第三十話 あんたが決めて
夜が、明けた。
入り江の氷の上に、朝の光が、斜めに差していた。割れた氷の筋が、あちこちで黒い水をのぞかせている。帝国の船は、もう、入り江の口の向こうの、白い海の上の、小さな点になっていた。
村の男たちが、舟を氷の上へ引き上げていた。
折れた櫂を、老人の孫が、膝の上に乗せていた。二つになった柄を、合わせてみたり、離してみたりしていた。老人が、その横で、壺の蓋を少しだけ開けて、熾火に手をかざしていた。
エイヴァルは、舟から少し離れた氷の上に、一人で座っていた。
脇腹を押さえて。こちらに、背中を向けて。
ナオは、舟のそばの氷の上に座っていた。
膝の上に、剣を横たえていた。
霞んだ刃。黒い煙も、棘も、もうなかった。白い霧がかかったような、光らない刃。スヴァルンの屋敷の架に掛けられていたときと、同じ姿だった。
重かった。
サリヤが、ナオの隣に、腰を下ろした。
帳面を開いて、筆を取った。賢き者の剣。持ち手、軍団長の手を離れ、還し手の手へ。
書き終えて、サリヤは、筆を止めた。
「今なら、あんたが返せる」
サリヤが言った。
ナオは、サリヤを見た。
「奪いの手から落ちた物を、還し手が拾った。誰からも、取り上げてない。誰の許しも、要らない」
サリヤの声は、低かった。帳面の一行を読み上げるような声だった。
「このまま、北の岬へ運んで、極光の橋の麓で、返しの言葉を言えば、それで済む。一つ目の返し。刻みが、一つ灯る」
ナオの背中の荷の上で、シルシが、首をかしげた。
「まことでございます。還し手殿の手で、返し場へお運びになれば、返せます」
ナオは、膝の上の剣を見下ろした。
確かだった。
早かった。
軍団は、また来る。ガルヴァドは、手ぶらで帝都へは帰れない。春になれば、上王の集いがある。剣を持つ者は、返せば領地を失う。持たない者は、跡継ぎと認められない。
剣がスヴァルンの手に戻れば、どうなるか分からない。
ナオの手にあるなら、確かに、返せる。
それに。
ナオは、自分の胸の奥に、小さな声があるのに気づいた。
自分の手で、返してみたい。
割符の刻みが、一つ灯るのを、自分の手の中で見たい。千年で二つ目の光を。祖母が、ナオに託した物の、最初の一つを。
それは、頼まれたからではなかった。誰かのためでもなかった。ナオの中から出てきた、ナオのための声だった。
今まで、一度も聞いたことのない声だった。
ナオは、その声を、しばらく聞いていた。
ナオは、剣の柄に、手を置いた。
柄の組紐の彫りが、指に触れた。
この柄を、エイヴァルは、毎晩握っていた。十の冬に、初めて持たされた。十二で持ち上がり、十四で振れるようになった。親父には内緒で。剣が動いてくれないのは、自分の腕が足りないからだと思って。
――剣が欲しいんじゃなかったんだ。
――剣が、戦ってくれる男になりたかった。
ナオが、一人で返せば。
エイヴァルは、剣を、取り上げられたことになる。帝国に奪われ、返し屋に取り上げられ、最後まで、自分では何も決められなかった跡継ぎに。
――これだけは、頼まない。あんたが決めな。
祖母は、割符を、ナオの手に渡した。そして、頼まなかった。いちばん大事なことを、ナオが自分で決めるまで、黙って待った。
ナオは、剣を、両手で持ち上げた。
立ち上がった。
◇
エイヴァルの前に、ナオは膝をついた。
氷の上に。
剣を、両手で持った。柄を、エイヴァルのほうへ向けて。
港町の坂の上の家で、ネリカさんに包丁を差し出したときと、同じ手つきだった。返し屋は、手渡しで返す。どれほど小さな物でも、届け先の手のひらに、自分の手で置く。
エイヴァルは、顔を上げなかった。
「……何だ」
「あんたの剣だ」
ナオは言った。
「返しに来た。あんたに」
エイヴァルの肩が、動いた。
「あんたが決めて。返すか、返さないか」
エイヴァルが、顔を上げた。
目が、赤かった。昨夜からずっと、眠っていない目だった。
「仇を助けたお前が」
エイヴァルの声は、かすれていた。
「俺に、決めろと言うのか」
ナオは、剣を差し出したまま、動かなかった。
「助けるなと、言った。ヴァルテを殺した男だと、言った。お前は、聞かなかった。俺の頼みを、聞かなかった。……あいつを、矢から救って、それで、俺に決めろと」
「だから言う」
ナオは言った。
声は、震えていなかった。
「おれは、自分で決めた。あんたに頼まれたことに、背いた。生まれて初めて。だから、あんたにも、自分で決めてほしい」
エイヴァルは、ナオを見ていた。
長いあいだ。
「……お前、なんで、黙って出ていった」
ナオは、息を吸った。
岩の陰で、サリヤに言った。帰ったら、言う。エイヴァルに、全部。
「頼まれた」
ナオは言った。
「出ていってくれと、頼まれた。帝国が来るのは、おれと槌がいるからだって。それで、はいと言った。黙っていてくれとも、頼まれた。それにも、はいと言った」
ナオは、剣の柄を、握り直した。
「頼んだ人は、悪くない。あんたを、守りたかっただけだ。はいと言ったのは、おれだ。黙って出ていったのは、おれだ。それで、あんたの家が落ちた。ヴァルテさんが……」
言葉が、止まった。
「ごめん」
ナオは、頭を下げた。剣を、差し出したまま。
エイヴァルは、答えなかった。
しばらくして、低く言った。
「……母上か」
ナオは、答えなかった。
答えないことが、答えだと、エイヴァルは受け取ったのかもしれなかった。屋敷の門の内側で、母の目がそらされたときと、同じように。
けれど、今度は、エイヴァルの顔に、怒りは浮かばなかった。
エイヴァルは、目を閉じた。
「戸口から、北の街道を見ていた。俺が連れていかれるときも。……そういうことか」
エイヴァルは、目を開けた。
ナオが差し出している剣を、見た。
手を、伸ばさなかった。
代わりに、自分の胸の隠しに、手を入れた。
白い木切れを、取り出した。
組紐の溝が、手のひらの大半を覆っていた。小刀の刺さった穴の脇から、途切れずに伸びた模様。その端に、彫りかけの、細い葉が一枚。
エイヴァルは、腰の小さな鞘から、刃の短い小刀を抜いた。
氷の上に座ったまま、葉の筋を、彫りはじめた。
木屑が、白い氷の上に、静かに落ちていった。
ナオは、剣を差し出したまま、待った。
腕が、震えはじめた。剣は、重かった。両手で、柄を向けたまま、膝をついたまま。氷の冷たさが、膝から腿へ、じわじわと上がってきた。
ナオは、腕を下ろさなかった。
港町の宿で、祖母が、待ったように。
エイヴァルの手は、止まらなかった。小刀の先が、葉の筋を、一本、また一本、刻んでいく。迷わなかった。
「返せば」
エイヴァルが言った。
彫りながら。顔を上げずに。
「上王の禁令で、領地を失う。跡継ぎの認めも、取り消される。この家の誇りだと、千年言われてきた物を、手放す。親父が、最後まで手放さなかった物を」
木屑が、落ちた。
「北じゅうの剣の写しが、光を失う。家の兵の写しも。狼が来ても、灯を守る物がなくなる。村の者たちは、何も持たずに、狼の前に立つことになる」
小刀が、止まらなかった。
「残せば」
長い間があった。
小刀の先が、葉の縁を、ゆっくりと回った。
「剣は、二度と、俺のためには動かない。帳守が柱を読んだ。三代、言葉のせいで動かなかった剣だ。俺が、これを家宝だと思っているかぎり、動かない。そして帝国は、また来る。何度でも。神様は、明けに、取り立てに来る」
エイヴァルの手が、止まった。
初めて。
葉の筋が、全部、刻み終わっていた。
エイヴァルは、その木切れを、手のひらの上で見下ろした。組紐の模様と、一枚の葉。
「ヴァルテは」
エイヴァルが言った。
「死ぬ前に、俺に、写しを渡した。剣じゃなく」
エイヴァルの左の腰に、ヴァルテの古い写しが、下がっていた。小さく、ぶれずに、光っていた。
「こいつは写しだ、と言った。借り物じゃねえ、と。二百年、うちの手が研いだ。今度はお前が研げ、と」
エイヴァルは、木切れを、胸の隠しにしまった。
「ヴァルテは、剣のことを、一度も家宝と呼ばなかった。若様の剣、と呼んだ。うちの写し、と呼んだ。……あいつは、知らなかったのに、分かってたんだ。どっちが借り物で、どっちがうちの物か」
エイヴァルが、手を伸ばした。
ナオが差し出している剣の、柄を、握った。
ナオは、手を離した。
剣の重さが、エイヴァルの手に移った。
エイヴァルは、剣を、膝の上に横たえた。霞んだ刃を、しばらく見下ろしていた。
それから、顔を上げた。
ナオを、まっすぐに見た。
「返す」
エイヴァルは言った。
「うちの物じゃなかった」
静かな声だった。炉の前で、本音を絞り出したときの声とは、違った。船の甲板で叫んだときの声とも。
「でも、返すと決めるのは、俺だ」
エイヴァルの膝の上で、剣の刃にかかっていた白い霧が、ほんの少しだけ、薄くなった気がした。
気のせいかもしれなかった。けれど、ナオの胸の割符が、そのとき、ふっと温かくなった。
ナオは、膝をついたまま、エイヴァルを見ていた。
何か言おうとした。
言葉が、出てこなかった。
代わりに、うなずいた。
サリヤが、少し離れた氷の上で、帳面を開いていた。筆が、動いていた。いつもと同じ速さで。
賢き者の剣。預かり人、スヴァルンのエイヴァル。返すと決める。
「……エイヴァル」
「何だ」
「礼は」
エイヴァルは、少しだけ、口の端を上げた。
「言わない。お前は、まだ、何も返してない」
舟のそばで、村の男たちが、こちらを見ていた。
壺を抱えた老人が、ゆっくりと立ち上がった。
「若様」
しわがれた声だった。
「領地なんぞ、なくても、この入り江の魚は、逃げやしません。櫂と舟がありゃ、村は食っていける。三百年、そうしてきた」
老人は、膝の上で折れた櫂を抱えている孫を、顎で示した。
「櫂は、また削ればいい」
エイヴァルは、老人を見た。
言葉は、なかった。けれど、剣の柄を握る手から、ほんの少し、力が抜けた。
ソルグが、舟の上で、毛布で巻いた槌を見下ろしていた。
誰も、ソルグに何も言っていなかった。
ソルグは、毛布の上に、そっと手を置いた。握らなかった。ただ、置いただけだった。
「返し屋」
エイヴァルが言った。
「北の岬まで、一緒に来い」
ナオは、顔を上げた。
「還し手がいなけりゃ、返せないんだろう。割符が要るって、お前が言ってた」
エイヴァルは、そっぽを向いた。
「……頼んでるんじゃない。来いと言ってる」
「行く」
ナオは言った。
はい、ではなく。
◇
北の空が、明るくなっていた。
朝の光ではなかった。
入り江の北の、山並みの上の空で、緑の光の幕が、揺れていた。昼の空なのに。白い空を透かして、極光が、うねっていた。
夜よりも、濃く。
北の岬のほうへ、手招きするように。




