第三十五話 はじめての物
夜の村の端に、男たちが立っていた。
櫂を持って。斧を持って。三百年の櫂。曾祖父の代から薪を割ってきた斧。それから、壺を抱えた老人。壺の蓋の隙間から、熾火のぬくもりが漏れていた。
ナオたちがスヴァルンの入り江に戻ったのは、岬を降りて六日目の夕方だった。
船は、開かなかった。海沿いの森の道を、四人で歩いて帰った。ナオの手のひらの三つの星は、もうずいぶん薄くなっていた。帝国の兵には、一度も会わなかった。北の空に、新しい星が一つ、毎晩、灯っていた。
入り江の村は、焼けたままだった。けれど、焼け跡のあちこちに、新しい柱が立ちはじめていた。焼け残った舟小屋が、仮の住まいになっていた。
「家の兵の写しは、光らなくなった」
老人が、ナオに言った。
「若様たちが北へ発って、四日目の夜にな。一本残らず、いっぺんに。ただの鉄の棒だ」
老人は、森の縁の暗がりを見た。
「だから、うちの道具で、夜を守る。狼は、櫂の届くところには、来ねえ。なんでだかは、知らん」
エイヴァルの腰には、ヴァルテの写しが一本だけ、下がっていた。
小さく、かすかに、光っていた。
◇
四日後、上王の旗の船が、入り江に入ってきた。
前と同じ使者だった。白い髭を短く刈りこんだ、痩せた男。上王の名代として、北の諸侯の館を回っている。革の筒から、羊皮紙を抜き出した。
屋敷の広間は、まだ壊れていた。門は、仮の板で塞がれていた。けれど、炉には、火が入っていた。エイヴァルが、奥の座に立っていた。座らずに。ヤルナが、その横に立っていた。
「スヴァルンの若殿は、上王の禁令に背き、預け物を、神々の名において返した」
使者は、乾いた声で読み上げた。
「よって、跡継ぎとしてのお認めは、取り消す。春の集いにて、スヴァルンの領は、上王が預かる」
広間の誰も、声を出さなかった。
エイヴァルは、黙って、それを聞いていた。
「承った」
短く、そう言った。
使者は、羊皮紙を巻き戻した。
それから、少しだけ、声を落とした。
「もう一つ、伝えることがある。上王の御言葉ではない。……北の諸侯の噂だ」
使者は、ナオのほうを、ちらりと見た。
「十日前の夜、北じゅうの、ある剣の写しが、いっせいに光を失った。この入り江より東の、隣の領のヤールの村でも」
ナオの背中が、冷たくなった。
「あの村には、古い道具を守る家がなかった。写しの光だけで、夜を守っていた。光が消えた夜、影の狼が来た」
使者は、言葉を切った。
「村の灯は、半分、喰われた。凍えて、朝を迎えられなかった者が、何人か出たと聞く」
広間が、しんとなった。
ナオは、動けなかった。
十日前の夜。
岬の頂で、極光の橋の麓で、二人で言葉を言った夜。剣が、光になって、昇っていった夜。北の空に、新しい星が灯った夜。
割符の刻みが、二つ目に灯った夜。
その夜に、隣の村の灯が、喰われた。
正しく返した。帳にも、そう書かれた。烏も、確かに受け取ったと言った。見張りの神も、ほっとしたような声で、豊穣の神はこの剣で立つ、と言った。
それなのに。
返していない村に。何も知らずに、写しの光で夜を守っていた村に。
「……おれが」
ナオの口から、言葉がこぼれた。
その先が、続かなかった。
答えが、なかった。
使者は、それ以上、何も言わずに、広間を出ていった。
◇
その夜、ナオは、薪小屋の軒下で、膝を抱えていた。
割符を、膝の上に横たえていた。
二つの、白い刻み。その横に並ぶ、暗い刻み。返さなければならない物は、あと九十七。
一つ返すたびに、どこかで、写しが光を失う。どこかの国の軍が、弱くなる。どこかの村の、夜を守っていた光が、消える。
あと、九十七。
足音がした。
エイヴァルだった。ナオの隣に、どっかりと腰を下ろした。ヴァルテが、いつか、そうしたように。
「集いには、行く」
エイヴァルが言った。前置きもなく。
「春に。フロイスタへ。跡継ぎの認めは、取り消された。それでも、行く」
「……なんで」
「上王の前で、北じゅうのヤールの前で、言う」
エイヴァルは、夜の入り江を見ていた。
「あの剣は、うちの物じゃなかった。借りていた。三代前に、言葉を書き換えた。だから、返した。……自分の口で、そう言う」
エイヴァルは、少しだけ、口の端を上げた。
「隣の村のことも、言う。返したせいで、灯が喰われたと。それでも、返すべきだったと言えるかどうかは、まだ分からない。でも、言う。黙ってるより、ましだ」
ナオは、エイヴァルの横顔を見た。
何も、言えなかった。
答えは、まだ、ナオの中にもなかった。
◇
翌朝、厨の炉の前で、ヤルナが、砥石を持っていた。
ヴァルテの砥石だった。真ん中が、浅く窪んだ、灰色の平たい石。エイヴァルが、北の岬へ持っていって、毎晩使っていた石。
ナオは、薪を運んできたところだった。
ヤルナが、ナオを見た。
砥石を持った手が、ナオのほうへ、少しだけ、差し出されかけた。
ナオは、足を止めた。
ヤルナの手が、宙で、止まっていた。
ヤルナは、何も言わなかった。ナオの顔を、見ていた。去ってください、頼みます。床に手をついた、あの夜の手だった。
その手が、ゆっくりと、向きを変えた。
炉の向こう側に座って、ヴァルテの写しを膝に乗せていた、息子のほうへ。
ヤルナは、砥石を、エイヴァルの手に、渡した。
エイヴァルが、母を見上げた。
ヤルナは、やはり、言葉にはしなかった。
息子の隣に、腰を下ろした。
エイヴァルが、写しを研ぎはじめた。しゃっ、しゃっ。ぎこちない手つきだった。刃の角度が、ときどき狂った。
ヤルナが、手を伸ばした。息子の手の上から、砥石の角度を、少しだけ直した。
何十年も前、誰かがそうするのを、見ていたような手つきだった。
しゃっ、しゃっ。
二人は、並んで、写しを研いでいた。
ナオは、薪を、炉の脇に、そっと下ろした。
◇
「雷の島へ、行きたい」
その日の昼、ソルグが言った。
舟小屋の前で、毛布で巻いた槌の前に、しゃがみこんで。
「こいつを、島へ。島の浜を、見せてやって、それから、返したい。ヴェイデルの家に、籠手があるって、帳守が言ってた。揃えて、返す」
ソルグは、ナオを見上げた。
灰色の目だった。嵐の前の空の色。
「お前が、運んでくれ。還し手なんだろう。……頼む」
ナオは、少し考えた。
「頼まれなくても、行く」
ナオは言った。
「でも、頼まれたから、行く。両方だ」
ソルグは、変な顔をした。それから、少しだけ、笑った。
初めて見る、ソルグの笑い顔だった。
◇
出発の朝。
入り江の浜に、村の者たちが集まっていた。壺を抱えた老人。折れた櫂を、新しく削りなおしはじめた孫。馬番の少年。厨の女。年寄りの兵。
ヤルナは、屋敷の門の跡に立っていた。浜までは、降りてこなかった。けれど、ナオたちが浜に着いたとき、一度だけ、小さく、頭を下げたのが見えた。
エイヴァルが、浜まで降りてきた。
ナオの前に立った。
胸の隠しから、何かを取り出した。
「手を出せ」
ナオは、手を出した。
手のひらの上に、小さな物が、置かれた。
白い木だった。親指ほどの長さの、細長い木の留め具。真ん中に、紐を通す穴が開いている。表面に、北の組紐の模様が、隙間なく彫りこまれていた。
途切れずに、どこまでも続く溝。一か所だけ、小刀の刺さった跡のような、小さな窪みがあった。その窪みを避けるように、組紐の溝が、ゆるやかに回りこんでいた。
そして、端に、一枚の葉。
細長い、葉の形。
ナオは、その葉を、知っていた。
港町の宿の軒先に、下がっていた板。ナオたち一族の印。新しい葉が育ってから、古い葉を落とす木。代を譲る木。
譲葉の、葉だった。
「……どうして、この葉を」
「お前の返し布の隅に、縫い取ってあった」
エイヴァルは、そっぽを向いた。
「割符の紐に、付けろ。紐の端が、すぐほどける。見てて、いらいらした」
エイヴァルは、ナオの手のひらの上の留め木を、指でさした。
「お前のだ」
短く、言った。
「返さなくていい」
ナオは、手のひらの上の木を、見下ろした。
白い木。組紐の彫り。小刀の窪み。譲葉の葉。
お前の、だ。
ナオの手が、勝手に動いた。
留め木を、両手で持ち直した。返し屋の手つきで。届け物を、届け先に差し出すときの。柄を、相手に向けるように。
ナオの両手が、エイヴァルのほうへ、少しだけ、差し出されかけた。
止まった。
ナオは、自分の手を、見下ろした。
返さなくていい、と言われた物を、返そうとしていた。十七年、そういうふうにしか、物を持ったことがなかった。誰かの物を、預かって、届けて、返す。それしか、知らなかった。
返さなくていい物を、どう持てばいいのか、分からなかった。
ナオは、両手を、胸のほうへ、ゆっくりと引き戻した。
留め木を、手のひらで包んだ。
どのくらいの力で包めばいいのか、分からなかった。
手のひらの上で、白い木は、ぬくかった。割符とは違うぬくみだった。誰かが、たった今まで、何日も何日も、手の中で彫っていた木の、ぬくみだった。
「……ありがとう」
ナオは言った。
声が、少しだけ、震えた。
エイヴァルは、そっぽを向いたまま、言った。
「礼は、言わなくていい。うまく言えないのは、お互いさまだ」
ナオは、胸の返し布をほどいて、割符を取り出した。
割符の端の紐に、留め木を通した。結んだ。
木の棒の端で、白い留め木が、小さく揺れた。
割符は、神様と人の、約束の物だった。
留め木は、ナオの物だった。
生まれて初めての。
サリヤが、少し離れたところで、帳面を開いていた。
ナオは、横から、ちらりとのぞいた。
賢き者の剣の、返しの行。雷の槌の、持ち手の行。
それから、ずっと前のページ。
E01。戻り眼。状態、預かり。預かり人、サリヤ。
その下の、返しの欄は、空いたままだった。
サリヤは、そのページを、ナオが見ているのに気づいた。閉じなかった。ただ、ナオの手の中の留め木を、ちらりと見て、それから、帳面を閉じた。
「行くよ」
サリヤが言った。
「証人は、還し手に付いていく」
ナオの背の荷の上で、シルシが、羽をふくらませた。
「帳に記します。還し手ナオ殿、東へ。雷の島へ」
浜の老人が、壺を抱えたまま、手を上げた。
ナオは、歩きだした。
割符の端で、留め木が揺れていた。
ナオは、それを、どう持てばいいのか分からないまま、持っていた。
◇
◇
帝都クレイヴ。
大陸のまんなかに近い、峰の上の都。その都のいちばん高い塔の上に、見る座と呼ばれる、石の高座があった。
皇帝エルドラン三世は、その座から、北の夜空を見ていた。
星々のあいだに、暗い穴が並んでいた。千年のあいだに灯ったのは、譲り星、ただ一つだった。
北の空の、ある星座の端に、十日ほど前から、小さな白い星が一つ、灯っていた。昔の星図には描かれていて、千年、空には暗がりしかなかった場所に。
「戻り星、と呼ぶのだったな」
皇帝が言った。
振り向かずに。
見る座の下の石段に、老女が一人、立たされていた。両手を前で縛られて。けれど、背は、まっすぐに伸びていた。
七十八の、返し屋の老女だった。
「……そうですね」
チヨは、北の空の星を見上げていた。
孫の手で灯った星を。
「北の軍団長は、槌を失い、剣を失い、命を拾われたと、北から報せが来た。還し手に」
皇帝は、少しだけ、笑ったようだった。
「面白い」
皇帝は、見る座から、立ち上がった。
チヨを、見下ろした。
その胸のあたりで、何か小さな、黒く光るものが、かすかに動いた気がした。
「還し手には、好きに返させよ」
皇帝は言った。
チヨではなく、見る座の脇に控えた、誰かに向けて。
「好きなだけ。返せるだけ」
北の空で、新しい星が、小さく瞬いていた。
第一部「賢き者の剣」、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
九十九のうち、返せたのは、まだ一つです。
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