第二十二話 分かれた軍
二日目も、追っ手は付いてきた。
付いてくるだけだった。
ナオたちが街道を歩けば、後ろの森の縁に、稲妻の点が見える。ナオたちが森へ入れば、点も森へ入る。ナオたちが休めば、点も止まる。
近づいてこなかった。
一度、峠の手前で、ナオたちは道を外れ、谷へ下りた。追っ手の点は、谷の上で一刻ほど止まり、それから、ゆっくりと谷へ降りてきた。ナオたちが谷を抜けて丘へ登ると、点も、丘の下まで来て、また止まった。
「……追いつく気がないみたいだ」
ナオが言うと、サリヤが、後ろを振り返った。
「馬があるのに」
「休んでるのかな」
「十五人が、二日も?」
サリヤは、眉を寄せた。
ソルグは、何も言わなかった。
朝から、ずっと黙っていた。歩きながら、ときどき振り返って、後ろの点を数えていた。
峠の村で、木の実の包みを、腰の曲がった女の息子に届けた。
息子は、母の字で書かれた札を見て、包みを受け取った。礼を言われた。ナオは、頭を下げた。
息子は、それから、ナオの肩越しに、峠の下を見た。
「下の、あの兵たちは、あんたらの連れかい」
「……いいえ」
「帝国の兵だろう。三日前から、北の街道に出るようになった。何を探してるんだか」
息子は、包みを胸に抱えたまま、戸を閉めた。閂を下ろす音が、外まで聞こえた。
村を出るとき、ナオは、村の入り口から、後ろの街道を見下ろした。
稲妻の点が、峠の下で、止まっていた。
この村に、帝国の兵を連れてきた。ナオが、連れてきた。
包みを届けて、礼を言われて、それで一日が終わる。港町では、いつもそうだった。ここでは、終わらなかった。
◇
その夜、峠の上の、岩の窪みで、三人は休んだ。
追っ手の焚き火が、峠の下に、三つ見えていた。
ナオは、膝を抱えて、それを見ていた。
ソルグが、岩の縁に立っていた。ずっと、焚き火を見下ろしていた。
「……はっ」
ソルグが、小さく言った。
ナオは、顔を上げた。誰も、ソルグに何も言っていなかった。
ソルグは、自分の口を、手で押さえていた。言いかけた言葉を、押しとどめるように。
それから、手を下ろした。
「違う」
ソルグが言った。
焚き火を見たまま。
「あれは、追っ手じゃない」
ナオは、立ち上がった。
「どういうことだ」
ソルグは、振り向かなかった。けれど、言葉は、止まらなかった。一つ言うと、次の言葉が、喉の奥から引きずり出されるように出てきた。
「軍団には、獲物を追うやり方が、二つある。一つは、追いついて、捕まえる。もう一つは、追いつかないで、走らせる。獲物が逃げる方へ、少しだけ追っ手を付ける。獲物は、追われていると思って、走り続ける。どこまでも、追っ手の思う方へ」
ソルグの声は、平らだった。軍団で、何かを暗唱させられた声だった。
「囮を追う囮、と軍団長は呼んでた。獲物が、自分が囮だと思っているときに、いちばんよく効く、と」
サリヤが、立ち上がった。
「じゃあ、本隊は」
「ここにはいない」
ソルグは、南の空を見た。
「最初から、追ってきてない。追っ手を十五人だけ付けて、残りは……」
言葉が、止まった。
ソルグの灰色の目が、ナオを見た。
「入り江へ、戻った」
ナオは、岩の縁へ走った。
峠の下の三つの焚き火の、さらに向こう。南の、ずっと遠く。夜の闇が、海と陸の境目で、わずかに薄くなっているあたり。
そこに、光の糸があった。
細い、青白い点の連なり。一つひとつは、針の先ほどにも見えない。それが、何百と連なって、海沿いを、ゆっくりと南へ動いていた。入り江のほうへ。
稲妻の槍の、穂先だった。
「……シルシ」
ナオは、背中の荷の上の烏に言った。
「お前は、分かってたのか」
「いいえ」
烏は、首をかしげた。
「わたくしに見えるのは、帳に載る物だけでございます。兵の数も、軍団長殿のお考えも、帳には載りません」
嘘をつけない烏の、正直な答えだった。
ナオは、光の糸から、目を離せなかった。
ナオは、動けなかった。
「……でも、おれが、北へ行けば、帝国は、おれを追って……」
「軍団長は、読んでた」
ソルグが言った。
「お前が、屋敷を出ていくことを」
「どうして」
「北の港町から北へ渡る船の上で、軍団長が副官と話してた。俺は、甲板の隅で、槌の番をしてた。……返し屋の小僧は、頼まれれば何でもする、と言ってた。婆さんを連れていった朝、小僧の家の軒下に、頼まれ荷が三つも積んであった、と」
ナオの息が、止まった。
――あれは、坊主が運んできたのか。
――三つもか。
あの朝の、平らな声。軒下の三つの荷を見下ろした、背の高い影。
「軍団長なら、こう読む。あの家の者は、いずれ小僧に出ていけと言う。言われれば、小僧は出ていく。割符と槌を持って。そうすれば、屋敷には、剣だけが残る」
ソルグは、目を伏せた。
「船の上で聞いたときは、何の話か分からなかった。今、分かった」
ナオは、岩の窪みに、膝をついた。
村から、敵を引き離せる。屋敷から。エイヴァルから。
頼まれたことの中に、一つだけ、自分で決めたことを入れた。それが、ナオの精一杯だった。
その精一杯が、最初から、あの男の手の中にあった。
去れと頼まれれば、去る。それをガルヴァドは読んでいた。目立つように去れば、追っ手が来ると思うだろう。
それも、たぶん、知っていた。だから、十五人だけ付けた。ナオが、自分の策が当たったと思って、北へ、北へと歩き続けるように。
自分で決めたと思っていたことまで、読まれていた。
「……頼まれたら、全部」
ナオは、つぶやいた。
「全部、引き受ける。それを、知られてた」
サリヤは、口を挟まなかった。
ゆうべ、サリヤは、それは優しさじゃない、と言った。今、ナオには、それが何なのか、分かった気がした。
弱みだった。
ナオがいちばん、自分では見えなかったところを、敵が、いちばんよく見ていた。
ナオは、自分の襟もとを見下ろした。
セイタ。知らない男の名前。
港町の宿を出てから、ナオが自分で決めたことは、いくつあっただろう。行く、と言った。船を開いた。槌を落とさせた。北へ、と言った。
その全部が、本当に、自分で決めたことだったのか。
ナオには、もう、分からなかった。
「戻るの」
サリヤが言った。
ナオは、顔を上げた。
「入り江へ。今から、峠を降りて、夜通し歩けば、二日」
ナオの口が、開いた。
戻る、と言いかけた。言葉は、喉の奥で止まった。
「……約束した」
「誰と」
「ヤルナさんと。去るって」
サリヤは、ナオを見ていた。
「エイヴァルには、言わずに、去るって」
ナオは、膝を抱えた。
戻れば、約束を破る。頼まれたことを、途中で放り出す。それに、戻れば、割符と槌を、帝国の本隊の前に差し出すことになる。それこそ、あの男の思うつぼかもしれない。
どちらへ行っても、読まれている気がした。
ソルグが、岩の縁に立ったまま、南の空を見ていた。
何も言わなかった。けれど、その手が、何かを握るように、ゆっくりと閉じたり開いたりしていた。槌の柄の形に。
◇
同じ夜。
スヴァルンの屋敷の、奥の部屋。
エイヴァルは、小さな炉の前で、木を彫っていた。
組紐の溝が、白い木の上を、どこまでも途切れずに伸びていた。小刀の刺さった穴の脇から、ずっと。
もう、手のひらの半分を、模様が覆っていた。端のほうに、何か別の形が彫られはじめていた。葉の形だった。一枚の、細長い葉。
屋敷の中は、静かだった。
返し屋がいなくなって、二日。誰も、どこへ行ったのか、エイヴァルに言わなかった。母に訊いても、答えなかった。
ヴァルテは、知らないと言った。本当に知らない顔だった。母だけが、何も言わずに、織りかけの機の前から動かなかった。
小刀の先が、葉の筋を、一本、刻んだ。
そのとき、角笛が鳴った。
岬の上の、見張り台からだった。
短く、鋭く、何度も。




