第四話 欠け星の海
目を覚ますと、空が白かった。
ナオは船の底で、外套にくるまって眠っていたらしい。いつ眠ったのか覚えていない。帆は夜明けの色のまま、まだふくらんでいた。
けれど空のほうが本物の夜明けになってしまうと、帆の色は、少しだけ遠慮しているように見えた。
見渡すかぎり、海だった。
陸の影は、どこにもない。
烏は、舳先にとまっていた。
ナオが体を起こすと、こちらを向いた。
「お目覚めですか、還し手殿」
「……どれくらい寝てた」
「月が沈んでから、日が昇るまで」
ナオは、手のひらを開いた。
星の形の焼け跡は、ゆうべほどは光っていなかった。けれど、そこだけ皮膚が薄く張りつめていて、指を曲げると、ずきりと痛んだ。
その痛みで、全部が夢でないと分かった。
包丁を届けた坂。欠け星の瞬き。屋根の烏。炉端の割符。稲妻の槍。縄をかけられた背中。
「シルシ」
「はい」
「ばあちゃんは、生きてるか」
烏は、すぐには答えなかった。
波が、船腹を叩いた。一度。二度。
「分かりません」
ナオは、烏を見た。
「分からないって、何だよ。お前、神様の烏なんだろ」
「わたくしに見えるのは、帳に載る物だけでございます。預け物と、割符と、還し手殿と。チヨ殿は、帳に載っておりません」
「じゃあ、嘘でもいいから、生きてるって言えよ」
「嘘は、つけません」
烏の声は、平らだった。いつもと同じだった。
ナオは、何か言い返そうとした。言葉が出てこなかった。
しばらくして、気がついた。
分からない、と烏は言った。死んだ、とは言わなかった。嘘をつけない烏が、死んだとは言わなかった。
それだけを、ナオは握りしめた。
泣けたら、少しは楽だったのかもしれない。けれど涙は出てこなかった。胸の中の、祖母のいた場所だけが、冷たい水を張ったように、しんとしていた。
◇
昼になると、腹が痛くなった。
昨日の朝から、何も食べていない。船には、水も食べ物も積まれていなかった。神様の船は、人の腹のことまでは考えていないらしい。
ナオは、帆の端に溜まった夜露を舐めた。塩の味がした。
外套の内の隠しを探ると、硬い物が指に当たった。小さな布袋だった。
ネリカさんから受け取った、包丁の届け賃だった。
銅貨が、六枚。袋の口を開けて、ナオは手のひらに出してみた。宿へ帰ったら、帳場の銭箱に入れるはずだった物だ。返し屋の届け賃は、宿の物だ。ナオの物ではない。
港を出てから、ナオが持ち出した物は、割符と、この六枚だけだった。どちらも、ナオの物ではなかった。
ナオは銅貨を袋に戻し、隠しの奥へ押しこんだ。いつか、宿の銭箱に返す。そう決めておくほうが、なぜだか、少しだけ寒さがましになった。
「シルシ。これ、増えるのか」
手のひらの焼け跡を、烏に向けた。
「船を開くたびに、一つでございます」
「ずっと?」
「一つの季節に七つを超えれば、両の掌が星で埋まり、その手は、もう何も握れなくなります」
ナオは、自分の手を見た。
何も握れない手。包丁も、荷も、割符も。
「季節が替われば、薄れます」
烏が、付け足した。慰めなのかどうか、ナオには分からなかった。
「じゃあ、ほかの預け物も、こうやって開けるのか。剣とか、槍とか」
「割符一つにつき、一度に一つでございます。いまは、この船が」
ナオは、帆を見上げた。
夜明けの色の帆。これが開いているあいだは、ほかの何も開かない。
百人の兵の前に立っても、ナオが持っているのは、この船と、木の棒が一本だけだった。
◇
日が傾くと、海の色が変わった。
群青が、黒に近くなる。風が冷たく、乾いてきた。空気の匂いから、潮の甘さが抜けていく。北へ来ているのだと、ナオにも分かった。
夜になった。
北の星は、港で見るよりも、さらに大きかった。手を伸ばせば、指先が触れそうだった。
その星のあいだに、穴がある。
九十九の、欠け星。
港の軒先から見上げていたときは、ただの暗がりだった。いまは違う。あの穴の一つひとつに、地上のどこかの剣や、槍や、冠が対になっている。誰かが、家の宝だと思って、千年、握りしめている物が。
ナオは、指で数えようとした。
七つで、どれを数えたのか分からなくなった。子どものころと、同じだった。
ただ、一つだけ、見分けのつく星があった。
西の空の低いところに、欠け星の並びの中で、そこだけ小さな光が灯っている。昔の星図で穴だったところに、星が戻っている。
譲り星だ。
千年のあいだに戻った、ただ一つの星。ずっと昔、ナオたちの先祖の国が、預け物を一つ返したときに灯ったのだと、祖母は言っていた。
国はそのあと滅んで、一族は返し屋になって、散り散りになった。だから譲葉の民は、旅をするとき、あの星を目印にする。
割符の、ひとつだけ白い刻み。あれと、同じ光なのだと思った。
ナオは、その星を、しばらく見ていた。祖母も、どこかで、同じ星を見ているかもしれなかった。
そのとき、海が鳴った。
いや、海ではなかった。
ずっと遠く、北の、水平線のさらに向こうから、低い声が来た。
遠吠えだった。
狼の声に似ていた。けれど、狼の声ではありえなかった。声が来ると、船の下の海が、ざわりと粟立った。帆が、一瞬だけ、びりびりと震えた。ナオの胸の骨にまで、その声は響いた。
長い、長い声だった。
声が止むと、海は何事もなかったように凪いだ。
ナオは、自分が息を止めていたことに気づいた。
「……今の、何だ」
「グラウム、と呼ばれております」
烏は、北を向いたまま言った。
「北の果ての湖の島に、千年、縛られている狼でございます。今年は、よく鳴くでしょう」
「縛られてるのに?」
「縛られているから、でございます」
ナオは、それ以上は訊かなかった。
訊けば、もっと怖い答えが返ってくる気がした。この烏は、嘘をつかない。
◇
割符のぬくみが動いたのは、真夜中を過ぎたころだった。
ナオは返し布を膝に広げ、割符を両手で持っていた。そうしていると、手のひらの痛みが、少しだけ和らぐ気がしたのだ。
そのぬくみが、片側へ寄った。
浜のときと同じだった。ナオは棒の先を、ぬくみの寄るほうへ、ゆっくりと向けた。ぬくみが、手のひらの真ん中へ戻る。
舳先の、少し左。
船を回すように、割符を右へ、左へと振ってみた。ぬくみは、いつも同じ一点へ寄った。星で言えば、北の極の、少し西。
「……これ、何を指してる」
「預け物を」
烏が、ナオの膝の前に降りてきた。割符には触れないよう、少し離れてとまった。
「割符は、預け物の在り処を知っております。いま、いちばん強く呼んでいるのは、賢き者の剣。北の辺境の、スヴァルンという家にございます」
「剣」
「はい。賢き者が持てば、みずから戦う剣でございます」
烏は、少し間を置いた。
「ただ、いまは、曇っております」
「曇り?」
「持つ者が、我が物と思っております。家の宝、家の誇りと。そう思われた預け物は、力を閉ざします」
――千年も手もとに置いてりゃ、誰だって自分の物だと思うようになる。
祖母の声が、耳の奥で聞こえた。
ナオは、自分の襟もとに目を落とした。
セイタ、と縫い取ってある。知らない男の名前。この外套を、ナオはもう何年も着ている。それでも、これを自分の物だと思ったことは、一度もなかった。
自分の物だと思える物を持っている人は、どんな気持ちなのだろう。
それを、返せと言われる人は。
「そこに、いちばん近い返し場は」
「北の岬、天望岬の上。極光の橋でございます」
烏が、北の空を見上げた。
水平線の上の空が、ほんのわずか、緑色に揺れていた。光の幕が、風に吹かれるように、ゆっくりとうねっている。
あれが、橋。
ナオは、手の中の割符を見下ろした。
九十九。どこにあるのかも分からない、と思っていた。それは、今も変わらない。
けれど、一つ目は分かった。
北の家の、剣。そして、緑の光の橋。
暗がりの並ぶ空の中に、一本だけ、道が引かれた気がした。
「シルシ」
「はい」
「この船、おれが決めたところへ行くんだよな」
「はい」
ナオは、舳先の、少し左を見た。
「北へ」
口に出すと、帆が、きしりと鳴った。
船が、ゆっくりと向きを変えた。風が、それを追いかけるように回りこみ、帆の後ろから、また吹きはじめた。舳先が、緑に揺れる空のほうを向いた。
ナオは、手のひらを握った。焼け跡が痛んだ。
かまわなかった。
◇
夜明け前、ナオは、烏の声に起こされた。
「還し手殿。後ろを」
振り返った。
船の後ろの、南の水平線。白みはじめた空と、まだ黒い海の境目に、小さな影がいくつも並んでいた。
帆だった。
一つ、二つ、五つ。
帆柱の先で、針の先ほどの光が、まばたきのように明滅していた。




