第三十一話 北へ
エイヴァルは、一人で、岬の坂を登っていった。
ナオたちは、浜で待った。
屋敷の窓に、明かりは灯っていなかった。門のあったところは、まだ黒く口を開けていた。エイヴァルの背中が、その口の中へ消えていった。
ずいぶん、長いあいだ、戻ってこなかった。
戻ってきたとき、エイヴァルは、左手に、小さな物を握っていた。
灰色の、平たい石だった。真ん中が、浅く、すり減って窪んでいた。
ヴァルテの砥石だった。
「ヴァルテは、広間に寝かせてあった。村の女たちが、清めてくれていた」
エイヴァルは、砥石を、外套の隠しにしまった。
「母上は、そばにいた。何も言わなかった。俺も、何も言わなかった」
それだけ言って、エイヴァルは、口を閉じた。
ナオは、何も訊かなかった。
◇
浜で、ナオは、背中の包みを下ろした。
畳んだ船。
手のひらを見た。二つの星の焼け跡は、もうずいぶん薄くなっていた。縄で裂けた傷のほうが、まだ赤かった。
開けば、三つ目が焼ける。
一つの季節に、七つを超えれば。
ナオは、包みを、浅瀬の黒い水の上に置いた。割符を握った手で、帆布に触れた。
後ろに、エイヴァルが立っていた。剣を、腰に下げて。
「返しに行く」
ナオは言った。
「この剣を。それから、いつか、お前も。だから、開いてくれ」
手のひらが、焼けた。
ナオは、歯を食いしばった。声は、出さなかった。
包みが、ほどけた。帆布が開き、骨が起き上がり、板が噛み合っていく。帆柱が立ち、帆が上がった。
夜明けの色。
昼の白い光の中でも、その色は、はっきりと分かった。
エイヴァルが、帆を見上げていた。
入り江の氷の上で、遠くから見た帆だった。それが、今、目の前で、自分を乗せるために開いていた。
ナオは、右の手のひらを見た。
星の焼け跡が、三つになっていた。
「……痛いか」
エイヴァルが訊いた。
「痛い」
ナオは、正直に答えた。
エイヴァルは、少しだけ眉を寄せた。それから、黙って、船べりに足を掛けた。
四人と一羽が乗った。ナオ。エイヴァル。サリヤ。ソルグ。そして、帆柱のてっぺんに、シルシ。
浜で、壺を抱えた老人が、手を上げた。村の男たちも。
帆が、ふくらんだ。
船が、入り江の口へ、動きだした。
岬の上の屋敷の、黒い門の跡に、人が一人、立っていた。
遠くて、顔は見えなかった。けれど、背の高い、薄い色の髪の女の人だと、ナオには分かった。
エイヴァルは、振り返らなかった。
ただ、船べりを握る手が、白くなるほど、固くなった。
◇
船は、海岸沿いを、北へ進んだ。
いつも、追い風だった。
左手に、白い崖と、黒い針の森がつづいた。右手は、灰色の冬の海。北の空では、極光が、昼も夜も、うっすらと揺れていた。
一日目の夕暮れ、岸の崖の上に、暗い目が並んだ。
影の狼だった。
二つ、四つ、十。崖の縁を、船と同じ速さで、北へ走っていた。光らない目が、夜明けの色の帆を、じっと追っていた。
「船の光に、寄せられてる」
サリヤが言った。
「それだけでは、ございません」
帆柱の上で、シルシが言った。
「最後の一年、喰みは、預け物を喰みたがります。預け物は、天の星の光でできておりますので」
エイヴァルの腰の剣を、狼の目は見ていた。
岸を走る狼の群れは、夜になっても、離れなかった。
真夜中、一頭が、崖の縁から跳んだ。
暗い影が、夜空を横切って、船のすぐ横の海面へ落ちてきた。水しぶきは、上がらなかった。影は、黒い水の上を、四本の足で滑るように走り、船べりへ迫った。
帆が、鳴った。
追い風が、強くなった。船の後ろから、前へ。影の狼は、その風を横から受けて、輪郭がちぎれた。霧が吹き散らされるように、崖のほうへ押し戻されていった。
エイヴァルが、剣の柄に手をかけたまま、それを見ていた。
剣は、抜かなかった。
夜、船の上で、エイヴァルは、ヴァルテの写しを研いでいた。
舳先に座って。膝の上に写しを横たえて。ヴァルテの砥石で。
しゃっ、しゃっ。
ナオは、その音を、船の底で聞いていた。
港町の坂の上の家。ネリカさんが話した、毎晩の音。スヴァルンの厨の、炉の熾火の前の音。
しゃっ、しゃっ。
エイヴァルの手つきは、まだ、ぎこちなかった。刃の角度が、ときどき狂った。そのたびに、エイヴァルは手を止めて、砥石を見下ろした。真ん中の、すり減った窪み。何十年も、ヴァルテの手が当たっていた場所。
それから、また、研ぎはじめた。
「その写し」
サリヤが、帳面から顔を上げずに言った。
「受け継いだ日から、自分の手で使って、手入れしないと、応えない。帳には、そう書いてある。血でも、言葉でも、継げないって」
「知ってる」
エイヴァルは、手を止めなかった。
「ヴァルテが、そう言ってた。研ぎ跡の一本一本が、誰かの晩だって」
しゃっ、しゃっ。
写しの刃が、研がれるたびに、小さく光っていた。
小さく、ぶれずに。
二日目の昼、ソルグが、船べりで、海の東を見ていた。
「雷の島は、ここから遠いか」
誰に訊いたのでもない声だった。
「東へ、四日」
サリヤが答えた。帳面から顔を上げずに。
ソルグは、それきり黙った。けれど、毛布で巻いた槌の上に、ずっと手を置いていた。
二日目の夜も、三日目の夜も、エイヴァルは研いでいた。
昼は、ほとんど口をきかなかった。ナオとも、話さなかった。けれど、夜になると、舳先に座って、砥石を取り出した。
三日目の夜、ナオは、船の底から、舳先のほうへ這っていった。
エイヴァルの横に、少し離れて、腰を下ろした。
エイヴァルは、何も言わなかった。研ぎつづけた。
ナオも、黙っていた。
しゃっ、しゃっ。
しばらくして、エイヴァルが、手を止めずに言った。
「研ぎ方、分かるか」
「分からない」
「そうか」
エイヴァルは、刃の角度を、少しだけ変えた。
「俺も、分からない。ヴァルテは、教えてくれなかった。見て覚えろって」
しゃっ、しゃっ。
北の空の極光が、だんだん濃くなっていった。
◇
北の海沿いの、名もない入り江。
帝国の旗艦の船室で、ガルヴァドは、海図の前に立っていた。
両手を、背で組もうとした。
組めなかった。
あの朝から、ずっとそうだった。指が、うまく噛み合わない。組もうとすると、割符の杖で打たれた手首の骨のくぼみが、かすかに疼いた。
ガルヴァドは、両手を、海図の上についた。
「軍団長」
副官が、戸口に立っていた。
「物見の報せです。光る帆の船が、海岸沿いを、北へ。天望岬の方角へ」
「返しに行くのだろう」
ガルヴァドは、海図の上の、北の岬を見下ろした。極光の橋。
「陸の兵を回せ。残っている者、全部だ。森の道を、北へ。天望岬の麓で、待て」
「軍団長。陛下には、何と……」
「剣を持ち帰れなければ、陛下の前には立てん」
ガルヴァドの声は、平らだった。
平らにしようとしている声だった。
「槌を失い、剣を失い、還し手に命を拾われた軍団長が、手ぶらで帝都の門をくぐれると思うか」
副官は、黙って、頭を下げた。
ガルヴァドは、海図の上についた自分の手を、見下ろした。
その手が、ほんの少しだけ、震えていた。
◇
四日目の夕暮れ、船の前に、岬が現れた。
黒い岩の、巨大な岬だった。海から、空へ向かって、斜めに突き上がっている。その頂は、雲に隠れて見えなかった。
雲の上で、極光が、揺れていた。
暮れ残る空に。緑と、薄紫と、白の光の幕が、何枚も重なって、岬の頂へ向かって、ゆっくりと降りていた。
「天望岬」
サリヤが言った。
「極光の橋は、あの上」
船が、岬の麓の、小さな砂浜に着いた。
ナオは、浅瀬に降りた。冷たい水が、脛に噛みついた。
振り返ると、岸の崖の上に、まだ、暗い目が並んでいた。三日間、ずっと付いてきた目だった。
数が、増えていた。




