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【第一部完】カエシヤ 〜神々の預け物〜  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第一部「賢き者の剣」

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第三話 畳み船

 日が落ちきるまで、兵は浜へ降りてこなかった。

 土手の上の稲妻の点は、横に広がっていった。浜の右と左の岩の上にも、一つずつ散っていく。囲みを閉じているのだと、ナオにも分かった。急ぐことはないのだ。前は海で、後ろには土手しかない。


 北の冬の夜は、落ちてくるように来る。

 灰色だった浜が、見ているうちに黒くなった。波打ち際の薄氷だけが、星明かりを拾って白く光っている。

 腕の中で、割符のぬくみが、また片側へ寄った。

 気のせいではなかった。


 ナオは流木の陰にしゃがみ、返し布を少しだけほどいた。

 割符の木肌に、手のひらを当てる。ぬくみは手のひら全体ではなく、小指の付け根のほうへ、じわりと集まっていた。棒の先を、そちらへ向けてみる。ぬくみが、手のひらの真ん中へ戻った。

 右だ。

 波打ち際の、もっと右。浜の端の、黒い岩が海へ突き出しているあたり。

「還し手殿。どちらへ」


 流木の枝の上で、烏が首をかしげた。

「静かにしろ」

「わたくしの声は、さほど遠くへは届きません」

「お前の姿が届くんだよ」

 烏は少し考えるように黙り、それから羽をたたみ直した。どこへも行かないという意味だった。


 ナオは、腹ばいで砂の上を進んだ。

 凍った砂は、鑢(やすり)のように外套の胸を擦った。濡れた靴の中で、足の指はもう自分の物のように感じられない。それでも、手の中のぬくみだけは、はっきり分かった。右へ。もう少し右へ。

 浜の端まで来ると、岩の陰に、砂が深く吹き溜まっていた。

 ナオは、その形を知っていた。

 港の溝でも、水路の曲がり角でも、流れてきた物は、いつも同じところに溜まる。流れがいちばん弱くなるところ。


 岩や杭の陰の、流れが渦を巻いて、そこで力を落とすところ。指輪も鍵も、子どもの片方の靴も、たいていはそういう場所の底に沈んでいた。

 潮も同じだ。

 何十年も、何百年も、潮が運んできた物が、この岩の陰で止まる。

 割符のぬくみが、手のひらの真ん中で、とくん、と打った気がした。

 ――ここだ。


 ナオは、両手で砂を掻いた。

 上の砂は、氷で固まっていた。爪が割れた。かまわず掻いた。指先の感覚がなくなると、手のひらの付け根で叩いて割った。固い層の下から、湿った重い砂が出てきた。潮の匂いがした。

 腕を肘まで差し込んだとき、指先に、砂ではないものが触れた。

 布だった。

 砂の中から引き出したそれは、両腕でやっと抱えられるほどの包みだった。古い帆布が、何重にも、ていねいに畳まれている。

 布の中に、細い骨のようなものが並んでいるのが、手ざわりで分かった。扇の骨を、何百本も重ねたような。

 思っていたよりも、ずっと軽かった。

 割符を近づけると、手の中のぬくみが、ふっと強くなった。暗い木の刻みの中で、白いひとつが、ほんのわずかに明るくなった気がした。


「畳み船(たたみぶね)でございます」

 烏が、いつのまにか、岩のてっぺんに降りていた。

「船?」

「神様の船でございます。帆を上げれば、いつも追い風。畳めば、袋に収まります。百年前、嵐の海で、船団とともに消えました」

 烏は、包みを見下ろした。


「いまは、持ち手がございません。還し手殿が、返すために運ぶなら、開きます」

 ナオは、腕の中の包みを見た。

 これが、船。

 百年、誰にも見つけられずに、砂の下で潮の音を聞いていた船。


「坊主」

 声がした。

 振り向くと、浜の真ん中に、稲妻の点が集まっていた。その光の中に、背の高い男の影が立っている。ガルヴァドだった。浜を歩いてくるのに、急ぐ様子はなかった。

「日が暮れたな。腹も減ったろう」

 平らな声だった。朝と同じ声だった。

「婆さんは、港の砦にいる。炉のそばにな。お前が来れば、二人で温かい飯が食える」


 ナオは答えなかった。

 腹が、鳴った。朝から、水のほかは何も口に入れていない。

 温かい飯。炉のそば。祖母の皺だらけの手が、鍋の蓋を取る。湯気が上がる。

 来い、と言われた。来れば、それで済む。言われたとおりにすれば、いつだって、それで一日が終わった。

 足が、砂の上で半歩、男のほうへ向きかけた。

 ナオはその足を、自分で止めた。

 縄をかけられて、それでも自分の足で歩いていった背中が、浮かんだからだ。一度も水路のほうを見なかった背中。あの人は、ナオがここへ来ることを頼まなかった。

 稲妻の点が、浜の右から、左から、ゆっくりと寄ってくる。


 ナオは包みを抱えて立ち上がり、波打ち際へ走った。

 薄氷が、靴の下で割れた。冷たさが、脛から膝へ、膝から腿(もも)へ、刃物のように上がってくる。息が止まった。それでも進んだ。腰まで水に浸かったところで、包みを波の上に置いた。

「開け」

 包みは、黒い水の上でぷかりと浮いた。

 それだけだった。

 寄せてきた波が、包みを岸のほうへ押し戻そうとする。ナオは慌てて、布の端をつかんだ。


「開いてくれ。頼む。……お願いだから」

 何も起こらなかった。

 後ろで、兵たちの足が、浅瀬の氷を踏み割る音がした。

 振り返ると、兵が二人、膝まで水に入っていた。一人が腕を伸ばした。槍の柄の先が、包みの布をかすめた。ナオは包みを抱き寄せて、さらに沖へ下がった。足もとの砂が、ずるりと崩れた。水が、胸の下まで来た。

「還し手殿」

 岩の上から、烏が言った。

「いま、何のために開けとおっしゃいましたか」

「何のためって」


 逃げるためだ。決まっている。

 烏は、首を一度かしげただけだった。

「わたくしは、嘘をつけませんので申し上げます。逃げるためでは、開きません」


 水が、骨まで冷やしていた。歯の根が合わなかった。

 浜の上では、兵たちが波打ち際に並び、槍を構えていた。穂先の稲妻が、黒い水に映って、ちらちらと揺れている。

「下がれ。撃つな」

 ガルヴァドの声がした。水に入っていた兵が、慌てて浜へ戻った。

「割符ごと沈む。待てば、向こうから上がってくる」


 そのとおりだった。もう少しこうしていれば、足が動かなくなる。手が、包みを放す。

 ナオは、胸に抱えた割符を見下ろした。

 刻みの中の、白いひとつ。残りの九十九は、暗いまま。


 ――あんたの手なら、返せる。

 ――決めな。あんたが。

 ――おれが、返しに行く。

 今朝、自分の口から出た言葉だった。誰にも頼まれずに言った、最初の言葉だった。

 あのとき、どこへ行くのかも、ナオには分かっていなかった。いまも、分かってはいない。

 けれど、何をしに行くのかは、分かっていた。


 ナオは、包みの布に、手のひらを当てた。割符を握ったほうの手だった。

 口が、先に動いた。

「返しに行く」

 声は震えていた。けれど、もう、お願いの形をしてはいなかった。

「お前も、おれが返す。だから、開いてくれ」


 手のひらが、焼けた。

 炉の熾火(おきび)を、素手で握ったような熱さだった。ナオは声をあげた。それでも、手を離さなかった。


 包みが、ほどけた。

 帆布が、ひとりでに一枚ずつ開いていく。中から、細い骨が、扇を広げるように次々と起き上がった。

 骨と骨のあいだに板が張られ、板と板が、かちり、かちりと噛み合っていく。黒い水の上に、見る見るうちに、舟の腹が伸びていった。

 舳先が立った。帆柱が、夜空へ向かって伸びた。

 最後に、帆が上がった。

 帆は、光っていた。

 夜明けの空の、いちばん東の端の色だった。夜の浜に、その色の光が、ぽっと灯った。

 漁舟を三つ並べたほどの、小さな船だった。けれどナオには、どんな大きな船よりも高く見えた。


 風が変わった。

 さっきまで、風は海から浜へ吹きつけていた。それが、ぴたりと止んだ。かと思うと、後ろから、浜のほうから、強い風が吹いてきた。

 兵たちの外套が、いっせいに海のほうへはためいた。槍の穂先の稲妻が、風に煽(あお)られて、ちぎれるように揺れた。

 帆が、ふくらんだ。

 ナオは、船べりにしがみついた。凍えた腕に、力が入らない。体が半分、水の中に残っている。

 船が、動きはじめた。

 ナオを引きずったまま、沖へ。


「還し手殿、足を」

 烏が帆柱のてっぺんから叫んだ。

 ナオは、最後の力で、片足を船べりに掛けた。濡れた外套が、鉛のように重かった。転がるように、船の底へ落ちた。

 板は、乾いていた。百年、砂の下にいたとは思えないほど、乾いて、温かかった。


 浜が、遠ざかっていく。

 波打ち際に並んだ稲妻の点が、ひとつ、またひとつと小さくなっていく。

 その中に、背の高い影が一つだけ、波の中へ踏み込んでいた。ほかの兵が退いても、その影だけは、膝まで水に入って、こちらを見ていた。

 追い風が、男の声を、船まで運んできた。

「……還し手だ」


 低い声だった。怒っても、慌ててもいなかった。ただ、確かめたことを、自分に言い聞かせるような声だった。

 ナオは、自分の右の手のひらを見た。

 割符を握っていた手のひらの、真ん中。

 そこに、小さな星の形の焼け跡が、ひとつ、白く光っていた。


    ◇


 浜の灯が、見えなくなった。

 船は、暗い海の上を、ひとりでに進んでいた。舵を取る者はいない。帆は、夜明けの色のまま、ふくらみつづけている。

 ナオは、船の底に座りこんで、震えていた。

 濡れた靴を脱いだ。水が、どっとこぼれた。足の指は白く、自分の指ではないように動かなかった。手で握って、こすった。

 しばらくすると、針で刺すような痛みが戻ってきた。痛いのは、生きているからだと、祖母に教わった。


 船の底の板は、ほんのりと温かかった。そこに足の裏を当てていると、震えが少しずつ収まってきた。

 烏が、帆柱から、すうっと降りてきた。ナオの膝の前の、船べりにとまった。

「本来の姿でございます」

 烏は、帆を見上げた。

「掌のそれは、星焼け(ほしやけ)。還し手殿が、ご自分の手で抜かれるたびに、ひとつ付きます」


 ナオは、手のひらを握った。焼けたところが、ずきりと痛んだ。それでいい、と思った。痛いほうが、夢でないと分かる。

「……開いた」

「はい。開きました」

 ナオは、帆を見上げた。

 お願いだから、と言ったときには、開かなかった。返しに行く、と言ったら、開いた。

 誰かに頼まれたのではなかった。誰かに頼んだのでもなかった。自分で決めて、自分の口で言った言葉に、何かが応えた。

 そんなことは、初めてだった。

 ナオは船べりを、そっと撫でた。板は、まだ温かかった。


「おれのじゃないけどな」

「はい。豊穣の神様の船でございます。いまは、お休みになっております」

 ナオは、少しだけ笑った。今度は、ちゃんと笑えた気がした。

 借り物の船だ。返しに行く船だ。だから開いた。

 手の中の割符が、ぬくかった。


 ばあちゃん、と、ナオは口の中で言った。

 開いたよ。

 答える者はいなかった。チヨはいま、港の砦の、どこかの部屋にいる。炉のそばだと、あの男は言った。本当かどうかは分からない。

 置いてきた。それは変わらない。

 変わらないまま、船は、港から遠ざかっていく。


「シルシ」

 名を呼んだのは、初めてだった。烏が、首をこちらへ向けた。

「この船、どこへ行くんだ」

「還し手殿が、行こうと決めたところへ」

「……決めてない」

「では、いまは、ただ沖へ」

 烏は、それきり黙った。嘘をつけない者の、正直な沈黙だった。


 北の空には、星が満ちていた。

 その星のあいだに、暗い穴が、黙って並んでいた。

 ナオは、振り返った。

 はるか後ろ、暗い海の向こうに、港の灯が小さく固まっている。その灯の中で、何かが動いていた。

 帆だった。

 一枚、また一枚と、大きな帆が上がっていく。帆柱の先で、小さな稲妻が、まばたきのように明滅していた。

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