第三十三話 賢き者
剣が、震えていた。
エイヴァルの両手の中で。かち、かち、かち、と、鍔が鳴っていた。霞んだ刃の奥で、何かが、外へ出ようとしているように。
エイヴァルは、柄を握りしめていた。
指の節が、白く浮いていた。
「動け」
エイヴァルが、ささやいた。
誰にも聞こえないほどの、かすれた声だった。
「動け。今だ。今、動いてくれ」
剣は、震えるだけだった。
狼たちが、半円を、じりじりと狭めてきた。光らない目が、エイヴァルの手の中の剣を、じっと見ていた。喰みたい物を、見る目だった。
棚の下の細い道から、稲妻の点が、一つ、また一つと、上がってきていた。
「動けよ……!」
エイヴァルの声が、裂けた。
剣は、動かなかった。
狼が、跳んだ。
エイヴァルではなかった。半円の端の、サリヤへ。
ナオは、考えるより先に、サリヤの前へ体を入れていた。割符を、横に構えて。
狼の影の爪が、ナオの外套の袖をかすめた。布が、裂けた。
ソルグが、毛布で巻いた槌の塊を、狼の横腹へ叩きつけた。狼が、ほどけて、退いた。
「……無事」
サリヤが、ナオの背中で言った。帳面の鞄を、胸に抱えたまま。
ナオは、裂けた袖を見下ろした。セイタという男の外套の袖だった。その下の腕は、無事だった。爪は、布だけを持っていった。
狼の群れの奥で、暗い目が、また、数を増していた。
ナオは、エイヴァルの横顔を見ていた。
炉の前で、木を彫りながら、本音を絞り出した顔。剣が欲しいんじゃなかったんだ。剣が、戦ってくれる男になりたかった。剣に、お前でいいって、一度でいいから言ってほしかった。
今、同じ顔をしていた。
ナオは、口を開いた。
何を言えばいいのか、分からなかった。それでも、言葉が、喉もとまで上がってきていた。
「……エイヴァル」
エイヴァルは、ナオを見なかった。
「返しに行くんだろ」
ナオは言った。
「戦いに来たんじゃない。返しに来たんだ。あんたが、決めたんだ」
エイヴァルの手が、止まった。
震えていたのは、剣だけになった。
エイヴァルは、手の中の剣を、見下ろした。
霞んだ刃。光らない刃。父が、最後まで手放さなかった刃。
長いあいだ、見下ろしていた。
狼の息が、近づいてきた。
エイヴァルの肩から、力が抜けた。
柄を握りしめていた指が、ほどけていった。白く浮いていた節に、血の色が戻っていった。エイヴァルは、剣を、落としはしなかった。ただ、握るのを、やめた。
手のひらの上に、柄を、そっと乗せるように持った。
「……動かなくていい」
エイヴァルが言った。
剣に。
静かな声だった。
「お前に、戦ってもらわなくていい。俺は、お前を、返しに来ただけだ。お前は、うちの物じゃなかった。借りていた。……千年。長いあいだ、借りていた」
エイヴァルの声が、少しだけ、かすれた。
「親父も、借りていた。知らずに。お前を腰に、狼の前に立って、死んだ。お前のせいじゃない。言葉のせいだ。……親父の分も、言っておく」
エイヴァルは、目を閉じた。
「今まで、ありがとう」
剣が、鳴った。
かち、という音ではなかった。
もっと高く、澄んだ音。極光の幕を、指で弾いたような音だった。
ナオの胸の割符が、ふっと、熱くなった。
剣の刃にかかっていた白い霧が、ほどけた。
風に吹かれるように。朝の霧が、日に溶けるように。霞が、刃の上から、すうっと剥がれていった。
その下から、色が現れた。
夜明けの色だった。
港町の浜で、入り江の氷の上で、畳み船の帆に灯った、あの色。夜明けの空の、いちばん東の端の色。それが、刃の芯から、外へ、外へと、満ちていった。
柄の組紐の彫りが、ほどけはじめた。
木に刻まれた溝が、光の糸になって、一本ずつ浮き上がった。浮き上がった糸が、エイヴァルの手の甲を、手首を、ゆるやかに巻いていった。縛るのではなかった。添えられた手のように、軽く。
刃が、伸びた。
霞んでいたころより、ひと回り長く、細く。重さが、消えていた。エイヴァルの手のひらの上で、剣は、羽のように軽かった。
「本来の姿でございます」
岩の壁の出っ張りの上で、シルシが言った。
「賢き者の剣。預かり人、スヴァルンのエイヴァル殿の手にて」
エイヴァルが、目を開けた。
自分の手の中の剣を、見た。
夜明けの色の刃。光の糸の組紐。
剣が、動いた。
エイヴァルの腕が動くより先に、剣のほうが、前へ出た。
エイヴァルの手は、柄を握っていなかった。手のひらに、乗せているだけだった。その手を、剣が、導いていた。
最初の狼が、跳んだ。
剣が、横に流れた。
夜明けの色の光が、闇を裂いた。狼の影の体が、光に触れて、二つに割れた。割れた影は、霧のようにほどけて、崖の外へ吹き散らされた。形を取り戻すことも、できずに。風に流される煙のように、遠くへ、遠くへ。
二頭目。三頭目。
剣は、止まらなかった。エイヴァルの体を、軽々と運んで、狼の群れの真ん中へ入っていった。夜明けの色の光が、半円を描くたびに、狼たちの影が割れ、散っていった。
一頭が、群れの陰から、ソルグの背中へ跳んだ。
ソルグは、気づいていなかった。前の狼に、槌の塊を叩きつけていた。
剣が、くるりと向きを変えた。
エイヴァルの体ごと、ソルグの背中のほうへ。夜明けの色の光が、ソルグの肩の上をかすめて、跳んできた影を、宙で二つに割った。
ソルグが、振り向いた。
割れた影が、霧になって、崖の外へ流れていくのを見た。それから、エイヴァルを見た。
エイヴァルは、何も言わなかった。剣が、もう、次の狼のほうへ、エイヴァルを運んでいた。
群れが、割れた。
狼たちが、退いた。光らない目が、初めて、怯えたように細まった。
ナオは、自分の右の手のひらを見た。
三つの星の焼け跡。四つ目は、なかった。
焼けていなかった。
剣を開いたのは、ナオではなかった。エイヴァルだった。返す道の上の、預かり人の手。
エイヴァルの左の腰で、ヴァルテの写しが、燃え上がっていた。
小さく、ぶれなかった光が、一瞬、炎のように大きく膨れ上がった。本物の剣の光に、呼ばれたように。それから、また、小さく、ぶれない光に戻った。
ずっと南の、スヴァルンの屋敷の武具小屋でも、今、写したちが燃え上がっているのかもしれない、とナオは思った。
棚の下の細い道から、帝国の兵が、駆け上がってきた。
隊長が、先頭だった。稲妻の槍を、構えて。
「撃て!」
稲妻が、放たれた。何本も。棚の上の、エイヴァルへ。
剣が、動いた。
夜明けの色の刃が、稲妻を、払った。
青白い光が、刃に触れて、ぱっと散った。散った光は、極光の中へ吸いこまれるように、空へ消えていった。二本目も。三本目も。剣は、稲妻を一本残らず、払い落とした。
隊長が、槍を突き出した。
剣が、その穂先を、横から打った。
刃ではなかった。剣は、くるりと向きを変えて、平らな腹で、槍の柄を打った。槍が、隊長の手から跳ねて、崖の外へ落ちていった。
隊長は、無傷だった。
剣は、人を斬らなかった。
兵の誰に向かっても。槍を打ち、稲妻を払い、穂先を叩き落とした。けれど、刃は、一度も人の肌に触れなかった。
返しを守るための光だった。人を殺すための光ではなかった。
兵たちの足が、止まった。
稲妻の写しの穂先が、一本、また一本と、下ろされていった。
目の前で、夜明けの色の剣が、宙に浮くように揺れていた。その柄を、ナオと同じくらいの年の若者が、握りもせずに、手のひらに乗せていた。
「……神の、剣だ」
兵の誰かが、つぶやいた。
「本物の……」
隊長が、何か叫ぼうとした。声にならなかった。
兵たちが、後ずさった。
細い段の上で、押しあいながら。誰かが、背中を向けた。それが合図のように、兵たちが、いっせいに、細い道を駆け下りはじめた。
稲妻の点の列が、崩れていった。
岬の麓のほうへ。森のほうへ。
棚の上に、静けさが戻った。
狼の目は、どこにもなかった。兵の姿も。
エイヴァルが、棚の真ん中に、立っていた。
手のひらの上に、夜明けの色の剣を、乗せて。
剣は、もう、動いていなかった。静かに、光っているだけだった。エイヴァルの手の甲を巻いていた光の糸が、ゆるやかにほどけて、また柄のほうへ戻っていった。
エイヴァルは、剣を、見下ろしていた。
肩が、震えていた。
泣いているのだと、ナオには分かった。声は、出していなかった。
「……一度だけ」
エイヴァルが言った。
「一度だけ、動いてくれた」
生まれて初めて、剣は、エイヴァルを認めた。
そして、それが、最後だった。返しに来たのだから。
サリヤが、岩の壁に背をつけたまま、帳面を開いていた。
筆が、動いていた。
賢き者の剣。本来の姿。預かり人、スヴァルンのエイヴァルの手にて。返しの道の上。
字は、乱れていなかった。いつもと同じ速さだった。けれど、書き終えたあと、サリヤは、その行を、指でそっとなぞった。
ソルグが、槌の塊を、毛布ごと足もとに下ろした。エイヴァルの手のひらの上の剣を、見ていた。
「……握らなくても、持てるんだな」
誰に言ったのでもない声だった。
ナオは、自分の手の中の割符を見た。
握りしめていた。指の節が、白くなるほど。
ナオは、少しだけ、指を緩めた。割符は、落ちなかった。手のひらの上で、ぬくかった。
エイヴァルが、振り向いた。
ナオを、見た。
赤い目だった。けれど、その目には、もう、炉の前の顔も、船の甲板の顔も、なかった。
「……お前の言ったとおりだった」
ナオは、首をかしげた。
「借り物だと知ってる手、かもしれない。……炉の前で、お前が言った。俺が、小刀を木に突き立てた夜だ」
エイヴァルは、手のひらの上の剣を、少しだけ持ち上げた。
「腹が立った。今でも、少し立ってる」
ナオは、何も言えなかった。
エイヴァルの口の端が、上がった。
笑ったのだと、ナオにも分かった。
◇
頭の上で、光が、動いた。
ナオは、見上げた。
極光の幕が、降りてきていた。
岬の頂の、黒い岩の突端へ。何枚も重なった緑と薄紫と白の光が、ゆっくりと、ゆっくりと、空から地へ。天の端が、地に触れようとしていた。
突端の上で、年寄りの烏が、羽を広げていた。
光が、地に降りた。




