第二十六話 凍る入り江
谷を伝い、凍った川を伝い、森を抜けた。
ソルグの言ったとおりだった。追っ手の焚き火の明かりは、ずっと西の街道の上にあった。こちらには、一度も向かってこなかった。
昼も夜も、歩いた。
ナオの背中の荷は、一歩ごとに重くなった。畳んだ船と、毛布で巻いた槌。膝が笑い、肩の縄が食いこんだ。
ソルグが、何も言わずに、槌の包みを自分の背に移した。
「……いいのか」
「軍団で、八年担いだ」
ソルグは、それだけ言って、先を歩いた。
毛布で巻いた槌を、ソルグは担いでいた。握ってはいなかった。背中に、括りつけていた。
二日目の夜、森が切れた。
見覚えのある、入り江の縁だった。
岬の上に、屋敷の影があった。窓に、明かりはなかった。門のあったところが、黒く口を開けていた。
入り江のほとりの、焼けた村の跡に、小さな火が一つ、灯っていた。
壺の口ほどの、ごく小さな火だった。
ナオは、その火のほうへ、降りていった。
焼け残った舟小屋の陰に、人が集まっていた。十人ほど。村の男たちと、女たちと、子どもが二人。その真ん中に、壺を抱えた老人が座っていた。
壺の蓋が、ほんの少しだけ開けてあった。熾火が、そこで赤く息をしていた。
老人が、顔を上げた。
ナオを見た。
長いあいだ、口を開かなかった。
「……戻ったのか、返し屋」
「はい」
口が、そう答えた。
ナオは、少しだけ顔をしかめた。それから、言い直した。
「戻りました。おれが、決めて」
老人は、壺の熾火を見下ろした。
「屋敷は、落ちた」
ぽつりと言った。
「門が破られて、帝国の兵が流れこんできた。若様は、最後まで門の内側で剣を振ってた。剣は、やっぱり動かなかったよ」
老人は、言葉を切った。
「狩り頭が、若様をかばった。帝国の、稲妻の丸太の前に飛びこんで」
ナオは、息を止めた。
「……ヴァルテさんは」
老人は、首を横に振った。
ナオの膝から、力が抜けた。雪の上に、座りこんだ。
――今度は、お前が研げ。
ナオは、その言葉を聞いていない。誰に向けて言われたのかも、知らない。ただ、武具小屋の、片手で刃を研ぐ音だけが、耳の奥でよみがえった。しゃっ、しゃっ。
――いい手だな、返し屋。
「若様は、怪我をして、帝国の船に連れていかれた。剣は、軍団長が、自分の手で取った」
老人は、壺の蓋を、少しだけ閉じた。
「剣は、黒くなってた。棘みたいなのが生えて。軍団長の胸の前に、あの矢が浮かんでたって、見てた者が言ってた」
「奥方は」
サリヤが訊いた。
「屋敷に残ってる。怪我人の世話をして、狩り頭の亡骸を清めて。それから、ずっと、門の跡に立って、北の街道を見てる」
老人は、ナオを見た。
「何も言わずに、な。誰が呼んでも、返事をしない」
ナオは、岬の上の、黒い屋敷の影を見上げた。
北の街道を見ている。
ナオが去った方角を。
ナオは、立ち上がった。
屋敷へ行こうとは、思わなかった。行って、何を言えばいいのか、分からなかった。それに、今、ナオがしなければならないことは、そこにはなかった。
「どうする気だ、返し屋」
老人が言った。
「取り戻す」
ナオは、答えた。
短く。
「剣と、エイヴァルを」
老人は、しばらくナオを見ていた。
それから、黙って、うなずいた。壺を抱えたまま、まわりの村の男たちのほうを、ちらりと見た。男たちも、黙っていた。けれど、何人かが、焼けた舟小屋の中の、黒ずんだ櫂のほうを見たのを、ナオは見た。
◇
焼けた舟小屋の陰で、ソルグが、雪の上に、枝で線を引いた。
入り江の形だった。
北の村の岸。岬。そして、南の、入り江の口。口のところだけ、幅が狭くなっている。
「軍団の船は、ここだ」
ソルグは、入り江の真ん中に、小石を五つ置いた。
「入り江は、夜ごとに凍る。昼に割っても、夜にまた張る。船が出るには、口まで、毎朝、氷を割って水路を開かなきゃならない。稲妻で割る。だから、出るのは、夜明けだ。氷がいちばん薄くなる、夜明けの一刻」
ソルグの指が、小石を一つずつ、口のほうへ動かした。
「先頭が、氷を割る船。次が、兵を積んだ船が三つ。いちばん最後が、旗艦だ」
「どうして、最後なんだ」
「軍団長は、いつも最後尾にいる。前の船が割った水路を通るから、いちばん安全だ。それに、後ろから全部の船が見える」
ソルグは、最後の小石を、指で押さえた。
「捕虜は、旗艦の船倉だ。いつもそうだ。剣も、たぶん、そこにある。軍団長が、自分で持ってなければ」
ナオは、ソルグを見ていた。
ソルグは、枝を握ったまま、話しつづけた。誰にも訊かれていないことを。
「合図は、角笛と灯だ。角笛は、前へ、止まれ、退け。灯は、夜の間の合図。赤い灯が二つなら、前の船に続け。青い灯が一つなら、止まって待て。灯を三度振れば、敵だ」
ソルグの声は、もう、何かを暗唱させられた声ではなかった。
自分の頭の中にある物を、一つずつ取り出して、並べて見せる声だった。
「旗艦の船倉の見張りは、二人。夜明けに、交代する。交代のとき、見張りは甲板に上がって、角笛を一度吹く。そのとき、船倉は、ほんの少しのあいだ、空く」
「……お前、それ、全部」
「軍団で、八年」
ソルグは、枝を雪に突き立てた。
「教えこまれた。命令されて、覚えた。……でも、今、話してるのは、命令されたからじゃない」
ソルグは、ナオを見た。
灰色の目が、焼けた村の小さな火を映していた。
「俺が、話したいから、話してる」
サリヤが、帳面を開いた。
ソルグの描いた入り江の形を、そのまま、写しとっていった。小石の位置。合図の色。見張りの交代。
筆の速さは、いつもと同じだった。
「入り江の口まで、ここから、どれくらい」
「氷の上を走れば、半夜」
「夜明けまでに、着ける?」
ソルグは、空を見上げた。
「今から走れば」
「船は」
サリヤが、ナオの背中の包みを見た。
「開けば、速い」
「開いたら、光る」
ナオは言った。
「入り江の真ん中で光ったら、五つの船の全部から見える。旗艦は、口を出る前に、引き返して、エイヴァルを……」
ナオは、その先を言わなかった。
サリヤも、それ以上は訊かなかった。
「それに、三つ目が焼ける」
ナオは、自分の右の手のひらを見た。二つの星の焼け跡は、少しだけ薄くなっていた。けれど、まだ、そこにあった。
「焼けるのは、いい。でも、今じゃない」
◇
三人は、凍った入り江の上を走った。
月は、なかった。星明かりだけが、白い氷の面を、ぼんやりと照らしていた。
ナオは、走りながら、入り江の真ん中を見た。
帝国の船が、五つ。氷の中に、黒い影になって閉じこめられていた。どの船の甲板にも、灯が一つずつ灯っていた。いちばん奥の、いちばん大きな影が、旗艦だった。
あの船の、船倉に。
エイヴァルが。
剣が。
ナオは、走った。足の下で、氷が、低く鳴った。船の通った筋のまわりは、夜ごとに張る、薄い、新しい氷だった。踏み抜けば、黒い水の底だった。
すぐ後ろで、ぱきり、と音がした。
振り返ると、サリヤの片足が、氷の中に沈んでいた。膝まで。黒い水が、割れ目からにじみ出していた。サリヤは、声を上げなかった。帳面の鞄を、頭の上に持ち上げていた。
ナオは、引き返して、サリヤの腕をつかんだ。
ソルグが、反対の腕をつかんだ。
二人で、引き上げた。サリヤの足から、氷水が、ざっとこぼれた。
「……帳面は」
「無事」
サリヤは、鞄を胸に抱え直した。濡れた足のまま、また走りだした。
ナオは、その背中を見ながら、走った。
帳面を、頭の上に持ち上げていた。自分の足より先に。
背中の荷の上で、シルシが、羽をたたんで、じっとしていた。
胸の割符が、ぬくかった。
そのぬくみが、ほんの少しだけ、旗艦のほうへ寄っていた。
剣が、そこにある。
入り江の口の、岩の陰にたどり着いたとき、東の空が、わずかに白みはじめていた。
ソルグが、空を見上げた。
「夜明けまで、一刻」
入り江の真ん中の、先頭の船の甲板で、灯が、赤く二つ、灯った。




