第二十八話 氷の入り江の戦い
稲妻が、氷を割っていく。
先頭の船の舳先から、青白い光が、一筋、また一筋と、凍った入り江の面に落ちた。落ちるたびに、氷が高い音を立てて裂け、黒い水が筋になってのぞいた。筋は、入り江の真ん中から、口のほうへ、少しずつ伸びてくる。
船の通る、水の道だった。
夜明けの一刻のうちに、船団は、その道を通って、入り江の口を出る。
岩のくぼみの中で、ナオは、背中の包みの縄に手をかけていた。
開けば、速い。神様の船なら、氷の上でも、水の道でも、いつも追い風だ。旗艦まで、ひと息で行ける。
開けば、光る。
五つの船の全部から、夜明けの色の帆が見える。旗艦は、口を出る前に、ナオの船へ向かってくるだろう。稲妻を撃ちこんでくるだろう。船倉の中の、エイヴァルのことを考えれば。
ナオの指が、縄の上で、止まっていた。
背後で、氷を踏む音がした。
ナオは、振り向いた。
入り江の岸のほうから、黒い影が、いくつも、氷の上を近づいてきていた。
舟だった。
小さな漁舟が、五つ。人が、それを氷の上で押していた。舟の底を氷に滑らせて。村の男たちだった。焼けた村の、舟小屋の陰に集まっていた男たち。
先頭の舟の舳先に、壺を抱えた老人が座っていた。
「……どうして」
ナオの声が、かすれた。
老人は、舟の上から、ナオを見下ろした。
「借りは返す」
短く、それだけ言った。
「入り江の日に、あんたは、三十一人を乗せた。誰にも頼まれずに。村の者は、みんな見てた」
老人の後ろで、男たちが、黙ってうなずいた。
「今度は、こっちの番だ」
ナオは、舟の上の男たちを見た。
入り江の日、氷の上で、ナオが船べりから一人ずつ引っぱり上げた手だった。焼けた手のひらが、引っぱるたびに裂けるように痛んだ。その手が、今、櫂を握って、ナオを迎えに来ていた。
胸の奥で、固く縮こまっていたものが、少しだけ、ほどけた。
怖いのは、変わらなかった。旗艦には、黒い剣を持った男がいる。けれど、ナオは、一人ではなかった。
舟は、どれも古かった。
船べりの板は、何度も張り替えた跡があった。けれど、男たちが握っている櫂は、張り替えていなかった。黒ずんで、柄の握るところだけが、深く、飴色に擦り減っていた。
ナオは、その櫂を見た。
包丁の柄の窪み。ヴァルテの写しの、重なった窪み。
「三百年」
老人が言った。
「この村の櫂は、三百年、毎朝、漁に出た。親から子へ、子から孫へ。折れたことは、一度もない。この櫂で漕いで、舟が転んだことも、一度もない」
サリヤが、櫂を見ていた。
「……帳では、そういうのを、手擦れって呼ぶ」
サリヤの声は、低かった。
「人の作った道具が、百年以上、人の手で使われて帯びる力。神様に返さなくていい、ただ一つの力」
老人は、鼻を鳴らした。
「難しいことは知らん。ただの、うちの櫂だ」
◇
五つの舟に、分かれて乗った。
ナオは、老人の舟に。サリヤとソルグも。烏は、ナオの背の荷の上に。
老人の孫だという若い男が、櫂を握った。
「水の道に入る。音を立てるな」
舟が、氷の縁から、黒い水の筋の中へ、滑りこんだ。
ナオは、息を止めた。
筋の幅は、舟の幅と、ほとんど変わらなかった。両側は、割れたばかりの、ぎざぎざの氷の縁。少しでも舟が傾けば、氷に当たって、転ぶ。転べば、冬の夜明けの水の底だった。
若い男が、櫂を水に入れた。
音が、しなかった。
櫂が水を掻く音も、舟の腹が氷の縁をこする音も。舟は、黒い水の筋の上を、ただ、すうっと進んでいった。氷の縁に、触れそうで、触れなかった。傾きそうで、傾かなかった。
三百年、毎朝、同じ手が漕いできた櫂だった。
舟を転ばせない櫂だった。
一度だけ、すぐ横の船の甲板から、松明の光が、水の上に差した。
見張りの兵が、船べりから身を乗り出していた。
五つの舟が、いっせいに、氷の縁の影に身を寄せた。櫂を握る手が、止まった。舟は、止まった櫂のまま、黒い水の上に、浮いていた。揺れもしなかった。
ナオの背の荷の上で、シルシも、身じろぎひとつしなかった。黒い烏は、夜明け前の暗がりの中で、ただの暗がりの一部だった。
松明の光が、舟の舳先の、すぐ手前の水を舐めて、遠ざかっていった。
誰も、息を吐かなかった。光が、すっかり見えなくなるまで。
水の道は、船団の通り道だった。
五つの舟は、その道を逆にたどって、入り江の真ん中のほうへ、静かに進んでいった。夜明けの薄明かりの中で、帝国の船の影が、だんだん大きくなってくる。
先頭の船。兵を積んだ船が三つ。いちばん奥に、旗艦。
どの船も、まだ、こちらに気づいていなかった。前の氷を割ることと、口のほうを見ることに、気を取られていた。
「合図を」
ナオは、ソルグに言った。
ソルグが、うなずいた。
老人の舟に積んであった、小さな油の灯を、両手で持っていた。灯の口には、色のついた薄い布が、二枚重ねてあった。赤と、青。入り江の漁師が、霧の夜に舟どうしで合図を送るための灯だった。
ソルグは、灯を掲げかけた。
そして、止まった。
灯を持った両手が、胸の高さで、止まっていた。
ソルグの目が、船団の影を、一つずつ、なぞっていた。先頭の船。二つ目。三つ目。その甲板の上の、兵たちの影を。
探しているのだと、ナオには分かった。
入り江の日に、小舟の櫂を握っていた、若い兵たちを。ソルグが泣くのを見ていた兵たちを。笑わなかった兵たちを。自分の胸に、そっと手を当てていた兵を。
ソルグの目が、いちばん奥の、旗艦の舳先で、止まった。
そこに、櫂を握っていた兵の一人が、立っていた。槍を持って。口のほうを、見ていた。
ソルグは、長いあいだ、その影を見ていた。
育ててくれた軍団だった。飯を食わせ、槍の持ち方を教え、夜の見張りの立ち方を教えた軍団だった。槌を持たせ、矢を胸の前に浮かべさせた軍団だった。
ソルグは、目を閉じた。
開いた。
灯を、掲げた。
青い灯が、一つ。
止まって、待て。
先頭の船の甲板で、誰かが、こちらを振り向いた。暗がりの中で、灯の色だけが見えたのだろう。角笛が、短く一度、鳴った。止まれ。
先頭の船が、割りかけの氷の前で、止まった。
二つ目の船が、その尻に、ぶつかりそうになって、慌てて止まった。三つ目も。四つ目も。
水の道の中で、船団が、詰まった。
ソルグが、灯を下ろした。
布を、一枚、外した。
赤い灯を、三度、振った。
敵だ。
ただし、振った方角は、先頭の船の、さらに前。入り江の口の、岩のほうだった。
先頭の船の兵たちが、いっせいに口のほうを向いた。稲妻の穂先が、口の岩へ向けられた。いもしない敵へ。
船団が、乱れた。
ソルグは、灯を、膝の上に下ろした。
両手が、震えていた。
「……すまない」
ソルグは、旗艦の舳先の、若い兵の影に向かって、口の中で言った。誰にも聞こえないほどの声で。
ナオには、聞こえた。
何も言わなかった。ソルグの震える手の上に、自分の手を、一度だけ、重ねた。
旗艦だけが、最後尾で、取り残された。
前の船が詰まった水の道の、いちばん後ろで。動けずに。
「今だ」
老人が言った。
五つの舟が、水の道を出て、氷の割れ目を伝い、旗艦の腹へ、音もなく寄っていった。
最初に気づいたのは、旗艦の船べりの見張りだった。
角笛が、鳴った。今度は、本物の、敵の合図だった。
旗艦の甲板から、稲妻の槍が、舟へ突き出された。村の男たちが、櫂でそれを払った。漁の手つきで。槍の柄を、櫂の腹で叩き、穂先を水へ落とさせた。稲妻が、水に触れて、じゅっと消えた。
老人の孫が、旗艦の腹に、鉤のついた縄を投げた。縄が、船べりにかかった。
ナオは、縄に飛びついた。
登ろうとした。背中の荷が、重かった。腕が、震えた。三尺登ったところで、上から槍の柄が振り下ろされて、ナオは、舟の上へ落ちた。
サリヤが、ナオの腕をつかんで、引き起こした。
◇
旗艦の甲板に、背の高い影が立っていた。
両手は、もう、背で組まれていなかった。
右手に、黒い剣を下げていた。棘だらけの、黒い煙をまとった剣を。
ガルヴァドだった。
その横に、もう一つの影が、膝をつかされていた。両手を後ろで縛られて。脇腹の外套が、黒く固まった血で汚れていた。
船倉ではなかった。甲板に、出されていた。盾にするために。
「……エイヴァル」
ナオの口から、その名がこぼれた。
エイヴァルが、顔を上げた。
舟の上のナオを、見た。
その目に、何かが浮かびかけて、すぐに消えた。それから、エイヴァルは、顔をそむけた。
「エイヴァル!」
ナオは、叫んだ。
「戻ってきた!」
エイヴァルは、振り向かなかった。
縛られた背中だけが、こちらを向いていた。
「返し屋か」
ガルヴァドの声が、甲板の上から降ってきた。平らな声だった。
「戻ってくるとは思っていた。頼まれなくても、助けに来る小僧だとな。それも、読みのうちだ」
ガルヴァドは、黒い剣を、肩から下ろした。
「割符を、渡せ。渡せば、跡継ぎは、上王に返してやる」
ナオは、答えなかった。
答えは、もう、口の中にはなかった。
ガルヴァドが、剣を振った。
黒い風が、甲板から、舟の群れへ吹き下ろした。
荒々しい力だった。霞んでいたころの剣とは、まるで違う。氷が、黒い風に打たれて、粉のように砕け散った。舟の一つが、大きく揺れた。
揺れただけだった。転ばなかった。
櫂を握った男が、歯を食いしばって、舟を立て直した。三百年の櫂が、水の上で、舟を支えていた。
「一つ、近づいた」
サリヤが言った。ナオの横で。ガルヴァドの胸の前を、見上げて。
「今の一振りで」
ナオにも、見えていた。
ガルヴァドの胸の前の、白い矢。人の背丈ほどの間合いに、浮いていた。
ガルヴァドは、それを、見下ろしもしなかった。
二振り目。
黒い風が、老人の舟を打った。
孫の若い男が、櫂で水を押さえた。櫂が、きしんだ。
三振り目。
櫂が、折れた。
三百年、一度も折れなかった櫂が、黒い風に打たれて、柄の真ん中から、乾いた音を立てて、二つになった。
舟が、傾いた。ナオは、船べりにしがみついた。舟は、旗艦の腹から、押し戻されていった。
若い男が、折れた櫂の柄を、握ったまま、呆然と見下ろしていた。
老人が、その肩に、手を置いた。
「いい。櫂は、また削ればいい。三百年かけてな」
「腕一本」
サリヤの声が、また聞こえた。
さっきより、ずっと低かった。
ナオは、旗艦の甲板を見上げた。
ガルヴァドの胸の前の矢が、また近づいていた。三振りで。腕一本の間合い。入り江の日の、ソルグと同じ間合いだった。
ガルヴァドは、自分の胸の前を、ちらりと見下ろした。
初めて、見下ろした。
それから、甲板の後ろのほうへ、顎を向けた。
「おい」
若い兵が、一人、呼ばれて前へ出た。
ナオは、その顔を知っていた。
入り江の日に、小舟の櫂を握っていた兵だった。ソルグが泣くのを見ていた兵。自分の胸に、そっと手を当てていた兵。
ガルヴァドの胸の前で、白い矢が、静かに、その胸を待っていた。




