第七話 剣に選ばれない跡継ぎ
光らない目は、ナオたちを見ていなかった。
木々の奥で、六つの暗い点が、ゆっくりと横へ流れていく。道の上の二人には、目もくれなかった。雪を踏む音さえしない。ただ、暗がりより暗いものが、森の奥を、同じ方角へ滑っていく。
南へ。
木々の切れ目の向こうに、明かりが見えた。
入り江だった。森が尽きたところで土地が落ちこみ、凍った入り江のほとりに、長い屋根の家が二十ほど集まっている。
家々の窓に、炉の火が灯っていた。入り江の向こうの岬の上には、ひときわ大きな長い家が、黒い影になって立っている。
「スヴァルンの村」
サリヤが、袖をつかんだまま言った。
影の狼たちは、その明かりのほうへ、まっすぐ降りていった。
◇
最初の灯が消えたのは、村のいちばん外れの家だった。
窓の明かりが、ふっと細くなった。風に吹かれたのではなかった。火のほうが、何かに吸い取られるように、小さく縮んでいく。やがて、窓は暗くなった。
家の中で、悲鳴が上がった。
二つ目の窓が暗くなる。三つ目。
灯を喰っているのだと、ナオには分かった。森の中で、狼たちはナオとサリヤを素通りした。二人は、灯を持っていなかったからだ。
村の真ん中で、角笛が鳴った。
岬の上の長い家から、松明の列が駆け下りてくる。十人ほどの男たちだった。毛皮の外套に、剣を提げている。先頭を走るのは、ナオと同じくらいの年の若者だった。
松明の光の中で、男たちの剣が、淡く光っていた。
写しだ、とナオは思った。帝国の兵の槍と同じ。神器を真似て作られた剣。けれどその光は、帝国の稲妻よりもずっと弱く、雪の上で、今にも消えそうに揺れていた。
若者が、村の真ん中で剣を抜いた。
大きな剣だった。鞘から抜かれた刃は、霧がかかったように白く霞んでいた。光っていない。ほかの男たちの写しよりも、なお暗い。
若者は、それを両手で振りかぶった。
影の狼が一頭、家の陰から跳んだ。若者の剣が、横ざまに振られた。重い。振る腕より先に、剣の重さが体を持っていく。刃は狼の影をかすめ、狼は霧のようにほどけて、また少し先で形を取り戻した。
若者は、すぐに剣を構え直した。
柄を握る両手が、白くなるほど固く締まっていた。
「若様、前へ出すぎだ!」
しわがれた声がした。
男たちの中から、一人の老人が進み出た。背は曲がっているが、肩が広い。白い髭が胸まで垂れていた。
手にしているのは、若者の剣と同じ形の、けれどずっと古びた剣だった。柄に巻いた革は黒ずみ、刃には無数の細かな研ぎ跡がある。
その刃が、光っていた。
ほかの写しのように、揺れてはいなかった。小さく、けれど、ぶれない光だった。
老人が剣を振ると、狼たちが、その光を避けるように退いた。
◇
ナオは、村の外れの土手の上に伏せて、それを見ていた。
「あれが、跡継ぎのエイヴァル」
サリヤが、低く言った。目は、霞んだ剣から離れなかった。
「あの剣が、賢き者の剣。会の帳では、三代、一度も自分で動いてない。北のヤールたちは、あの人のことを、剣に選ばれない跡継ぎって呼んでる」
ナオは、若者の背中を見た。柄を握りしめた両手を。
「……行かないの」
サリヤが言った。
「行っても、何もできない」
本当だった。ナオには、剣も、写しもない。割符は木の棒だ。船は、開けば光る。光れば、狼が寄ってくる。
けれど、何かできることはないのかと、ナオは目を凝らした。
狼たちは、どこから来るのか。
雪の上に、足跡は残っていなかった。影でできた体は、雪を踏まないらしい。けれど、狼たちが通ったあとの家の窓が、順に暗くなっていく。その暗くなる順を、ナオは目で追った。
外れの家。その隣。凍った小川の岸の家。小川を渡った向こうの家。
小川だ。
狼たちは、凍った小川の上を走って、村の奥へ入りこんでいる。川岸の家から順に、灯が消えている。
それから、もう一つ。
狼は、火の消えた家には、二度と寄りつかなかった。
ナオは、土手を駆け降りた。
「ちょっと!」
サリヤの声が、背中で聞こえた。
小川の、まだ灯の残る家の戸を叩いた。中には、女と子どもが三人、炉のそばにうずくまっていた。
「火を消して!」
「何を言うんだい、この寒さに……」
「狼は、灯に来る。暗いところには来ない。消して、裏から、もう暗くなった家へ」
女は、ナオの顔を見た。外から、また悲鳴が聞こえた。女は炉に灰をかぶせ、子どもを抱き上げた。
ナオは次の家へ走った。
その家では、老人が一人、炉の前に座りこんでいた。
「消さんよ」
老人は、ナオを見もしなかった。
「この火は、婆さんが嫁に来た日に点けた火だ。四十年、一度も絶やしたことがない。婆さんが死んでからもだ」
外で、狼の影が、隣の家の窓を舐めるように横切った。
ナオは、戸口で足を止めた。急げ、と体は言っていた。けれど、ナオは老人の話を、最後まで聞いた。届けた物について持ち主が話しはじめたら、最後まで聞く。いちばん最後のところに、いちばん大事なことがある。
「……婆さんが、この火を消すなと言ったんですか」
老人の肩が、動いた。
「いや。……あいつは、寒いのが嫌いだった。それだけだ」
「火種を、壺に移して持っていけば、消えません。灰の下で、朝まで眠らせておけます」
老人は、長いあいだ炉を見ていた。それから、黙って、火箸で熾火を一つ、小さな壺に移した。蓋をした。
ナオはその家を出て、次へ走った。その次へ。火を消して、暗いほうへ。小川から離れて、坂の上の、もう灯の消えた家へ。
いつのまにか、サリヤも隣の家の戸を叩いていた。
「火を消して。この子の言うとおりに」
暗くなった家々に、村人たちが身を寄せていく。灯の消えた村の中で、狼たちは、獲物を見失ったように、凍った小川の上をうろうろと行き来しはじめた。
◇
残った灯は、男たちの松明だけになった。
狼たちが、そこへ集まっていく。
若者が、先頭で剣を振っていた。何度振っても、剣は狼を断たなかった。刃が影をかすめるたびに、狼はほどけ、また形を取る。若者は、退かなかった。肩で息をしながら、松明の列の前に立ち続けていた。
その横で、老人の古い剣だけが、狼を押し返していた。
狼の群れの奥から、ひときわ大きな一頭が出てきた。
牛ほどもある体だった。片方の耳が、根もとからなかった。その目は、ほかの狼よりもさらに深く、暗かった。
片耳の狼は、まっすぐに若者へ跳んだ。
若者が、剣を振り上げた。間に合わない。
老人が、若者の前に体を入れた。
片耳の狼の牙が、老人の左の腕に、深々と食いこんだ。
老人は、声をあげなかった。そのまま、右手の古い剣を振り下ろした。刃は狼の肩をかすめ、狼は大きく跳びのいて、暗がりへ退いた。
それが合図のように、群れは、凍った入り江の向こうの森へ、音もなく引いていった。
老人は、雪の上に膝をついた。
若者が、駆け寄った。
「ヴァルテ!」
ナオも、走った。
老人の外套の左の袖が、裂けていた。その下の腕に、牙の跡が並んでいる。
血が、出ていなかった。
傷口は、雪よりも白かった。まわりの肌が、氷のように青ざめて、湯気ひとつ立てていない。
「……ちと、冷えるな」
ヴァルテと呼ばれた老人は、自分の腕を見下ろして、そう言った。いつものことだと言うような、ぶっきらぼうな声だった。
けれど、右手に握った古い剣の切っ先が、雪の上で、かすかに震えていた。
若者は、ヴァルテの腕を見た。それから、ヴァルテの古い剣を見た。最後に、自分の手の中の、霞んだ剣を見た。
何も言わなかった。
ただ、唇を、血がにじむほど噛んでいた。
若者が、立ち上がった。
そして、初めて、ナオを見た。
「お前が、火を消させたのか」
「……はい」
「誰だ」
「返し屋です。ナオといいます」
若者の目が、ナオの背中の包みの上に動いた。そこに、烏がとまっていた。
若者の顔が、こわばった。
剣の柄から、手が離れなかった。抜き身のまま、刃先を雪に向けて、両手で握りしめている。霞んだ刃は、松明の光を映しもしなかった。
「その烏」
「シルシと申します」
烏が言った。若者の後ろで、男たちがざわめいた。
「また、烏か」
若者は、岬の上の長い家を振り返った。
ナオも、そちらを見上げた。
屋敷の正面の、開け放たれた大戸の奥。炉の明かりの届く戸口の真上の梁に、黒い影が一つ、うずくまっていた。
烏だった。
村が襲われているあいだも、男たちが戦っているあいだも、その烏は、一度も動かずに、そこにとまっていたのだった。




