分で考えた策が、当たった。帝国の兵は、ナオを追って、北の森にいる。入り江の村には、いない。屋敷には、いない。エイヴァルのところには。
それなのに、胸の奥が、少しも軽くならなかった。
「エイヴァルは」
ナオは、言いかけて、やめた。
「何」
「……何でもない」
サリヤは、ナオを見た。夜の森の暗がりの中で、その左の目の奥に、ほのかな金色の光が、かすかに揺れていた。サリヤは、もう、それを隠そうとはしていなかった。
「黙って出てきたこと?」
「……」
「言えばよかったのに」
「言うなって、頼まれた」
「誰に。母親に?」
「うん」
サリヤは、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「去ってくれって頼まれて、去った。黙っててくれって頼まれて、黙った。荷物を届けてくれって頼まれて、届けた。手紙も、小刀も、薬も、人形も。今日の木の実も」
声は、低かった。責める声ではなかった。帳面に書いた行を、一つずつ読み上げるような声だった。
「頼まれたら、全部引き受けるの。それ、優しさじゃないよ」
ナオは、何か言い返そうとした。
策は、自分で考えた。去れとは頼まれたけれど、どう去るかは、自分で決めた。北の街道を、目立つように歩く。軍団を引き離す。それは、ナオが決めたことだ。
けれど、口から、言葉が出てこなかった。
自分で決めたのは、どう去るかだった。去るかどうかは、決めなかった。ヤルナに頼まれて、はいと言った。それだけだった。
ナオは、膝を抱えたまま、自分の襟もとに目を落とした。
セイタ、と縫い取ってある。
知らない男の名前。誰かが着古して、置いていった外套。
「……じゃあ、何なんだ」
小さな声で、ナオは訊いた。
「優しさじゃないなら」
サリヤは、答えなかった。
代わりに、目を閉じた。
「それは、あんたが自分で考えて」
ソルグが、倒木の向こうで、膝を抱えていた。
二人の話を、聞いていたのかどうか、分からなかった。ソルグは、ずっと、森の向こうの追っ手の焚き火を見ていた。
「頼まれたら、全部」
ソルグが、ぽつりと言った。
「軍団では、命令された、と言う。同じことだ」
ナオは、ソルグを見た。
ソルグは、焚き火を見たまま、続けた。
「命令されたら、全部やる。やらないと、自分が何をすればいいか分からない。だから、やる。……優しさなんかじゃ、ない」
サリヤが、目を開けて、ソルグを見た。
何も言わずに、また閉じた。
◇
夜明け前、ナオは、寒さで目を覚ました。
森の向こうに、追っ手の焚き火が、まだ見えていた。三つ。
ソルグが、起きていた。倒木の陰から、じっとその火を見ていた。眠らずに、ひと晩じゅう見ていたのかもしれなかった。
「……追っ手、何人だ」
ナオが訊くと、ソルグは、焚き火を見たまま答えた。
「焚き火が三つ。一つに五人。十五人。馬は、十頭もいない」
「それって、多いのか」
ソルグは、すぐには答えなかった。
口が、一度、開きかけて、閉じた。何かを言いかけて、やめたようだった。
「……少ない」
それだけ言った。
灰色の目が、暗がりの中で、焚き火から、南の空へ動いた。入り江のほうへ。
割符と、雷の槌を追うのに、十五人。




