第八話 家の誇り
戸口の真上の梁から、烏が一羽、ナオを見下ろしていた。
シルシではなかった。シルシは、ナオの背の包みの上にいる。梁の烏は、もっと年寄りで、羽の黒が少しだけ色褪せていた。
スヴァルンの屋敷は、船を伏せたような形をしていた。
岬の上の長い家だった。太い丸太の壁に、芝を葺いた屋根。中に入ると、天井は高く、真ん中に長い炉が切ってあって、その両側に、板の腰掛けがずらりと並んでいた。
炉の火は、明るかった。狼に喰われずに残った、岬の上の火だった。
ナオとサリヤは、戸口に近い腰掛けの端に座らされていた。
村の灯を守ったのは、あの返し屋の子だ。男たちのあいだでそう話が回り、ともかく屋敷へ連れてこられたのだった。礼を言われたわけではない。ただ、追い返されなかっただけだ。
梁の烏は、いつのまにか、ナオから目を離していた。
「取り立ての烏」
隣で、家の兵の一人が、小声で言った。
「冬至の朝から、ああして居座ってる。追っても逃げない。餌もやらないのに死なない。気味が悪いって、女たちは目も向けない」
梁の烏は、首ひとつ動かさなかった。ただ、屋敷のいちばん奥を、じっと見下ろしていた。
ナオも、そちらを見た。
広間の奥の、一段高い座の後ろの壁に、木の架が据えてあった。北の組紐のような模様が、隙間なく彫りこまれた架だった。その上に、あの剣が掛けられていた。
霞んだ刃。光らない刃。
賢き者の剣。
奥の戸が開いて、女の人が入ってきた。
背が高く、薄い色の髪を、きつく結い上げていた。黒い毛織の服に、銀の留め具がひとつだけ光っている。顔は、エイヴァルとよく似ていた。けれど目は、エイヴァルよりもずっと冷たかった。
家の兵たちが、いっせいに立ち上がった。
「ヤルナ様」
女の人は、兵たちには目もくれず、まっすぐナオの前まで来た。
「返し屋だそうですね」
「……そうです」
「烏を連れて」
ヤルナの目が、ナオの背の烏に落ち、それから、戸口の梁の烏へ上がった。
「村の火のことは、聞きました。礼は、言っておきます」
礼の言葉なのに、声は少しも温かくなかった。
「それで。何の用で、この家に来たのです」
ナオは、答えに詰まった。
サリヤが、横で黙っていた。証人は、口を出さない。そういう顔だった。
ナオは、胸の返し布を、両手で抱え直した。
「……あの剣を、返してほしくて来ました」
広間が、しんとなった。
「剣は、神様からの借り物です。千年目の明けまでに、返さないと、神様が取り立てに来る。おれは、割符を預かってます。還し手、っていうんだそうです」
自分で言いながら、ナオには、その言葉がひどく軽く聞こえた。
背の烏が、口を開いた。
「まことでございます。こちらが還し手のナオ殿。あちらの剣は、賢き者の剣。北の極光の橋へ、お返しいただくべき物でございます」
椅子が、床を擦る音がした。
広間の奥の座の陰に、エイヴァルが立っていた。いつからそこにいたのか、ナオは気づかなかった。外套を脱ぎ、腕に布を巻いている。狼の牙にかすめられたのだろう。
「返せ、だと」
エイヴァルは、ゆっくりと、剣の架の前まで歩いた。
霞んだ剣を、架から下ろした。両手で、柄を握った。
「これは、スヴァルンの誇りだ」
声は低かった。けれど、広間の隅々まで届いた。
「父の父の父から、この家に譲られてきた。父は、この剣を腰に、去年の秋、狼の前に立った。そして死んだ。剣は、父のためにも動かなかった。それでも、この剣は父の物だった。今は俺の物だ」
エイヴァルの指が、柄の上で、白くなった。
「どこの馬の骨とも分からない返し屋に、烏を連れて現れて、神様の借り物だから返せと言われて、はいそうですかと渡すと思うか」
「夫を、狼に殺された家です」
ヤルナが、静かに言った。
「そのうえ、剣まで取り上げに来たのですか。神様の名を借りて」
「取り上げに来たんじゃ……」
「では、何です」
ナオは、言葉を探した。
取り上げに来たのではない。返しに来たのだ。けれど、何が違うのか、口で言おうとすると、うまく言えなかった。届け物なら、ナオはいつも、持ち主に返しに行った。今度は、持ち主から、返してもらいに来たのだ。
祖母なら、何と言っただろう。
「一年しかないんです」
口から出たのは、それだけだった。
「九十九、返さなきゃならない。ここで断られたら……」
「断る」
エイヴァルが言った。
ナオは、立ち上がった。
自分でも、どうして立ったのか分からなかった。ただ、足が動いた。広間の真ん中を、炉の火の横を、奥の座のほうへ歩いた。
家の兵たちが、腰を浮かせた。
エイヴァルは、動かなかった。剣を両手で握ったまま、ナオが近づいてくるのを、見下ろしていた。
「取れるものなら、取ってみろ」
剣の柄が、ナオの目の前にあった。
手を伸ばせば、届く。
ナオの手が、上がった。
「還し手殿」
背中で、烏が言った。いつもより、少しだけ早い声だった。
「生きている者の手から、力ずくで取れば、還し手殿でも、奪いになります」
ナオの手が、止まった。
「奪いになれば、剣は黒く濁り、光の矢が、還し手殿の胸を狙います。帳には、そう記すほかございません」
エイヴァルの目が、わずかに見開かれた。けれど、すぐにまた、冷たく細くなった。
ナオは、伸ばしかけた手を、ゆっくりと下ろした。
胸の割符が、ぬくかった。
割符を預かった。還し手になった。船を開いた。北まで来た。それで、何かができるようになったつもりでいた。
何もできなかった。
目の前に、返すべき剣がある。持ち主が、両手で握っている。その手から取れば、奪いになる。脅しても、だましても、奪いになる。持ち主が、自分で渡してくれなければ、ナオには、何ひとつできないのだった。
頼むことしか。
ナオは、うつむいた。
目が、自分の襟もとに落ちた。セイタ、と縫い取ってある。知らない男の名前。ナオの物ではない外套。
自分の物を持ったことのない手が、人の一番大事な物を、返せと言いに来たのだった。
「出ていけ」
エイヴァルが、剣を架に戻した。
「明日の朝までに。村の火のことがなければ、今すぐ叩き出していた」
エイヴァルは、ナオに背を向けて、奥の戸へ歩いていった。ヤルナが、それに続いた。戸が閉まる前に、ヤルナが一度だけ振り返った。その目は、ナオではなく、ナオの胸の返し布を見ていた。
戸が閉まった。
広間の男たちが、少しずつ、腰掛けに戻っていった。誰も、ナオに話しかけなかった。
梁の上の烏だけが、ずっと、剣を見下ろしていた。
ナオは、腰掛けの端に戻った。
サリヤが、帳面を膝に広げていた。筆が、いつもと同じ速さで動いている。
ナオは、横からのぞいた。
スヴァルン家。賢き者の剣。曇り。還し手、返しを願う。跡継ぎ、断る。還し手、取らず。
それだけだった。
広間の誰の顔も、誰の声も、書かれていなかった。
「……知ってたのか。生きてる手からは、取れないって」
「帳には、千年前から書いてある」
「なら、先に言ってくれれば」
「言ったら、あんたは手を伸ばさなかった?」
ナオは、答えられなかった。
サリヤは、筆を止めずに続けた。
「伸ばして、止めた。それは書いた。取らなかったのは、帳の上では正しい。それだけ」
慰めではなかった。書いたことを、そのまま読み上げただけの声だった。
けれどナオは、「還し手、取らず」の一行を、しばらく見ていた。何もできなかった、とは書かれていなかった。
◇
夜更け、ナオは、屋敷の外の、薪小屋の軒下に座っていた。
サリヤは、厨の隅を借りて眠っている。明日の朝、二人で出ていくことになるのだろう。どこへ行けばいいのかは、分からなかった。
足音がした。
ヴァルテだった。左の腕を布で吊り、右手に、あの古い剣を提げている。顔色は、松明の光の中でも、ひどく白かった。
ヴァルテは、ナオの隣に、どっかりと腰を下ろした。
「若様は、ああ言ったがな」
白い息を吐いた。
「あんたが火を消させなきゃ、村は半分、灯を喰われてた。灯を喰われた家は、凍えて朝を迎えられん」
ナオは、何も言えなかった。
「若様は、礼の言い方を知らん。親父さまも、そうだった」
ヴァルテは、しばらく黙って、夜の入り江を見ていた。
それから、ナオのほうへ、顔を向けた。
「しばらく、ここに居てやってくれんか。客として。俺が頼む」
頼む、と言われた。
「……はい」
ナオは、答えていた。
答えてから、気づいた。出ていけと言われた家に、頼まれて残る。剣を返してもらえる当ては、何もない。
それでも、ナオは帰らないのだった。




