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【第一部完】カエシヤ 〜神々の預け物〜  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第一部「賢き者の剣」

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第三十四話 確かに、お返しいたします

 天の端が、地に触れていた。


 岬の頂は、平らな岩の台だった。

 草も、雪も、なかった。風に磨かれた黒い岩が、星明かりの下で、濡れたように光っていた。その真ん中に、極光が降りていた。

 天から、地へ。

 緑と薄紫と白の光の幕が、何枚も重なって、岩の台の上に、裾を引いていた。裾は、地面に触れたところで、ゆるやかに渦を巻いていた。


 見上げれば、光の幕は、そのまま夜空の高みへ、暗い穴のあいだへと、まっすぐに伸びていた。

 橋だった。

 天へ架かる、光の橋。

 ナオは、その麓に立っていた。

 エイヴァルが、横に立っていた。手のひらの上に、夜明けの色の剣を乗せて。サリヤと、ソルグが、少し後ろに。

 年寄りの烏が、岩の台の縁の、黒い突端にとまっていた。シルシが、その隣に降りた。若い烏と、年寄りの烏。二羽並んで、橋を見上げていた。


 光の中で、何かが動いた。

 ナオは、目を凝らした。

 極光の裾の、渦の真ん中。光の幕が、ひときわ濃く重なったところに、影が立っていた。

 人の形をしていた。背が高かった。岬の岩の壁よりも、高く見えた。けれど、その姿は、光の幕の向こうにあって、輪郭がはっきりしなかった。

 顔があるのかどうかも、分からなかった。ただ、こちらを見ているのだということだけが、分かった。

 見られている、と思った。

 ナオの頭のてっぺんから、足の爪の先まで。胸の割符の、一つひとつの刻みまで。


「見張りの、イルヴァー様でございます」

 シルシが、いつもより低い声で言った。

「眠らずの番神。草の伸びる音を聞き、百里先を見る方でございます。橋を見張っておられます。……地上では、お口をきかれるだけでございます」


 光の中の影が、口をきいた。

 声は、耳から聞こえたのではなかった。極光の幕全体が、低く鳴るように、胸の奥へ直に響いてきた。

「千年」

 それだけだった。

 長い間があった。

「千年、待った。北の剣を」


 影の目が、エイヴァルの手の上の剣に、落ちた。

「持ってきたのは、誰だ」

 エイヴァルが、一歩、前へ出た。

「スヴァルンの、エイヴァル」

 声は、震えていなかった。

「この剣を、預かっていた家の者だ。……返しに来た」


 ナオは、胸の返し布を、ほどいた。

 割符を、取り出した。

 木の棒。腕ほどの長さ。片面は平らで、片面は丸い。丸い面の縁に、百の刻み。そのうち一つだけが、ほのかに白い。

 ナオは、割符を、両手で持った。

 エイヴァルの横に立った。

 エイヴァルが、剣を、両手で持った。今度は、手のひらに乗せるのではなく、柄を、そっと握って。刃を、天へ向けて。

 ナオは、割符を、剣の柄に添えた。


 割符の木肌が、組紐の光の糸に触れた。

 ぬくかった。

 割符も、剣も。

 剣の光が、ふっと、鈍った。


 夜明けの色が、刃の芯へ、引っこむように薄れた。柄の光の糸が、一本、二本と、木の溝の中へ戻りかけた。

 ナオは、エイヴァルの顔を見た。

 エイヴァルの目が、剣の刃を見ていた。橋ではなく。

 その目に、何かが浮かんでいた。

 これを、手放す。千年、この家にあった物を。父が握っていた物を。たった一度だけ、自分を認めてくれた物を。今、手の中で、こんなにも美しく光っている物を。


「……一瞬でも、返したくないと思えば、黙ります」

 シルシが、低く言った。誰を責めるのでもない声で。

「返しは、成りません」


 エイヴァルの肩が、こわばった。

 ナオは、黙って待った。

 割符を、剣の柄に添えたまま、待った。炉の前で、そうしたように。

 エイヴァルは、目を閉じた。

 長い、長い息を吐いた。白い息が、極光の光の中で、ほどけて消えた。

 目を開けたとき、エイヴァルは、剣ではなく、自分の左の腰を見ていた。ヴァルテの写しを。

 それから、橋を、見上げた。

 剣の芯に、夜明けの色が、戻ってきた。光の糸が、また、柄の上に浮き上がった。


「言葉は、決まっております」

 シルシが、言った。

「還し手殿と、預かり人殿と、ご一緒に」

 ナオは、エイヴァルを見た。

 エイヴァルが、ナオを見た。

 うなずいた。


「預かり暦千年」

 二人の声が、重なった。

「賢き者の剣」

 ナオの声と、エイヴァルの声。

「確かに、お返しいたします」


 極光が、鳴った。

 岬じゅうが、鳴った。岩も、空も、海も。

 岩の台の縁の突端で、シルシが、羽を大きく広げた。年寄りの烏も。二羽の黒い翼が、極光の光の中で、広がった。

「確かに」

 シルシの声だった。

 平らな、いつもの声だった。けれど、その声は、岬じゅうに、はっきりと聞こえた。

「お受けいたしました」


 剣が、光になった。

 エイヴァルの手の中で。刃の夜明けの色が、刃の形を離れて、光そのものになっていった。柄の組紐の光の糸が、ほどけて、空へ。刃の芯の光が、ほどけて、空へ。

 エイヴァルの手から、重さが消えていった。

 エイヴァルは、手を、開かなかった。握りしめもしなかった。ただ、両手を、そのままの形にしていた。光が、その手のあいだから、ゆっくりと抜けていくのを、見ていた。

 光が、昇っていった。

 極光の橋の中を。一筋の、細い光になって。地から、天へ。逆向きの流れ星のように。

 上り星だった。


 ナオは、首を反らして、それを見上げた。

 光は、昇って、昇って、橋の高みの、北の空の星々のあいだへ。

 暗い穴の、一つへ。

 すうっと、収まった。

 北の空に、星が一つ、灯った。

 千年、暗がりだった場所に。昔の星図には描かれていて、空には暗がりしかなかった場所に。小さな、白い星が。


 ナオの手の中で、割符が、熱くなった。

 ナオは、見下ろした。

 丸い面の縁の、百の刻み。ずっと暗かった九十九のうちの、一つ。

 それが、灯っていた。

 ほのかに、白く。もとから白かった一つの隣で。

 二つ。

 千年で、二つ目。


 ナオは、割符を、両手で持ち直した。

 重かった。

 港町の帳場の炉端で、初めて受け取ったときより、ずっと重かった。灯った二つの刻みの横に、暗い刻みが、まだ、ずらりと並んでいた。返さなければならない物は、あと九十七。

 どこにあるのかも分からない。誰が持っているのかも。そのうちのいくつが、家宝と呼ばれて、誰かの手に握りしめられているのかも。

 一つ返すのに、ひと冬の、半分がかかった。家が一つ落ちた。人が一人、死んだ。

 残りの暗がりの重さが、初めて、本当に、ナオの手の上に乗った。


    ◇


 エイヴァルが、自分の手を見下ろしていた。

 空っぽの手だった。

 何も、持っていなかった。千年、この家が握っていた物。父が、最後まで手放さなかった物。十の冬から、毎晩握ってきた物。

 何も。


 エイヴァルは、その手を、ゆっくりと下ろした。

 左の腰に、手が触れた。

 ヴァルテの写しの柄に。

 エイヴァルは、写しを、抜いた。

 小さな光が、灯っていた。

 ナオは、息を止めた。


「本物が天に返れば、写しは、全部、光を失う」

 サリヤが、低く言った。帳面を胸に抱えたまま。

「帳には、そう書いてある。北じゅうの、この剣の写しが、今」


 スヴァルンの武具小屋の、家の兵たちの写しも。帝国に百本贈ると言われた写しも。

 ヴァルテの写しは、光っていた。

 小さく。前よりも、ずっとかすかに。けれど、消えずに。ぶれずに。

「……二百年」

 エイヴァルが、つぶやいた。

「うちの手が、研いだ」

 エイヴァルは、写しを、胸の前で、両手で持った。

 ヴァルテが、最後に押さえた手の上に、自分の手を重ねるように。


「……空っぽだ」

 エイヴァルが言った。右の手を、少しだけ持ち上げて。

「うん」

「軽い」

 エイヴァルは、写しを鞘に戻した。空っぽの右手を、開いたり、閉じたりした。

「こんなに、軽かったのか」

 ナオは、言葉を探さなかった。

 エイヴァルの横に、黙って立っていた。


 サリヤが、帳面に、筆を走らせていた。

 賢き者の剣。返し、成る。預かり暦千年、冬。返し場、極光の橋。預かり人、スヴァルンのエイヴァル。還し手、ナオ。証人、証し烏シルシ。

 筆が、止まった。

 サリヤは、少しだけ迷うように、筆の先を宙に浮かせた。それから、もう一行、書き足した。

 証人、川の帳守の会の書記サリヤ。

 自分の名を。

 字は、乱れていなかった。


 光の中の影が、また、口をきいた。

「豊穣の神は」

 極光が、低く鳴った。

「終わりの戦いを、この剣で立つだろう」


 ナオには、その意味は、分からなかった。終わりの戦い。豊穣の神。ただ、その声が、少しだけ、ほっとしているように聞こえた。

 影が、橋の奥へ、遠ざかりはじめた。

 光の幕が、少しずつ、薄くなっていく。

 そのとき、影が、止まった。

 振り返った。


 影の目が、ナオの手元に、落ちた。

 両手で持った、割符に。

「……よく擦れた割符だ」

 それだけ言って、影は、極光の奥へ、消えていった。


 ナオは、自分の手の中の割符を、見下ろした。

 よく擦れた。

 割符の木肌は、つるりとしていた。平らな面は、磨いたように。刻みの縁は、少しだけ丸くなっていた。千年、誰かの手が、握り、包み、ほどき、また包んできた跡。

 包丁の柄の窪み。ヴァルテの写しの、重なった窪み。三百年の櫂の、飴色の柄。

 何かが、ナオの頭の隅を、かすめた。

 それが何なのか、分かる前に、消えた。


 シルシが、ナオの背の荷の上に降りてきた。

「申し上げます。雷の槌も、この橋でお返しになれます。北の雷の神様の物でございますので」

 ソルグが、足もとの、毛布で巻いた塊を見下ろした。

 ナオは、ソルグを見た。

 槌は、今、ナオの手で運んでいる物だった。還し手が拾った物。ナオが、ここで割符を添えて、返しの言葉を言えば、返せる。


「ソルグが、決めていい」

 ナオは言った。

 ソルグは、長いあいだ、毛布の塊を見ていた。

「……まだ」

 小さな声だった。

「島の浜を、見せてやりたい。こいつに。百年、帰ってないんだから」

 ナオは、うなずいた。

 シルシは、首をかしげて、それきり何も言わなかった。


 岩の台の縁の突端から、年寄りの烏が、飛び立った。

 スヴァルンの梁の上に、冬至の朝から居座っていた烏。

 烏は、極光の橋の中へ、まっすぐに昇っていった。上り星の後を追うように。光の幕の中で、黒い点になり、それから、見えなくなった。

 帳を、閉じたのだと、シルシが言った。

 岩の台の上に、四人と一羽が残った。

 極光が、少しずつ、空へ引き上げられていく。

 エイヴァルが、空っぽの右手を、もう一度、見下ろしていた。

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