第二十五話 頼まれてない
峠の上で、夜が明けた。
ナオは、眠らなかった。岩の窪みに膝を抱えて、南の空を見ていた。光の糸は、夜のうちに見えなくなっていた。入り江に、着いたのだろう。
峠の下の追っ手の焚き火は、まだ三つ、燃えていた。
サリヤも、眠っていなかった。帳面を膝に広げて、何も書かずに、ずっと同じページを見ていた。
ソルグは、岩の縁に座って、南を見ていた。
羽音がした。
ナオは、顔を上げた。
烏が、降りてきた。
シルシではなかった。シルシは、ナオの背の荷の上にいた。降りてきたのは、もっと年寄りの烏だった。羽の黒が、少しだけ色褪せている。
スヴァルンの屋敷の、梁の上の烏だった。
冬至の朝から、一度も動かなかった、取り立ての烏。
背の荷の上で、シルシが、首を低くした。若い烏が、年寄りの烏に頭を下げるように。年寄りの烏は、シルシのほうをちらりとも見なかった。
烏は、岩の窪みの前の、雪の上に降りた。ナオを見上げた。
そして、口をきいた。
シルシよりも、ずっと低い、しわがれた声だった。
「還し手に、帳の知らせを申し上げる」
ナオの背筋が、冷たくなった。
「賢き者の剣。持ち手が、替わった。前の預かり人、スヴァルンの跡継ぎ、エイヴァルの手を離れ、帝国の軍団長、ガルヴァドの手へ」
烏は、一度、羽をふくらませた。
「状態、奪い」
誰も、何も言わなかった。
峠の上を、風が吹き抜けた。
「……エイヴァルは」
ナオの声は、かすれていた。
「エイヴァルは、どうなった」
「帳に載るのは、預け物と、その持ち手だけ。前の持ち手のことは、帳から外れた」
年寄りの烏は、平らに言った。シルシと同じ、嘘をつけない者の声だった。
「ただ、剣は、軍団長の船にある。前の持ち手も、同じ船に乗せられたのを、見た」
生きている。
連れていかれた。
烏は、それだけ言うと、羽を広げた。北へ。どこかへ。あの剣が返されるはずだった、北の空の、極光の橋のほうへ飛んでいった。
見届けるべきものが、まだ残っているとでも言うように。
◇
ナオは、岩の窪みに座りこんでいた。
手が、震えていた。
剣を、奪われた。
ナオがいなかったから。ナオが、去ったから。去れと頼まれて、はいと言ったから。自分の策が当たったと思って、北へ、北へと、追っ手を連れて歩いていたから。
その間に、本隊は、入り江へ戻った。
そして、屋敷を落とした。
ナオの頭の中に、屋敷の人たちの顔が、次々に浮かんだ。厨の女。網を繕っていた年寄りの兵。馬番の少年。壺を抱えた老人。毛布を配っていたヤルナ。
ヴァルテ。
――いい手だな、返し屋。物に、握らせてもらってる手だ。
武具小屋で、片手で刃を研ぎながら、そう言った老人。
エイヴァル。
奥の部屋の戸の向こうから、聞こえてきた、木を削る小さな音。
――礼を、言う。
――今のは、うまかったか。
「……おれが、去ったから」
ナオは、つぶやいた。
「おれが、去ったから」
「戻るの」
サリヤが言った。
昨夜と、同じ言葉だった。
ナオは、顔を上げた。
サリヤは、帳面を閉じていた。膝の上で、両手で、その革の表紙を押さえていた。
ナオは、答えようとした。
口が開いた。言葉は、出てこなかった。
去ると、約束した。ヤルナに。床に手をついて頼まれて、はいと言った。
誰も、戻れとは言っていない。
ヤルナも。エイヴァルも。年寄りの烏も。誰一人、ナオに、戻ってくれとは頼んでいない。
それに、戻ればどうなる。軍団の本隊がいる入り江へ、割符と槌を抱えて。それこそ、ガルヴァドの思うつぼではないのか。あの男は、また、ナオの性分を読んでいるのではないか。頼まれなくても、助けに来る小僧だと。
分からなかった。
どちらへ行っても、読まれている気がした。
「シルシ」
ナオは、背の荷の上の烏に言った。
「おれが戻ったら、あの男の思うつぼか」
「分かりません」
烏は、すぐに答えた。
「軍団長殿のお考えは、帳には載りません。還し手殿が戻られて、何が起きるかも。わたくしに分かるのは、起きたことだけでございます」
ナオは、烏を見た。
分からない。この烏は、いつもそう言う。チヨが生きているかも。軍団の本隊がどこにいるかも。
分からないことを、分からないと言う。サリヤの帳と、同じだった。
「頼まれてないよ」
サリヤが言った。
ナオは、サリヤを見た。
サリヤの顔は、いつもの、何も浮かべない顔だった。けれど、その左の目の奥で、金色の光が、かすかに揺れていた。
「誰も、あんたに、戻ってくれって頼んでない。去ってくれって、頼まれただけ。あんたは、その頼みを引き受けた。だから、あんたは、ここにいる」
サリヤの声は、低かった。責める声ではなかった。帳面の一行を読み上げるような、事実だけの声だった。
「頼まれてない。それでも、戻るの」
ナオは、黙っていた。
風が、また吹いた。
ナオは、胸の返し布に、手を当てた。
割符が、ぬくかった。
港町の、帳場の炉端で、初めて握ったときと同じ、人の手の温み。
――返しに行きな。あんたの手なら、返せる。
――これだけは、頼まない。
――あんたが決めな。
祖母は、頼まなかった。いちばん大事なことを、ナオに頼まなかった。ナオは、それに答えられなかった。頼まれれば、どこへでも行ける。
頼まれなければ、どこへ行けばいいのか分からない。十七年、自分で決めたことが、ひとつも思い出せなかった。
浜で、船を開いた。誰にも頼まれずに、入り江で船を開いた。槌を、落とさせた。
それでも、去れと頼まれたら、去った。
ガルヴァドの言うとおりだった。ナオは、頼まれれば、何でもする。
でも。
頼まれなくても、する。それだけは、あの男にも、読まれていてかまわない、と思った。読まれていても、それは、ナオが決めることだった。
ナオは、立ち上がった。
背中の荷の重さで、膝が沈んだ。かまわなかった。
「頼まれてない」
ナオは言った。
はい、ではなかった。
「でも、行く」
声は、震えていなかった。
言ってから、ナオは気づいた。
口の形が、違った。はい、と言うときの、開いたまま止まる口とは。短く、閉じる口だった。祖母が、決めな、と言ったときの口と、少しだけ似ていた。
港町の宿の炉端で、答えられなかった答えだった。北の果てまで来て、ようやく、口から出た。
サリヤが、ナオを見上げていた。
しばらく、黙っていた。
それから、帳面を鞄にしまって、立ち上がった。
「……そう」
それだけ言った。
「証人は、還し手に付いていく。あんたが南へ行くなら、私も南へ」
けれど、ナオは見た。サリヤの口の端が、ほんの少しだけ、上がっていた。
背の荷の上で、シルシが、羽をふくらませた。
「帳に記します。還し手ナオ殿、南へ」
「……書かなくていい」
「記します。嘘は、つけませんので」
ナオは、笑いそうになった。
今度は、少しだけ、笑えた。
ソルグが、岩の縁から、立ち上がっていた。
誰も、ソルグに何も訊いていなかった。
ソルグは、南の空を見たまま、言った。
「軍団の船は、入り江の口を出る」
ナオは、ソルグを見た。
「冬の入り江は、夜ごとに凍る。軍団の船は、凍りきる前に、南へ出たい。剣を取ったなら、もう用はない。凍りきる前に、二、三日のうちに錨を上げる」
ソルグは、振り向いた。灰色の目が、ナオを見た。
「凍る前に、だ」
ナオは、うなずいた。
峠の下の、追っ手の焚き火を見た。三つ。十五人。
南へ降りる道は、あの焚き火の真ん中を通っている。
「あいつらは」
「抜け道がある」
ソルグが、言った。訊かれる前に。
「軍団の追跡兵は、街道しか見張らない。谷を、一つ東へ回る。凍った川を伝えば、焚き火の明かりの外を抜けられる」
ナオは、ソルグを見た。
ソルグは、もう、峠の東の斜面のほうへ歩きだしていた。
ナオは、背中の荷を負い直した。畳んだ船。毛布で巻いた槌。胸の割符が、ぬくかった。
それから、峠を降りはじめた。
南へ。




