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【第一部完】カエシヤ 〜神々の預け物〜  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第一部「賢き者の剣」

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第二十七話 何が欲しいの

 岩の陰は、風が当たらなかった。

 入り江の口の、海へ突き出した黒い岩の、内側のくぼみだった。三人がやっと身を寄せられるほどの広さ。そこから、凍った入り江の全部が見渡せた。

 五つの船の灯が、入り江の真ん中で、じっと動かずにいた。

 ソルグは、岩の縁に腹ばいになって、その灯を見ていた。見張りの交代の角笛を、待っていた。

 ナオとサリヤは、くぼみの奥に、並んで座っていた。

 サリヤの濡れた足が、震えていた。

 ナオは、自分の外套の裾を、サリヤの足の上にかけた。サリヤは、何も言わなかった。払いのけもしなかった。


 しばらく、二人とも黙っていた。

 夜明けまで、一刻。

 長いのか、短いのか、ナオには分からなかった。

「……神様、信じてないって、言ったよな」

 ナオが言った。

 港町の、鍛冶組合の広間で。神なんか信じてない、祈って答えが来たことなんて、一度もない。サリヤは、そう言った。

 サリヤは、入り江の灯を見ていた。


「言った」

「なんで」

 サリヤは、すぐには答えなかった。

 ナオは、待った。

 急がなかった。入り江の灯を、一緒に見ていた。


「母が、熱を出した」

 サリヤが言った。

「九つの年の、夏。南の大河の、川沿いの町。熱は、何日も下がらなかった。町の医者は、もう手がないって言った」

 サリヤの声は、低かった。帳面を読み上げるときの声ではなかった。もっと、ずっと奥のほうから出てくる声だった。

「川のほとりに、書記の神様の神殿があった。帳を付ける神様。私は、毎晩、そこへ行った。神殿の床に座って、祈った。母を助けてくださいって。字を覚えます。帳を付けます。神様のお手伝いを、一生します。だから」

 サリヤは、言葉を切った。


「七晩、祈った。八日目の朝、母は死んだ」

 ナオは、黙っていた。

「神様は、眠ってた。千年前から。そういうことになってる。私は、それを知らなかった。眠ってる神様に、七晩、祈ってた」

 サリヤは、膝を抱えた。

「答えは、なかった。来たのは、神様じゃなくて、帳守の会の人だった。母の名前を、帳に書きに来た。この町で、この日に、この熱で、死んだって。それだけのことを、嘘なく書いて、帰っていった」

 サリヤの指が、膝の上で、帳面の革の表紙を撫でていた。

「神様は、母の名前を、知らない。でも、帳には、残ってる。人が書いたから」


 入り江の真ん中で、灯が一つ、揺れた。

 ソルグが、身じろぎした。まだ、交代の角笛ではなかった。

 サリヤの指が、ふと、膝から離れた。

 左の瞼の上に、そっと置かれた。


 ほんの一瞬だった。すぐに、離れた。

 ナオは、それを見ていた。何も訊かなかった。

 サリヤが話したのは、母のことだった。眼のことではなかった。九つの年に、何があったのか。その左の目が、いつから、預け物になったのか。サリヤは、それを、話さなかった。

 話したくなったら、話すだろう。

 ナオは、そう思った。


「あんたは」

 サリヤが言った。

「何を、隠してるの」

 ナオは、サリヤを見た。


「隠してない」

「エイヴァルに、黙って出てきた」

 ナオの喉が、詰まった。

「……うん」

「あの夜、厨で、エイヴァルには言うなって言ったとき。自分で言っておいて、自分で驚いた顔をしてた」

 ナオは、膝を抱えた。


「十七年、隠し事なんて、したことなかった。する必要がなかった。頼まれたことをして、訊かれたことに答えて。それで、一日が終わった」

 ナオは、旗艦の灯を見た。

「エイヴァルに、言えばよかった。言うなって頼まれたけど、言えばよかった。そうしたら、あいつは、止めたかもしれない。一緒に来るって言ったかもしれない。ヤルナさんは、それが嫌だったんだ。分かってる。でも」

 言葉が、止まった。


「でも、黙って出てきたのは、おれだ。頼まれたからじゃない。頼まれたのは、去ることだけだ。黙っていろって頼まれて、はいって言ったのは、おれだ」

 サリヤは、黙っていた。

「帰ったら、言う」

 ナオは言った。

「エイヴァルに。全部」


 サリヤは、しばらく、ナオを見ていた。

 それから、言った。

「ねえ。あんたの物って、何」

「……え」

「割符は、神様との約束の物。槌は、雷の島の物。船は、神様の物。背中の荷は、全部、誰かに返す物でしょう」


 ナオは、少し考えた。

「ない」

「一つも?」

「一つも」


 ナオは、自分の襟もとに、目を落とした。

 星明かりの中で、縫い取りの糸が、かすかに光っていた。

「この外套は、セイタって人の。首巻きは、トワって人の。手袋は、左右で別の人の。靴も、誰かが置いていった。宿に、置いていかれた物ばかりだ。誰も取りに来ないから、おれが着てる」

 ナオは、隠しに手を入れた。

 小さな布袋が、指に触れた。


「これは、包丁を届けた届け賃。宿の物だ。銭箱に返す」

 それから、胸の返し布に、手を当てた。

「これは、ばあちゃんから渡された。でも、ばあちゃんの物でもない。神様と人の、約束の物だ」

 ナオは、手を下ろした。

「返し屋の子は、自分の物を持たないように育てられる。持てば、返す物と自分の物の区別がつかなくなるから。ばあちゃんに、そう教わった」


 サリヤは、黙って聞いていた。

 最後まで、聞いていた。

 ナオは、話し終えてから、気づいた。自分のことを、こんなに長く、誰かに聞いてもらったのは、初めてだった。人の話なら、いくらでも聞けた。自分の話は、いつも、話すほどのことがなかった。

「じゃあ」

 サリヤが言った。

「何が欲しいの」


 ナオは、口を開いた。

 何も、出てこなかった。

 欲しい物。

 考えたことが、なかった。頼まれた物を、届ける。預かった物を、返す。それがナオの仕事で、ナオの暮らしの全部だった。欲しい物を考える場所が、ナオの中には、どこにもなかった。

 剣を、返したい。それは、欲しい物ではなかった。やらなければならないことだった。


 ばあちゃんを、取り戻したい。それも、欲しい物とは違う気がした。

 ふと、白い木切れが、目の奥に浮かんだ。

 炉の前で、エイヴァルの小刀が刻んでいた、組紐の模様。途切れたところから、また伸びはじめた溝。あれが、最後にどんな形になるのか、見てみたい、と思った。

 けれど、それは、欲しい物とは違う気がした。人の手の中にある物を、見たいと思っただけだ。

 ナオは、黙っていた。

 サリヤも、黙っていた。答えを、急かさなかった。


「……分からない」

 ナオは、やっと、それだけ言った。

「そう」

 サリヤは、入り江の灯のほうへ、顔を戻した。


「分からないなら、分からないって、帳に書いとく」

「書くのか」

「私の頭の中の帳にね」

 サリヤの口の端が、ほんの少しだけ、上がった。

 ナオは、足の上にかけた外套の裾を、サリヤのほうへ、もう少しだけ寄せた。


「……島の浜」

 岩の縁から、声がした。

 ソルグだった。腹ばいのまま、入り江の灯から目を離さずに。

「俺は、雷の島の浜が、見たい。灰色の砂の。覚えてるのは、それだけだから」

 誰も、ソルグに訊いていなかった。

 ソルグは、それきり、また黙った。

 ナオの背中の荷の上で、シルシが、羽をふくらませた。


「わたくしは、帳を正しく付けとうございます」

「誰も訊いてない」

 サリヤが言った。

「申し上げたくなりましたので」

 ナオは、笑いそうになった。サリヤの肩も、少しだけ揺れたように見えた。


    ◇


 岩の縁で、ソルグが、振り返った。

「角笛だ」

 低い声だった。

 入り江の真ん中の、旗艦の甲板で、角笛が、一度だけ、短く鳴った。見張りの交代の合図。


 東の空が、白みはじめていた。

 夜明けだった。

 そのとき、入り江じゅうの氷が、鳴った。

 低く、長く。どこか遠い底のほうから、凍った面の全部を伝って、きしむような音が広がっていった。

 先頭の船の甲板で、稲妻が光った。

 氷を、割りはじめたのだ。

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