第五話 継ぎ剣
三日目の朝、陸が見えた。
白い崖だった。崖のあいだに、海が深く切れこんでいる。その奥へ、群青の水が、どこまでも細く入っていく。崖の上には、黒い針のような木々がびっしりと並び、そのさらに上を、雪をかぶった山が囲んでいた。
北の国、ヴェトラ。
切れこみの入り口に、港町があった。石の波止場に、腹の太い船がいくつも並び、長い屋根の家々から、白い煙が上がっている。
「この帆で、港へは入れないよな」
「入れば、誰もが見ます」
烏が言った。
後ろの帆影は、夜が明けきるころには、また見えなくなっていた。それでも、どこかで同じ風を待っているはずだった。夜明けの色の帆が港に入ったと噂になれば、すぐに追いつかれる。
ナオは船を、港の手前の、崖の陰の小さな入り江に寄せた。浅瀬に降りると、また水の冷たさが脛に噛みついた。
船べりに手を当てた。
「返しに行く。そのために、いまは畳む」
帆の光が、すうっと消えた。
帆柱が縮み、板が一枚ずつ外れて、骨が扇を閉じるように折りたたまれていく。最後に帆布が、それを幾重にもくるんだ。気がつくと、ナオの腕の中には、浜で掘り出したときと同じ、両腕で抱えるほどの包みがあった。
手のひらは、焼けなかった。
開くときだけなのだと、ナオは思った。
包みを縄で背に負い、割符を返し布にくるんで胸に抱えた。
烏が、背の包みの上に降りた。
「重い」
「わたくしは、預け物に触れられませんので。この上がいちばん、近うございます」
「歩けよ」
「烏ですので」
ナオは、ため息をついた。言い返しても、この烏は降りない。
◇
港町の通りは、魚と煙と、焼けた鉄の匂いがした。
すれ違う人々は、背が高く、髪の色が薄かった。毛皮の襟を立て、帝国の言葉とは違う、角ばった言葉で話している。帝国の言葉で話しかければ、半分くらいは通じた。
ナオは、パン屋の前で足を止めた。
腹が、鳴った。
隠しの中の銅貨の袋に、指が触れた。指は、そこで止まった。宿の銭箱に返す物だ。
「おい、そこの」
声をかけられた。煤で顔を黒くした、ナオと同じくらいの年の少年が、炭の袋を三つも担いで、よろけていた。
「暇なら、一つ持ってくれ。組合の広間まで。駄賃に、パンを一つやる」
「はい」
ナオの口は、もう答えていた。
頼まれれば、体は先に動く。三日、誰にも頼まれずにいたあとだと、それがなぜか、少しだけほっとした。
炭の袋は、背の船の包みより重かった。
◇
鍛冶組合の広間は、町でいちばん大きな長い家だった。
中は薄暗く、太い柱が二列に並んでいた。奥の壁際で炉が燃え、その前に、組合の男たちが十人ほど集まって、何かを言い合っていた。
炭を下ろしながら、ナオはそちらを見た。
男たちが囲んでいるのは、壁に掛けられた一振りの剣だった。
大きな剣だった。刃の幅が、ナオの手のひらほどもある。刃は、炉の火を受けて、鈍い銀色に光っていた。
ただ、刃の真ん中あたりに、一本、斜めの線が走っている。線のこちらとあちらで、鉄の色が、ほんのわずかに違う。
一度折れた剣を、つないだ跡だった。
「継ぎ剣、っていうんだ」
炭の少年が、パンを差し出しながら言った。
「神様の剣だったのが、昔、折れて、うちの組合の先祖が鍛え直した。だから、うちの剣だって、親方たちは言ってる。いや、神様の剣だから返さなきゃならないって言う奴もいる。烏が来てから、ずっとあれだ」
広間の梁の上に、一羽の烏がとまっていた。シルシよりも年寄りに見えた。黙って、下の言い合いを見下ろしている。
「神の鉄は神の物だ」
「打ち直したのは、俺たちのじいさんのじいさんだぞ。折れた鉄は、ただの鉄くずだ」
「なら、なんで烏が来た」
ナオは、パンをかじりながら、胸の割符を、そっと抱き直した。
その割符が、ぬくくなった。
かと思うと、ひやりと冷えた。
また、ぬくくなる。冷える。
ナオは、思わず割符を見下ろした。こんなことは、初めてだった。剣を向けると、ぬくみが寄る。けれど、寄りきらない。手のひらの中で、ぬくみと冷たさが、迷うように行ったり来たりしている。
「その棒、何?」
すぐ横で、声がした。
娘が一人、立っていた。
ナオより少し年上に見えた。この町の人たちとは違って、髪は黒く、肌は日に焼けたような深い色をしていた。
南の生まれだと、一目で分かった。厚い毛皮の外套の下から、肩掛けの革の鞄がのぞいている。片手に、開いたままの帳面を持っていた。
娘は、ナオの顔ではなく、ナオの背中の包みの上を見ていた。
烏が、そこにいた。
「烏は、神様から預かった物のある所にしか降りない。この広間の烏は、あの剣の烏。じゃあ、あんたの荷の上の烏は、何の烏?」
「……知らない。ついてくるんだ」
「そう」
娘は、烏のほうへ、少しだけ顔を寄せた。
「あんた、証し烏でしょう」
「はい」
シルシが答えた。
「シルシと申します。こちらは、還し手のナオ殿でございます」
「おい!」
ナオは、思わず声を上げた。広間の男たちが、何人か振り返った。
娘は、表情をひとつも変えなかった。
「嘘がつけないのね、証し烏は。帳に書いてあるとおり」
娘は、帳面に、何かを書きつけた。
筆の動きが、まるで変わらなかった。還し手、と聞いても。烏が人の言葉で答えても。ナオが声を上げても。字を書く速さだけが、ずっと同じだった。
「私はサリヤ。川の帳守の会の書記」
「帳守……」
「人の側の帳を付けてる。どこに何が預けられて、誰が持ってて、どういう状態か。千年分」
サリヤは、壁の継ぎ剣に目をやった。
「あれを調べに、三月かけて南から来た。神の物か、人の物か。会でも答えが出てないの」
サリヤは、ナオの胸の包みを、顎で示した。
「近づけてみて。さっきから、何か変だったでしょう、あんた」
見られていたのだ。
ナオは、黙って、男たちの輪の外から、剣のほうへ近づいた。誰も止めなかった。男たちは言い合いに夢中で、炭運びの子どもになど、目もくれなかった。
剣の前で、返し布を少しだけほどいた。
割符は、ぬくくなり、冷たくなった。行ったり来たり。剣に近づけても、離しても、それは変わらなかった。
「どっち」
「……分からない。ぬくいのと冷たいのが、交互に来る」
サリヤは、帳面に書いた。
継ぎ剣。割符、温かくも冷たくもなる。神の物とも人の物とも、決まらず。
ナオは、横からその字を見た。分からないことを、分からないと書いている。
「答え、書かないのか」
「分からないことを分かったように書いたら、帳じゃなくなる」
サリヤは、帳面を閉じた。
「あんたは、どこへ行くの」
「北の、スヴァルンって家。剣を返してもらいに行く」
「賢き者の剣」
サリヤは、ナオが言う前に、名を言った。
「スヴァルン家の剣なら、会の帳では曇り。三代前から。あの家は、剣を家宝だって言ってる」
サリヤは、鞄に帳面をしまった。
「付いていく」
「え?」
「還し手が返すところを、人の側の証人として帳に書く。それが会の仕事。神々の側には烏が付く。人の側には、私」
「頼んでないけど」
「頼まれてないよ」
サリヤは、あっさりと言った。
「神なんか信じてない。祈って答えが来たことなんて、一度もない。私は、帳を嘘なく書くだけ」
ナオは、娘の顔を見た。
どこまで本当なのか、分からなかった。帳守の会。そんなものがあることを、ナオは今日まで知らなかった。
割符のことは、持っている者しか知らないと、祖母は言っていた。それなのに、この娘は、還し手という言葉を、帳面で読んだように知っていた。
サリヤのほうも、ナオを信じている顔ではなかった。
「勘違いしないで。仲間じゃない。証人だから」
背中の包みの上で、烏が羽をふくらませた。
「わたくしも、証人でございます」
「あんたは黙ってて」
サリヤが、初めて、声を尖らせた。烏をにらむ目だけが、炉の火よりも熱かった。
◇
鐘が鳴った。
広間の外、港のほうから、甲高い鐘の音が、続けざまに響いてきた。男たちの言い合いが、ぴたりと止んだ。
炭の少年が、戸口から外をのぞいて、振り返った。
「帝国の船だ!」
ナオは、戸口に走った。
港の入り口の、白い崖のあいだを、大きな船が、ゆっくりと入ってくるところだった。一隻、二隻、三隻。帆には、雷の紋。
甲板に、槍の穂先が並んでいた。朝の光の中でも、その一本一本の先に、青白い火花が散っているのが見えた。
サリヤが、ナオの横に立った。
「割符狩り」
帳面を書くときと同じ、変わらない声だった。




