第二十三話 動かない剣
稲妻が、岬の坂を埋めていた。
エイヴァルは、屋敷の門の上の見張り台から、それを見下ろしていた。
数えるのは、やめた。百を超えたところで、数える意味がなくなった。入り江の岸から、焼けた村の跡を抜けて、岬の坂の下まで。青白い穂先の点が、夜の闇を埋めつくしていた。
坂の下の、点のいちばん後ろに、松明が一つ、掲げられていた。
その光の中に、背の高い影が立っていた。
両手を背で組んで。
「軍団長自らか」
隣で、ヴァルテが言った。色の戻った左手で、門の上の手すりを握っていた。
「槌を失ったんだ。手ぶらじゃ帰れねえ」
エイヴァルは、腰の剣の柄を握った。
霞んだ刃。光らない刃。
屋敷の中には、人がいっぱいだった。
焼け出された村の者たちが、広間に、厨に、廊下に、身を寄せ合っていた。三十一人。四十年火を絶やさなかった老人が、壺を抱えて、炉のそばに座っていた。子どもたちが、母親の膝に顔を埋めていた。
家の兵は、十九人。
村の男たちのうち、動ける者が十人ほど、斧や銛や櫂を持って、門の内側に並んでいた。写しを持たない手だった。
「若様」
年寄りの兵が、門の下から呼んだ。
「写しの光が、また落ちました」
エイヴァルは、門の内側を見下ろした。
家の兵たちの写しが、松明の下で、かすかに光っていた。かすかに、だった。蝋燭の燃えさしよりも、さらに弱い。入り江の戦の日より、ずっと暗くなっていた。
一本だけ、違った。
ヴァルテの古い写しだけが、小さく、ぶれずに光っていた。
奥の戸から、母が出てきた。
エイヴァルの腕をつかんで、廊下の陰へ引いた。
「剣を持って、裏の崖から降りなさい。舟小屋に、小舟が一つ残っています。フロイスタまで、海沿いに行けば十日」
「母上」
「帝国が欲しいのは、剣です。剣がここになければ、帝国はここに用がない。あなたは、剣を持って、集いへ行きなさい。春まで、どこかに隠れて」
母の指が、エイヴァルの腕に食いこんでいた。
エイヴァルは、その指を、一本ずつ外した。
「村の者を、置いていけと言うのか」
「あなたが死ねば、この家は終わります」
「俺が逃げれば、この家は、もう終わってる」
エイヴァルは、母に背を向けた。
後ろで、母が、何かを言いかけて、やめる気配がした。
◇
角笛が、坂の下で鳴った。
稲妻の点が、いっせいに動いた。
坂を駆け上がってくる。何百という足音が、凍った地面を揺らした。最初の稲妻が、門の扉に落ちた。分厚い樫の板が、焦げて煙を上げた。
「弓!」
エイヴァルが叫んだ。
門の上から、家の兵が矢を射た。何本かが、坂の兵に当たった。けれど、稲妻の点の数は、少しも減らなかった。
二本目の稲妻。三本目。
門の扉が、きしんだ。
エイヴァルは、門の上から飛び降りた。
剣を抜いた。
門の扉の脇の、くぐり戸が、外から叩き破られた。帝国の兵が、一人、二人、狭い戸口から押し入ってくる。
エイヴァルは、剣を振った。
重い。振る腕より先に、剣の重さが体を持っていく。霞んだ刃が、帝国の兵の槍を打ち払った。兵がよろめいた。もう一度振る。兵が倒れた。
剣は、何もしなかった。
エイヴァルの腕と、肩と、背中だけで、振られていた。毎晩、毎晩、中庭で振ってきた腕と肩と背中だけで。
――剣が、戦ってくれる男になりたかった。
炉の前で、返し屋に言った言葉が、胸の奥で鳴った。
剣は、今も、戦ってくれなかった。
「動け」
エイヴァルは、柄に向かって、ささやいた。
誰にも聞こえないほどの声で。
「一度でいい。今だけでいい。動いてくれ」
剣は、重いままだった。
くぐり戸から、次々に兵が押し入ってくる。
家の兵が、写しで受けた。写しの光が、帝国の稲妻に触れるたびに、さらに細くなっていく。一人が、槍に肩を貫かれて倒れた。村の男が、櫂を振り回して、その兵を戸口の外へ押し戻した。
黒ずんだ、古い櫂だった。帝国の兵の槍の穂先が、その柄を打った。古い櫂は、軋みもしなかった。
村の男は、それに気づいてもいないようだった。ただ、毎朝漁に出るときと同じ手つきで、櫂を握り直した。
ヴァルテが、くぐり戸の真ん前に立った。
古い写しを、両手で構えて。
押し入ろうとした帝国の兵の槍が、その刃に触れた。稲妻が、ばちりと散った。兵が、後ろへ吹き飛んだ。
次の兵も。その次の兵も。
狭いくぐり戸を、ヴァルテ一人が、塞いでいた。
ぶれない、小さな光で。
エイヴァルは、ヴァルテの背中を見ていた。
曲がった背中。白い髭。二百年、ヴァルテの家が研いできた写し。
自分の手の中の剣を、見下ろした。
千年の、神様の剣。この家が、何百年も、家の誇りと呼んできた剣。
ヴァルテの写しのほうが、ずっと強かった。
入り江の氷の上で見た、夜明けの色の帆が、目の奥によみがえった。返し屋の手で開いた、神様の船。預け物の、本当の姿。
あれと同じ神様の物が、今、自分の手の中にある。
そして、何もしない。
◇
門の内側の、広間の戸口に、母が立っていた。
村の女たちと一緒に、怪我をした兵を中へ運び入れていた。血に濡れた手で、布を裂いていた。
エイヴァルは、母のそばへ走った。
「母上」
ヤルナが、顔を上げた。
「返し屋は、どこへ行った」
ヤルナの手が、止まった。
「あいつがいれば、あの船で、村の者を逃がせる。入り江の日みたいに。どこへ行ったんだ。二日も前から」
母は、答えなかった。
エイヴァルは、母の顔を見ていた。
母の目が、そらされた。
エイヴァルの顔から、広間の床へ。血に濡れた布へ。自分の手へ。
ほんの一瞬だった。けれど、エイヴァルは、それを見た。
母は、知っている。
知っていて、言わない。
「……逃げたのか」
エイヴァルの声が、低くなった。
母は、答えなかった。
答えないことが、答えだと、エイヴァルは思った。
門の扉が、また、きしんだ。
エイヴァルは、母に背を向けた。
逃げたのだ。
割符と、槌を持って。帝国が来ると分かって。村の者を、三十一人、助けたあとで。礼を言われたあとで。
――礼を、言う。
――はい。聞きました。
あの夜の、炉の前の、少しも上手くなかった礼。
エイヴァルは、胸の隠しに、手をやった。
白い木切れが、そこにあった。組紐の溝が、手のひらの半分を覆って、その端に、彫りかけの細い葉が一枚。
何のために彫っていたのか、自分でも、分からなかった。
エイヴァルは、木切れを握りしめた。隠しから引き出して、炉の火の中へ投げこもうとした。
腕が、上がらなかった。
エイヴァルは、木切れを、また隠しの奥へ押しこんだ。それから、手を離した。
剣の柄を、握り直した。
指が、白くなるほど。
◇
くぐり戸の前で、ヴァルテが、膝をついていた。
息が、白く、荒かった。古い写しの切っ先が、地面に刺さっていた。それを杖にして、ヴァルテは、まだ戸口を塞いでいた。
「ヴァルテ!」
「……若様。年寄りに、夜通しの番は、ちときつい」
ヴァルテは、笑おうとした。うまく、笑えていなかった。
門の外で、角笛が鳴った。
これまでとは、違う鳴り方だった。低く、長く、一度。
稲妻の点が、門の前から、いっせいに左右へ退いた。
門の正面が、空いた。
その空いたところへ、坂の下から、何かが運ばれてくる。何十人もの兵が、肩に担いで。太い丸太だった。先端に、鉄が巻いてある。鉄に、稲妻の写しの穂先が、何本も、何本も打ちこまれていた。
丸太の先が、青白く、まぶしく光っていた。
エイヴァルは、門の上へ駆け上がった。
丸太を担いだ兵たちが、坂を駆け上がってくる。
その後ろで、松明の光の中の背の高い影が、両手を背で組んだまま、顎で、門を示した。
丸太が、門にぶつかった。
稲妻が、扉の中を走った。
樫の板が、内側から、裂けた。




