第二十四話 ヴァルテ
門の扉が、内側へ倒れた。
裂けた樫の板が、門の内側の雪の上に、どうっと音を立てて崩れ落ちた。その向こうから、稲妻の点が、潮のように流れこんでくる。
エイヴァルは、門の上から、まっすぐに飛び降りた。
剣を、振り上げて。
最初の兵の槍を、打ち払った。次の兵の肩を、剣の重さごと叩いた。三人目の穂先が、エイヴァルの脇腹をかすめた。外套が裂け、熱いものが、脇を伝って流れた。
かまわなかった。
「下がるな!」
家の兵たちが、門の内側に、写しを並べた。光の消えかけた写しを。村の男たちが、斧と、銛と、櫂を構えた。
稲妻の点の波が、その列にぶつかった。
戦は、門の内側の、狭い雪の上で続いた。
家の兵が、写しで稲妻を受け止める。光の消えかけた写しは、受け止めるたびに、さらに細くなった。村の男が、銛で兵の足を払う。
櫂で、槍の柄を叩き落とす。漁の手つきだった。網を引き、舟を漕ぎ、魚を突く手つきで、男たちは戦っていた。
広間の戸口では、村の女たちが、倒れた兵を中へ引きずりこんでいた。
壺を抱えた老人が、戸口の脇に立って、入ってこようとする帝国の兵の前に、黙って立ちはだかった。兵は、その老人を突き飛ばそうとして、なぜか、手を止めた。
「火を消せと言われた家は、一軒も喰われなかった」
老人が、誰に言うともなく言った。
「この屋敷も、喰わせはせん」
どれくらい戦ったのか、エイヴァルには分からなかった。
腕が、上がらなくなっていた。剣が、ひどく重かった。いつもより、ずっと重かった。脇腹の傷が、息をするたびに焼けるように痛んだ。
家の兵が、一人、また一人と、倒れていった。
気がつくと、エイヴァルの横に立っていたのは、ヴァルテだけだった。
ヴァルテの古い写しは、まだ光っていた。小さく、ぶれずに。
「若様、まだ立てますかい」
「立ってる」
「なら、上等だ」
ヴァルテは、白い髭の中で、にやりと笑った。
帝国の兵が、退いた。
門の内側の雪の上に、ぽっかりと空いた場所ができた。そこへ、坂の下から、丸太が、また運ばれてくる。稲妻の穂先を何本も打ちこんだ、あの丸太が。
今度は、門ではなかった。
丸太の先は、エイヴァルを向いていた。
「若様!」
ヴァルテの声がした。
丸太の先の稲妻が、膨れ上がった。
エイヴァルは、剣を構えた。剣は、重いだけだった。何も応えなかった。白い光が、視界いっぱいに広がった。
その光の前に、曲がった背中が、割りこんだ。
音が、消えた。
世界が、白くなった。
気がつくと、エイヴァルは、雪の上に仰向けに倒れていた。耳が、鳴っていた。焦げた匂いがした。体の上に、何か重いものが、覆いかぶさっていた。
ヴァルテだった。
エイヴァルは、体を起こした。ヴァルテの体が、雪の上に、ずるりと滑り落ちた。
「ヴァルテ」
ヴァルテの外套の背中が、黒く焼け焦げていた。
その下が、どうなっているのか、エイヴァルは見なかった。見られなかった。
「ヴァルテ!」
ヴァルテの目が、薄く開いた。
「……若様」
かすれた声だった。息の下から、やっと絞り出すような。
「怪我は」
「ない。お前が……お前が、かばったから」
「そうかい」
ヴァルテの唇の端が、ほんの少し、上がった。
「なら、上等だ」
ヴァルテの右手が、雪の上を探った。
古い写しの柄を、探していた。エイヴァルは、それを拾って、ヴァルテの手に握らせようとした。
ヴァルテは、握らなかった。
代わりに、その柄を、エイヴァルの手のほうへ、押し戻した。
「……こいつは、写しだ」
ヴァルテが言った。
一語ずつ。息を継ぎながら。
「借り物じゃ、ねえ。……二百年、うちの手が、研いだ。俺の親父も。そのまた親父も。毎晩、研いで、油を引いて、狼を追った」
ヴァルテの目が、エイヴァルを見た。
いつもの、ぶっきらぼうな目ではなかった。エイヴァルが一度も見たことのない目だった。何十年も、口に出さずにきたものを、一度に全部、出してしまおうとする目だった。
「若様が、生まれた晩にな……俺は、屋敷の外で、角笛を吹いてた。一晩じゅう。旦那さまに、うるせえって怒られた」
ヴァルテの息が、乱れた。
「若様が、剣に笑われてるのを、ずっと見てた。夜中に、独りで振ってるのも。……俺は、何も言えなかった。剣のことは、分からねえから。分かるのは、こいつだけだ」
ヴァルテの手が、写しの柄の上で、エイヴァルの手を、上から押さえた。
色の戻った、左の手だった。温かかった。
「今度は、お前が研げ」
それが、最後の言葉だった。
ヴァルテの手から、力が抜けた。
写しの柄の上に、エイヴァルの手だけが、残った。
エイヴァルは、動かなかった。
ヴァルテの体を、膝の上に抱えたまま、焦げた雪の上に座っていた。まわりで、戦の音がしていた。稲妻の音。叫び声。誰かが倒れる音。それが、ひどく遠くに聞こえた。
雪が、降りはじめていた。
白い髭の上に、ひとひら、落ちた。溶けなかった。
エイヴァルは、それを、指で払った。何度払っても、また落ちてきた。
◇
雪を踏む音がした。
重い靴の音。ゆっくりと、急ぐ様子もなく。
エイヴァルは、顔を上げた。
空いた場所の真ん中に、背の高い男が立っていた。帝国の外套。雷の紋の鎧。腰には、ありふれた鉄の剣。
両手を、背で組んでいた。
「スヴァルンの若殿」
平らな声だった。
「雷の軍団長、ガルヴァドだ。使者が、世話になった」
エイヴァルは、ヴァルテの体のそばから、立ち上がった。
右手に、神様の剣。左手に、ヴァルテの写し。
ガルヴァドの目が、その二本を見た。それから、エイヴァルの脇腹の血を見た。
「剣を、渡してもらおう」
「断る」
「なぜだ」
ガルヴァドは、本当に知りたいというように、首を傾けた。
「神に返して、何が残る。領地を失い、跡継ぎの座を失い、写しは光を失う。そうして、また千年、眠っている連中の顔色をうかがって暮らすのか。神に借りた物で守られた家は、神の機嫌ひとつで潰れる」
ガルヴァドは、雪の上の剣を見た。
「帝国は、違う道を選ぶ。借りた物を、自分の物にする。神から自由になる。陛下は、そうお決めになった。俺も、そう思う。……俺の生まれた土地は、神に祈って、帝国に呑まれた。祈っても、誰も降りてこなかった」
「それでも、断る」
「そうか」
ガルヴァドは、少しも表情を変えなかった。
顎で、広間のほうを示した。
エイヴァルは、振り向いた。
広間の戸口に、帝国の兵が、十人ほど並んでいた。槍の穂先を、戸口の内側へ向けて。その向こうに、村の女たちと、子どもたちと、壺を抱えた老人と、母の顔が見えた。
「剣を、そこに置け」
ガルヴァドが言った。
「置かなければ、広間に、稲妻を撃ちこむ。中には、三十人ほどいたな」
エイヴァルの手が、震えた。
母が、戸口の奥から、こちらを見ていた。何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。母の目が、エイヴァルの手の中の剣と、エイヴァルの顔を、行ったり来たりしていた。
エイヴァルは、剣を、雪の上に置いた。
霞んだ刃が、焦げた雪の上に、横たわった。
ガルヴァドは、それを見下ろしていた。
「軍団長」
副官が、横から言った。
「持ち手を、呼びますか。十三人目を」
ガルヴァドは、すぐには答えなかった。
「……いや」
平らな声だった。けれど、エイヴァルは、その声の底に、初めて何か別のものを聞いた気がした。
「槌を失った軍団長が、駒に持たせた剣を、陛下の前に差し出せるか。槌の代わりに持ち帰るなら、この手で持ち帰る。そうでなければ、陛下の前には立てん」
ガルヴァドの、背で組んでいた両手が、ほどけた。
エイヴァルは、それを見ていた。
ソルグの話に聞いた男。奪い物を自分の手で持たず、矢が近づけば兵に押しつけてきた男。その男の手が、背中から前へ回ってきて、雪の上の剣の柄を、つかんだ。
ガルヴァドが、剣を持ち上げた。
剣が、変わった。
霞んでいた刃が、黒く濁った。白い霧が、墨を流したように、黒い煙に変わっていく。刃の縁から、細い棘のようなものが、ぎざぎざと伸びはじめた。柄の組紐の彫りの溝に、黒いものが、染みこむように広がっていった。
霞んだ剣ではなかった。
黒い、棘だらけの、ひどく荒々しい剣だった。
ガルヴァドは、黒い剣を、一度だけ、横に振った。
確かめるように。
黒い風が、門の内側の雪を、根こそぎ巻き上げた。焦げた雪煙が、エイヴァルの顔を打った。霞んでいたころの剣には、一度も出せなかった力だった。
その一瞬、エイヴァルにも、見えた。
ガルヴァドの胸の前の宙に、細い、白い矢が浮かんでいた。鏃を、まっすぐガルヴァドの胸に向けて。人の背丈を二つ重ねたほどの間合いで。
雪煙が落ちると、矢は、エイヴァルの目には見えなくなった。
ガルヴァドは、自分の胸の前を、見下ろした。その目は、まだ、そこに何かを見ているようだった。
それから、笑った。
短く、低く。喉の奥で。
「なるほど。こういう眺めか」
十一人の持ち手が、死ぬ前に見ていた眺め。十二人目が、泣きながら見ていた眺め。
ガルヴァドは、矢から目を上げた。黒い剣を、肩に担いだ。
「まだ遠い。近づいたら、そのときは、また誰かに持たせればいい」
副官が、黙ってうなずいた。
ガルヴァドは、エイヴァルを見た。
「若殿は、連れていく。上王は、スヴァルンの跡継ぎを、欲しがるだろう。帝国と上王の、取引の種になる」
エイヴァルの中で、何かが切れた。
叫んでいた。言葉ではなかった。左手のヴァルテの写しを振りかぶって、ガルヴァドの背中へ跳んだ。
届かなかった。
横から、帝国の兵の槍の柄が、エイヴァルの脇腹の傷を打った。息が、止まった。雪の上に、顔から倒れた。もう一度、立とうとした。膝が、崩れた。帝国の兵が、両側から腕をつかんだ。
ガルヴァドは、振り向きもしなかった。
左手に、ヴァルテの写しが残っていた。兵の一人が、それをもぎ取ろうとした。
「それは、要らん」
ガルヴァドが言った。振り向きもせずに。
「ただの写しだ。帝国の鋳場に、いくらでもある」
兵が、手を離した。
エイヴァルの左手に、ヴァルテの写しが残った。
小さく、ぶれずに、光っていた。
◇
兵に引きずられて、門を出るとき、エイヴァルは、一度だけ振り返った。
広間の戸口に、母が立っていた。
兵に引かれていく息子を見て、母は、一度だけ戸口から踏み出しかけた。帝国の兵の槍が、その前で交差した。
槍の穂先が下ろされても、母は、そこから動かなかった。両手を、胸の前で組んでいた。指が、白くなるほど、固く。
母の唇が、動いた。
声は、聞こえなかった。何と言ったのかも、分からなかった。
ただ、母が、エイヴァルの顔ではなく、門の外の、北へ続く街道のほうを見ていたことだけは、分かった。
返し屋が去った方角を。
なぜ母がそちらを見ているのか、エイヴァルには分からなかった。
組んだ母の両手が、一度だけ、ほどけかけて、また組まれた。
門の外の坂の上で、エイヴァルは、空を見上げた。
夜が、白みはじめていた。
屋敷の破れた大戸の奥から、黒い影が一つ、飛び立った。
冬至の朝から、ずっと戸口の梁に居座っていた烏だった。一度も動かなかった、取り立ての烏。
烏は、屋根の上を一度だけ回り、それから、まっすぐに北へ飛んでいった。
北の街道の方角へ。




