第三十二話 天望岬
岬の麓の砂浜に、四人と一羽が降りた。
ナオは、船べりに手を当てた。
「返しに行く。そのために、いまは畳む」
帆の光が、消えた。帆柱が縮み、骨が扇を閉じるように折りたたまれ、浜の上に、両腕で抱えるほどの包みが残った。
「なんで畳む」
エイヴァルが訊いた。
「崖の上まで、船じゃ行けないだろう。でも、開いたままにしておけば、帰りに……」
「還し手殿」
帆柱のあった宙から、シルシが、ナオの背の荷の上へ降りてきた。
「申し上げます。本来の姿は、割符一つにつき、一度に一つでございます」
烏は、エイヴァルの腰の剣を、ちらりと見た。
「船が開いているあいだは、ほかの物は、開きません」
エイヴァルが、自分の腰の剣を見下ろした。
口は、開かなかった。けれど、柄に置いた手が、少しだけ、握り直された。
ナオは、包みを、縄で背に負った。
エイヴァルが、腰の剣の位置を、直していた。
右の腰に、神様の剣。左の腰に、ヴァルテの写し。二本の柄が、極光の光の中で、並んでいた。
エイヴァルは、少し迷うように、二本の柄を見比べた。それから、写しの柄に、左手を置いた。
「行くぞ」
短く言って、岬の斜面を見上げた。
◇
岬の上は、夜だった。
岬の黒い岩の斜面を登りはじめると、すぐに日が落ちた。北の果ての、冬の日は短い。空は、見る見るうちに暗くなっていった。雲の切れ目から、星がのぞいていた。暗い穴も。
そして、極光。
頭の上で、緑と薄紫と白の光の幕が、何枚も重なって、揺れていた。岬の頂へ向かって、ゆっくりと、降りていた。
その光だけが、道を照らしていた。
道は、細かった。岩の斜面に刻まれた、人ひとり通れるほどの段。凍りついて、滑った。片側は、黒い岩の壁。片側は、崖。崖の下で、灰色の海が、白い波を砕いていた。
ソルグが、先頭を歩いた。背中に、毛布で巻いた槌を括りつけて。
「足もとを見ろ。上は見るな」
ソルグが、振り向かずに言った。
その次に、サリヤ。帳面の鞄を、胸に抱えて。それから、ナオ。最後に、エイヴァル。
途中で一度、道が途切れていた。
岩の段が崩れて、人の背丈ほどの割れ目が、ぽっかりと口を開けていた。その下は、崖だった。風が、割れ目の底から、吹き上がってきた。
ソルグが、まず跳んだ。槌の包みの重さで、向こう側の段に、膝からどさりと落ちた。それから、手を伸ばした。
サリヤが、帳面の鞄を、先に向こうへ放った。ソルグが受け止めた。サリヤが、跳んだ。
ナオの番だった。
背中の船の包みが、重かった。割れ目の底から吹き上がる風が、顔を打った。
ナオは、割符を、帯から抜いた。両手で、横に持った。木の棒の重さが、体の真ん中に来た。
跳んだ。
向こう側の段に、片足が乗った。体が、後ろへ傾いだ。割符の重さが、ほんのわずかに、ナオの体を前へ引いた。ソルグの手が、ナオの外套の襟をつかんだ。
セイタ、と縫い取ってある襟を。
ナオは、向こう側の段に、転がりこんだ。
最後に、エイヴァルが跳んだ。腰の二本の柄が、跳んだ拍子に、かちりと触れあった。
エイヴァルの腰で、剣が、かすかに鳴っていた。
岩に当たる音ではなかった。剣そのものが、鞘の中で、ほんの小さく、震えているような音だった。
中ほどまで登ったとき、ナオは、足を止めた。
耳が、何かを拾った。
風の音でも、波の音でもなかった。
息だった。
たくさんの、低い息。岩の斜面の、上からも、下からも。
ナオは、振り返った。
登ってきた細い道の、ずっと下。麓の砂浜のあたりに、暗い点が、いくつも動いていた。崖の上にも。岩の陰にも。
光らない目だった。
岸を、三日間ついてきた影の狼たちが、岬を登ってきていた。
「上にも」
サリヤが、低く言った。
ナオは、上を見た。
道の先の、岩の棚の上。極光の光の中に、暗い目が、並んでいた。十。二十。数えるのを、やめた。
その棚のさらに上。岬の頂の、極光が地に降りてくるあたりの、黒い岩の突端に、小さな影が一つ、とまっていた。
烏だった。
年寄りの、羽の色の褪せた烏。スヴァルンの屋敷の梁から、峠の上へ知らせを持ってきて、北へ飛んでいった烏。
ずっと、そこで待っていたのだ。
剣が、返されるのを。
「寄せられてる」
サリヤが言った。
「剣に。……喰みは、最後の一年、預け物を喰みたがるって」
ナオは、エイヴァルの腰を見た。
鞘の中の剣が、震えていた。
極光の光の中で、鞘の口から、ほんのかすかに、光が漏れていた。霞んだ白ではなかった。もっと別の、淡い色。
返し場が、近いのだ。
天に返る物が、天の光に、呼ばれていた。
そして、その光に、狼たちが寄せられていた。
角笛が、鳴った。
下からだった。
ナオは、崖の縁から、見下ろした。
岬の麓の、森の縁。そこから、青白い点の列が、斜面を登ってきていた。稲妻の槍の穂先。数えきれないほど。
「ガルヴァドの兵だ」
ソルグが言った。
「陸を回ってきた。……三日、森の道を、休まずに歩かされたんだろう」
稲妻の点の列が、細い道を、こちらへ登ってくる。
先頭の兵が、立ち止まって、上を見上げた。隊長らしい男だった。
「還し手!」
声が、岩の斜面を伝って、登ってきた。
「剣を渡せ! 渡せば、命は取らん。軍団長の命令だ!」
ナオは、答えなかった。
答えは、もう、ナオの口の中にはなかった。剣は、エイヴァルの腰にあった。
その前を、狼の群れが、登ってくる。
上の岩の棚には、もっと多くの狼。
片側は、岩の壁。片側は、崖。
「走れ」
ソルグが言った。
「上の棚まで。あそこなら、背中を岩に預けられる」
四人は、走った。
凍った段を。滑りながら。ナオの背中の、畳んだ船の包みが、岩に当たった。
上の棚の狼たちが、こちらへ動きはじめた。
最初の一頭が、細い段の上で、エイヴァルに跳びかかった。
エイヴァルの左手が、ヴァルテの写しを抜いた。
横に一振り。
小さく、ぶれない光が、暗がりを裂いた。狼が、その光を避けるように、大きく跳びのいた。岩の段から、崖のほうへ、霧のように散って、また形を取った。
エイヴァルは、写しを構え直した。毎晩研いできた刃だった。
右の腰の剣は、まだ、抜かなかった。
ソルグが、背中の槌の包みを、むしり取った。毛布ごと。
ナオは、一瞬、息を止めた。
ソルグは、槌の柄を、握らなかった。毛布で巻いたまま、頭の部分を、狼の鼻先へ叩きつけた。ただの重い塊として。
狼が、霧のようにほどけて、また形を取った。
「握るな、とは誰にも言われてない」
ソルグが、息を切らしながら言った。
「でも、握らない。俺が、決めた」
岩の棚に、たどり着いた。
背中を、黒い岩の壁に預けた。
四人で、半円を作った。真ん中に、サリヤ。帳面の鞄を抱えて。その前に、ナオと、ソルグと、エイヴァル。烏が、岩の壁の出っ張りに止まっていた。
狼たちが、半円を、取り囲んだ。
光らない目が、極光の光の中で、暗く、並んでいた。息が、低く、重なっていた。
棚の下の、細い道からは、稲妻の点が、登ってきていた。
もう、退く場所は、どこにもなかった。
ナオは、割符を、帯から引き抜いた。
木の棒。腕ほどの長さの。
手の中で、ぬくかった。
世界から、音が消えていった。
狼の息の音が、遠くなった。稲妻の点の、近づく足音も。極光の、さらさらと鳴るような音も。
聞こえるのは、自分の息の音だけ。
手の中の、割符のぬくみだけ。
それから、もう一つ。
ナオのすぐ横から、音がした。
かち、かち、かち。
小さな、震える音。
ナオは、横を見た。
エイヴァルが、ヴァルテの写しを左の鞘に戻し、右の腰の剣を抜いていた。
両手で、柄を握って。狼の群れに向けて。
その剣が、エイヴァルの手の中で、震えていた。
エイヴァルの息が、白く、速かった。唇が、何かを言いかけて、閉じた。柄を握る指の節が、極光の光の中で、白く浮いていた。
けれど、震えているのは、エイヴァルの手ではなかった。
剣のほうが、震えていた。




