第二十九話 十三人目
「持て」
ガルヴァドが、黒い剣の柄を、若い兵のほうへ差し出した。
平らな声だった。今朝の水の量を確かめるときと、同じ声だった。
「今日から、お前が持ち手だ。十三人目。槌のときと同じだ。矢が近づいたら、次の者に回す。それまでは、お前の手で振れ」
若い兵は、動かなかった。
黒い剣の柄を、見下ろしていた。棘だらけの、黒い煙をまとった剣を。
それから、ガルヴァドの胸の前を、見た。
若い兵には、矢は見えないはずだった。剣が振られた、その一瞬にしか。けれど、若い兵の目は、ガルヴァドの胸の前の、何もないはずの宙に、まっすぐ向けられていた。
入り江の日に、十二人目の胸の前に、何が浮かんでいたのかを、この兵は見ていた。
泣きながら槌を振り上げた少年を。槌が手から跳ねて落ち、矢が消えるのを。
若い兵が、膝をついた。
甲板の上に。両膝を。
黒い剣の柄を、受け取らなかった。両手を、膝の上に置いたまま。
「十三人目には、なりません」
小さな声だった。けれど、甲板じゅうに聞こえた。
甲板の兵たちが、しんとなった。
ガルヴァドは、差し出した剣を、引っこめなかった。
「命令だ」
「はい」
若い兵は、うなずいた。
「命令でも、なりません」
ガルヴァドの顔に、初めて、何かが浮かんだ。
怒りではなかった。驚きでもなかった。長いあいだ使ってきた道具が、手の中で、思ってもみない形に曲がったのを見る顔だった。
「……ほかの者は」
ガルヴァドは、甲板の兵たちを見回した。
誰も、前へ出なかった。
兵たちの目が、膝をついた若い兵に集まっていた。それから、ガルヴァドの胸の前の宙に。それから、甲板の板に。
誰も、ガルヴァドの目を見なかった。
十三人目は、いなかった。
百年、槌の矢を、十一人に回してきた手口。十二人目を、駒と呼んできた手口。それが、初めて、効かなかった。
ガルヴァドは、差し出した剣を、ゆっくりと引き戻した。
自分の手の中に。
舟の上から、ナオはそれを見ていた。サリヤが、ナオの横で、息を詰めていた。
「腕一本」
サリヤが、言った。
「まだ、腕一本」
ガルヴァドが、舟の群れを見下ろした。
割符を持つ少年を。三百年の櫂を握る村の男たちを。
黒い剣を、振り上げた。
「やめろ!」
ナオは、叫んだ。
「振ったら、届く!」
ガルヴァドは、聞かなかった。
黒い風が、舟の群れを打った。氷が、砕けた。入り江の面に、大きな割れ目が、雷のような音を立てて走った。舟が、二つ、大きく傾いた。
「指、二本!」
サリヤの声が、裂けた。
ナオは、縄に飛びついた。
さっき落ちた縄だった。まだ、旗艦の船べりにかかっていた。
甲板の兵たちは、もう、ナオを見ていなかった。膝をついた若い兵を見ていた。剣を振った軍団長の、胸の前を見ていた。
ナオは、登った。背中の荷を、舟の上に放り出して。胸の割符だけを、返し布ごと、帯に差しこんで。腕が、震えた。焼けた手のひらの二つの星が、縄に擦れて、裂けた。
かまわなかった。
船べりを、越えた。
甲板に、転がりこんだ。
すぐ後ろで、ソルグが、船べりを越えてきた。
ガルヴァドが、ナオを見た。
黒い剣を、構え直した。
その胸の前の、白い矢が、ナオにも見えた。
指、二本。
もう一振りすれば、届く。
「返し屋!」
声がした。
甲板の隅で、縛られたまま膝をついていた、エイヴァルだった。
「助けるな」
エイヴァルの声は、裂けていた。
「そいつは、ヴァルテを殺した男だ。稲妻の丸太で。俺を、かばって。……そいつを、助けるな!」
ナオの足が、止まった。
ヴァルテ。
――いい手だな、返し屋。
――物に、握らせてもらってる手だ。
片手で刃を研いでいた、色の戻った左手。
エイヴァルが、ナオを見ていた。縛られた体で。黒く固まった血で汚れた脇腹で。目が、真っ赤だった。
助けるな、と頼まれた。
エイヴァルに。
頼まれたことを、ナオは、今まで一度も、断ったことがない。
ナオの口が、開いた。
はい、の形には、ならなかった。
ガルヴァドが、黒い剣を、振り上げた。
ナオではなく、舟の群れへ。割れはじめた氷の上の、村の男たちへ。
振れば、矢は届く。
ガルヴァドにも、それは見えているはずだった。それでも、振り上げていた。十三人目がいないなら、自分の手で振るしかない。ナオには、そう見えた。
入り江の日の、ソルグと、同じだった。
命令だから。それしかないから。
ナオは、跳んだ。
世界から、音が消えた。
自分の息の音だけ。帯から引き抜いた割符の、ぬくみだけ。
膝を緩める。肘を締める。
手首の、親指の側の、骨のくぼみ。
下から。
こつん。
黒い剣が、跳ねた。
ガルヴァドの手は、柄を握りしめたままだった。百年の軍団の長の、大きな、固い手だった。その手の中から、剣のほうが、するりと抜けた。握る指を、内側から押し開けるようにして。
黒い剣は、宙で一度回って、甲板の上に、どさりと落ちた。
ナオは、それに飛びついた。
柄を、つかんだ。
重かった。槌よりも、重い気がした。
黒い煙が、ナオの手の中で、薄れていった。刃の縁の棘が、潮が引くように、縮んでいった。黒く濁っていた刃が、白い霧のような、霞んだ色に戻っていった。
ガルヴァドの胸の前で、白い矢が、揺れた。
消えた。
胸の一寸手前で。
ガルヴァドは、立っていた。
空っぽの手を、宙に浮かべたまま。
自分の胸に、手を当てた。矢のあった場所に。
それから、ナオを見た。
敵の、還し手を。割符を持った、港町の小僧を。命を拾われた、その手を。
ガルヴァドの口が、開いた。
何も、出てこなかった。
平らな声は、どこにもなかった。
ガルヴァドは、両手を、背中へ回そうとした。いつものように、背で組もうとした。
組めなかった。
指が、うまく噛み合わなかった。何度組もうとしても、ほどけた。
氷が、鳴った。
入り江じゅうで。さっきの黒い風が走らせた割れ目が、広がっていた。旗艦の腹の下で、氷が、ぎしぎしと軋んだ。
副官が、ガルヴァドの横に駆け寄った。
「軍団長。氷が割れます。前の船は、口のほうで、詰まったまま……」
ガルヴァドは、ナオから目を離さなかった。
長いあいだ。
それから、短く言った。
「……退け」
声が、かすれていた。
「南へ。口を出る。割れた氷の、割れ目を伝え」
角笛が、鳴った。退け。
帝国の船が、一つ、また一つと、割れた氷の中を、入り江の口のほうへ動きはじめた。
ナオは、黒くなくなった剣を、甲板に置いた。
エイヴァルのそばへ、走った。
ソルグが、腰の小刀を抜いて、エイヴァルの手首の縄を、切った。
「エイヴァル」
エイヴァルは、答えなかった。
自由になった手で、脇腹を押さえて、立ち上がった。ソルグの肩を借りて。
ナオの顔を、見なかった。
一度も。
船べりを越えて、村の男たちの舟へ降りていくときも、エイヴァルは、ナオのほうを、振り向かなかった。
甲板に、ナオだけが残った。
膝をついたままの、若い兵と。
若い兵は、ナオを見上げていた。何か言いたそうな顔をしていた。けれど、何も言わなかった。やがて、立ち上がり、ナオに小さく頭を下げて、仲間のほうへ戻っていった。
旗艦が、きしみながら、動きだしていた。
「降りろ!」
船べりの下から、ソルグの声がした。
ナオは、甲板の上の剣を、見下ろした。
霞んだ刃。
賢き者の剣。
ナオは、それを、両手で拾い上げた。胸に抱えて、縄を伝い、村の男たちの舟へ降りた。舟が、旗艦の腹を離れた。
帝国の船団が、割れた氷の中を、入り江の口へ遠ざかっていく。
舟の上で、ナオは、膝の上に剣を横たえた。
エイヴァルは、隣の舟にいた。背中を、こちらに向けていた。
ナオの手の中に、剣があった。




