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【第一部完】カエシヤ 〜神々の預け物〜  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第一部「賢き者の剣」

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第三十三話 賢き者

 剣が、震えていた。

 エイヴァルの両手の中で。かち、かち、かち、と、鍔が鳴っていた。霞んだ刃の奥で、何かが、外へ出ようとしているように。

 エイヴァルは、柄を握りしめていた。

 指の節が、白く浮いていた。

「動け」

 エイヴァルが、ささやいた。

 誰にも聞こえないほどの、かすれた声だった。

「動け。今だ。今、動いてくれ」


 剣は、震えるだけだった。

 狼たちが、半円を、じりじりと狭めてきた。光らない目が、エイヴァルの手の中の剣を、じっと見ていた。喰みたい物を、見る目だった。

 棚の下の細い道から、稲妻の点が、一つ、また一つと、上がってきていた。

「動けよ……!」

 エイヴァルの声が、裂けた。

 剣は、動かなかった。


 狼が、跳んだ。

 エイヴァルではなかった。半円の端の、サリヤへ。

 ナオは、考えるより先に、サリヤの前へ体を入れていた。割符を、横に構えて。

 狼の影の爪が、ナオの外套の袖をかすめた。布が、裂けた。

 ソルグが、毛布で巻いた槌の塊を、狼の横腹へ叩きつけた。狼が、ほどけて、退いた。


「……無事」

 サリヤが、ナオの背中で言った。帳面の鞄を、胸に抱えたまま。

 ナオは、裂けた袖を見下ろした。セイタという男の外套の袖だった。その下の腕は、無事だった。爪は、布だけを持っていった。

 狼の群れの奥で、暗い目が、また、数を増していた。


 ナオは、エイヴァルの横顔を見ていた。

 炉の前で、木を彫りながら、本音を絞り出した顔。剣が欲しいんじゃなかったんだ。剣が、戦ってくれる男になりたかった。剣に、お前でいいって、一度でいいから言ってほしかった。

 今、同じ顔をしていた。

 ナオは、口を開いた。

 何を言えばいいのか、分からなかった。それでも、言葉が、喉もとまで上がってきていた。


「……エイヴァル」

 エイヴァルは、ナオを見なかった。

「返しに行くんだろ」

 ナオは言った。

「戦いに来たんじゃない。返しに来たんだ。あんたが、決めたんだ」


 エイヴァルの手が、止まった。

 震えていたのは、剣だけになった。

 エイヴァルは、手の中の剣を、見下ろした。

 霞んだ刃。光らない刃。父が、最後まで手放さなかった刃。


 長いあいだ、見下ろしていた。

 狼の息が、近づいてきた。

 エイヴァルの肩から、力が抜けた。

 柄を握りしめていた指が、ほどけていった。白く浮いていた節に、血の色が戻っていった。エイヴァルは、剣を、落としはしなかった。ただ、握るのを、やめた。

 手のひらの上に、柄を、そっと乗せるように持った。


「……動かなくていい」

 エイヴァルが言った。

 剣に。

 静かな声だった。

「お前に、戦ってもらわなくていい。俺は、お前を、返しに来ただけだ。お前は、うちの物じゃなかった。借りていた。……千年。長いあいだ、借りていた」


 エイヴァルの声が、少しだけ、かすれた。

「親父も、借りていた。知らずに。お前を腰に、狼の前に立って、死んだ。お前のせいじゃない。言葉のせいだ。……親父の分も、言っておく」

 エイヴァルは、目を閉じた。

「今まで、ありがとう」


 剣が、鳴った。

 かち、という音ではなかった。

 もっと高く、澄んだ音。極光の幕を、指で弾いたような音だった。

 ナオの胸の割符が、ふっと、熱くなった。

 剣の刃にかかっていた白い霧が、ほどけた。


 風に吹かれるように。朝の霧が、日に溶けるように。霞が、刃の上から、すうっと剥がれていった。

 その下から、色が現れた。

 夜明けの色だった。

 港町の浜で、入り江の氷の上で、畳み船の帆に灯った、あの色。夜明けの空の、いちばん東の端の色。それが、刃の芯から、外へ、外へと、満ちていった。

 柄の組紐の彫りが、ほどけはじめた。

 木に刻まれた溝が、光の糸になって、一本ずつ浮き上がった。浮き上がった糸が、エイヴァルの手の甲を、手首を、ゆるやかに巻いていった。縛るのではなかった。添えられた手のように、軽く。

 刃が、伸びた。

 霞んでいたころより、ひと回り長く、細く。重さが、消えていた。エイヴァルの手のひらの上で、剣は、羽のように軽かった。


「本来の姿でございます」

 岩の壁の出っ張りの上で、シルシが言った。

「賢き者の剣。預かり人、スヴァルンのエイヴァル殿の手にて」

 エイヴァルが、目を開けた。

 自分の手の中の剣を、見た。

 夜明けの色の刃。光の糸の組紐。

 剣が、動いた。


 エイヴァルの腕が動くより先に、剣のほうが、前へ出た。

 エイヴァルの手は、柄を握っていなかった。手のひらに、乗せているだけだった。その手を、剣が、導いていた。

 最初の狼が、跳んだ。

 剣が、横に流れた。

 夜明けの色の光が、闇を裂いた。狼の影の体が、光に触れて、二つに割れた。割れた影は、霧のようにほどけて、崖の外へ吹き散らされた。形を取り戻すことも、できずに。風に流される煙のように、遠くへ、遠くへ。

 二頭目。三頭目。

 剣は、止まらなかった。エイヴァルの体を、軽々と運んで、狼の群れの真ん中へ入っていった。夜明けの色の光が、半円を描くたびに、狼たちの影が割れ、散っていった。


 一頭が、群れの陰から、ソルグの背中へ跳んだ。

 ソルグは、気づいていなかった。前の狼に、槌の塊を叩きつけていた。

 剣が、くるりと向きを変えた。

 エイヴァルの体ごと、ソルグの背中のほうへ。夜明けの色の光が、ソルグの肩の上をかすめて、跳んできた影を、宙で二つに割った。

 ソルグが、振り向いた。

 割れた影が、霧になって、崖の外へ流れていくのを見た。それから、エイヴァルを見た。

 エイヴァルは、何も言わなかった。剣が、もう、次の狼のほうへ、エイヴァルを運んでいた。


 群れが、割れた。

 狼たちが、退いた。光らない目が、初めて、怯えたように細まった。


 ナオは、自分の右の手のひらを見た。

 三つの星の焼け跡。四つ目は、なかった。

 焼けていなかった。

 剣を開いたのは、ナオではなかった。エイヴァルだった。返す道の上の、預かり人の手。

 エイヴァルの左の腰で、ヴァルテの写しが、燃え上がっていた。

 小さく、ぶれなかった光が、一瞬、炎のように大きく膨れ上がった。本物の剣の光に、呼ばれたように。それから、また、小さく、ぶれない光に戻った。

 ずっと南の、スヴァルンの屋敷の武具小屋でも、今、写したちが燃え上がっているのかもしれない、とナオは思った。


 棚の下の細い道から、帝国の兵が、駆け上がってきた。

 隊長が、先頭だった。稲妻の槍を、構えて。

「撃て!」


 稲妻が、放たれた。何本も。棚の上の、エイヴァルへ。

 剣が、動いた。

 夜明けの色の刃が、稲妻を、払った。

 青白い光が、刃に触れて、ぱっと散った。散った光は、極光の中へ吸いこまれるように、空へ消えていった。二本目も。三本目も。剣は、稲妻を一本残らず、払い落とした。

 隊長が、槍を突き出した。


 剣が、その穂先を、横から打った。

 刃ではなかった。剣は、くるりと向きを変えて、平らな腹で、槍の柄を打った。槍が、隊長の手から跳ねて、崖の外へ落ちていった。

 隊長は、無傷だった。

 剣は、人を斬らなかった。

 兵の誰に向かっても。槍を打ち、稲妻を払い、穂先を叩き落とした。けれど、刃は、一度も人の肌に触れなかった。

 返しを守るための光だった。人を殺すための光ではなかった。


 兵たちの足が、止まった。

 稲妻の写しの穂先が、一本、また一本と、下ろされていった。

 目の前で、夜明けの色の剣が、宙に浮くように揺れていた。その柄を、ナオと同じくらいの年の若者が、握りもせずに、手のひらに乗せていた。

「……神の、剣だ」

 兵の誰かが、つぶやいた。

「本物の……」


 隊長が、何か叫ぼうとした。声にならなかった。

 兵たちが、後ずさった。

 細い段の上で、押しあいながら。誰かが、背中を向けた。それが合図のように、兵たちが、いっせいに、細い道を駆け下りはじめた。

 稲妻の点の列が、崩れていった。

 岬の麓のほうへ。森のほうへ。


 棚の上に、静けさが戻った。

 狼の目は、どこにもなかった。兵の姿も。

 エイヴァルが、棚の真ん中に、立っていた。

 手のひらの上に、夜明けの色の剣を、乗せて。

 剣は、もう、動いていなかった。静かに、光っているだけだった。エイヴァルの手の甲を巻いていた光の糸が、ゆるやかにほどけて、また柄のほうへ戻っていった。

 エイヴァルは、剣を、見下ろしていた。

 肩が、震えていた。

 泣いているのだと、ナオには分かった。声は、出していなかった。


「……一度だけ」

 エイヴァルが言った。

「一度だけ、動いてくれた」

 生まれて初めて、剣は、エイヴァルを認めた。

 そして、それが、最後だった。返しに来たのだから。


 サリヤが、岩の壁に背をつけたまま、帳面を開いていた。

 筆が、動いていた。

 賢き者の剣。本来の姿。預かり人、スヴァルンのエイヴァルの手にて。返しの道の上。

 字は、乱れていなかった。いつもと同じ速さだった。けれど、書き終えたあと、サリヤは、その行を、指でそっとなぞった。

 ソルグが、槌の塊を、毛布ごと足もとに下ろした。エイヴァルの手のひらの上の剣を、見ていた。


「……握らなくても、持てるんだな」

 誰に言ったのでもない声だった。

 ナオは、自分の手の中の割符を見た。

 握りしめていた。指の節が、白くなるほど。

 ナオは、少しだけ、指を緩めた。割符は、落ちなかった。手のひらの上で、ぬくかった。


 エイヴァルが、振り向いた。

 ナオを、見た。

 赤い目だった。けれど、その目には、もう、炉の前の顔も、船の甲板の顔も、なかった。

「……お前の言ったとおりだった」

 ナオは、首をかしげた。


「借り物だと知ってる手、かもしれない。……炉の前で、お前が言った。俺が、小刀を木に突き立てた夜だ」

 エイヴァルは、手のひらの上の剣を、少しだけ持ち上げた。

「腹が立った。今でも、少し立ってる」

 ナオは、何も言えなかった。

 エイヴァルの口の端が、上がった。

 笑ったのだと、ナオにも分かった。


    ◇


 頭の上で、光が、動いた。

 ナオは、見上げた。

 極光の幕が、降りてきていた。

 岬の頂の、黒い岩の突端へ。何枚も重なった緑と薄紫と白の光が、ゆっくりと、ゆっくりと、空から地へ。天の端が、地に触れようとしていた。

 突端の上で、年寄りの烏が、羽を広げていた。

 光が、地に降りた。

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