第三話 畳み船
日が落ちきるまで、兵は浜へ降りてこなかった。
土手の上の稲妻の点は、横に広がっていった。浜の右と左の岩の上にも、一つずつ散っていく。囲みを閉じているのだと、ナオにも分かった。急ぐことはないのだ。前は海で、後ろには土手しかない。
北の冬の夜は、落ちてくるように来る。
灰色だった浜が、見ているうちに黒くなった。波打ち際の薄氷だけが、星明かりを拾って白く光っている。
腕の中で、割符のぬくみが、また片側へ寄った。
気のせいではなかった。
ナオは流木の陰にしゃがみ、返し布を少しだけほどいた。
割符の木肌に、手のひらを当てる。ぬくみは手のひら全体ではなく、小指の付け根のほうへ、じわりと集まっていた。棒の先を、そちらへ向けてみる。ぬくみが、手のひらの真ん中へ戻った。
右だ。
波打ち際の、もっと右。浜の端の、黒い岩が海へ突き出しているあたり。
「還し手殿。どちらへ」
流木の枝の上で、烏が首をかしげた。
「静かにしろ」
「わたくしの声は、さほど遠くへは届きません」
「お前の姿が届くんだよ」
烏は少し考えるように黙り、それから羽をたたみ直した。どこへも行かないという意味だった。
ナオは、腹ばいで砂の上を進んだ。
凍った砂は、鑢のように外套の胸を擦った。濡れた靴の中で、足の指はもう自分の物のように感じられない。それでも、手の中のぬくみだけは、はっきり分かった。右へ。もう少し右へ。
浜の端まで来ると、岩の陰に、砂が深く吹き溜まっていた。
ナオは、その形を知っていた。
港の溝でも、水路の曲がり角でも、流れてきた物は、いつも同じところに溜まる。流れがいちばん弱くなるところ。
岩や杭の陰の、流れが渦を巻いて、そこで力を落とすところ。指輪も鍵も、子どもの片方の靴も、たいていはそういう場所の底に沈んでいた。
潮も同じだ。
何十年も、何百年も、潮が運んできた物が、この岩の陰で止まる。
割符のぬくみが、手のひらの真ん中で、とくん、と打った気がした。
――ここだ。
ナオは、両手で砂を掻いた。
上の砂は、氷で固まっていた。爪が割れた。かまわず掻いた。指先の感覚がなくなると、手のひらの付け根で叩いて割った。固い層の下から、湿った重い砂が出てきた。潮の匂いがした。
腕を肘まで差し込んだとき、指先に、砂ではないものが触れた。
布だった。
砂の中から引き出したそれは、両腕でやっと抱えられるほどの包みだった。古い帆布が、何重にも、ていねいに畳まれている。
布の中に、細い骨のようなものが並んでいるのが、手ざわりで分かった。扇の骨を、何百本も重ねたような。
思っていたよりも、ずっと軽かった。
割符を近づけると、手の中のぬくみが、ふっと強くなった。暗い木の刻みの中で、白いひとつが、ほんのわずかに明るくなった気がした。
「畳み船でございます」
烏が、いつのまにか、岩のてっぺんに降りていた。
「船?」
「神様の船でございます。帆を上げれば、いつも追い風。畳めば、袋に収まります。百年前、嵐の海で、船団とともに消えました」
烏は、包みを見下ろした。
「いまは、持ち手がございません。還し手殿が、返すために運ぶなら、開きます」
ナオは、腕の中の包みを見た。
これが、船。
百年、誰にも見つけられずに、砂の下で潮の音を聞いていた船。
「坊主」
声がした。
振り向くと、浜の真ん中に、稲妻の点が集まっていた。その光の中に、背の高い男の影が立っている。ガルヴァドだった。浜を歩いてくるのに、急ぐ様子はなかった。
「日が暮れたな。腹も減ったろう」
平らな声だった。朝と同じ声だった。
「婆さんは、港の砦にいる。炉のそばにな。お前が来れば、二人で温かい飯が食える」
ナオは答えなかった。
腹が、鳴った。朝から、水のほかは何も口に入れていない。
温かい飯。炉のそば。祖母の皺だらけの手が、鍋の蓋を取る。湯気が上がる。
来い、と言われた。来れば、それで済む。言われたとおりにすれば、いつだって、それで一日が終わった。
足が、砂の上で半歩、男のほうへ向きかけた。
ナオはその足を、自分で止めた。
縄をかけられて、それでも自分の足で歩いていった背中が、浮かんだからだ。一度も水路のほうを見なかった背中。あの人は、ナオがここへ来ることを頼まなかった。
稲妻の点が、浜の右から、左から、ゆっくりと寄ってくる。
ナオは包みを抱えて立ち上がり、波打ち際へ走った。
薄氷が、靴の下で割れた。冷たさが、脛から膝へ、膝から腿へ、刃物のように上がってくる。息が止まった。それでも進んだ。腰まで水に浸かったところで、包みを波の上に置いた。
「開け」
包みは、黒い水の上でぷかりと浮いた。
それだけだった。
寄せてきた波が、包みを岸のほうへ押し戻そうとする。ナオは慌てて、布の端をつかんだ。
「開いてくれ。頼む。……お願いだから」
何も起こらなかった。
後ろで、兵たちの足が、浅瀬の氷を踏み割る音がした。
振り返ると、兵が二人、膝まで水に入っていた。一人が腕を伸ばした。槍の柄の先が、包みの布をかすめた。ナオは包みを抱き寄せて、さらに沖へ下がった。足もとの砂が、ずるりと崩れた。水が、胸の下まで来た。
「還し手殿」
岩の上から、烏が言った。
「いま、何のために開けとおっしゃいましたか」
「何のためって」
逃げるためだ。決まっている。
烏は、首を一度かしげただけだった。
「わたくしは、嘘をつけませんので申し上げます。逃げるためでは、開きません」
水が、骨まで冷やしていた。歯の根が合わなかった。
浜の上では、兵たちが波打ち際に並び、槍を構えていた。穂先の稲妻が、黒い水に映って、ちらちらと揺れている。
「下がれ。撃つな」
ガルヴァドの声がした。水に入っていた兵が、慌てて浜へ戻った。
「割符ごと沈む。待てば、向こうから上がってくる」
そのとおりだった。もう少しこうしていれば、足が動かなくなる。手が、包みを放す。
ナオは、胸に抱えた割符を見下ろした。
刻みの中の、白いひとつ。残りの九十九は、暗いまま。
――あんたの手なら、返せる。
――決めな。あんたが。
――おれが、返しに行く。
今朝、自分の口から出た言葉だった。誰にも頼まれずに言った、最初の言葉だった。
あのとき、どこへ行くのかも、ナオには分かっていなかった。いまも、分かってはいない。
けれど、何をしに行くのかは、分かっていた。
ナオは、包みの布に、手のひらを当てた。割符を握ったほうの手だった。
口が、先に動いた。
「返しに行く」
声は震えていた。けれど、もう、お願いの形をしてはいなかった。
「お前も、おれが返す。だから、開いてくれ」
手のひらが、焼けた。
炉の熾火を、素手で握ったような熱さだった。ナオは声をあげた。それでも、手を離さなかった。
包みが、ほどけた。
帆布が、ひとりでに一枚ずつ開いていく。中から、細い骨が、扇を広げるように次々と起き上がった。
骨と骨のあいだに板が張られ、板と板が、かちり、かちりと噛み合っていく。黒い水の上に、見る見るうちに、舟の腹が伸びていった。
舳先が立った。帆柱が、夜空へ向かって伸びた。
最後に、帆が上がった。
帆は、光っていた。
夜明けの空の、いちばん東の端の色だった。夜の浜に、その色の光が、ぽっと灯った。
漁舟を三つ並べたほどの、小さな船だった。けれどナオには、どんな大きな船よりも高く見えた。
風が変わった。
さっきまで、風は海から浜へ吹きつけていた。それが、ぴたりと止んだ。かと思うと、後ろから、浜のほうから、強い風が吹いてきた。
兵たちの外套が、いっせいに海のほうへはためいた。槍の穂先の稲妻が、風に煽られて、ちぎれるように揺れた。
帆が、ふくらんだ。
ナオは、船べりにしがみついた。凍えた腕に、力が入らない。体が半分、水の中に残っている。
船が、動きはじめた。
ナオを引きずったまま、沖へ。
「還し手殿、足を」
烏が帆柱のてっぺんから叫んだ。
ナオは、最後の力で、片足を船べりに掛けた。濡れた外套が、鉛のように重かった。転がるように、船の底へ落ちた。
板は、乾いていた。百年、砂の下にいたとは思えないほど、乾いて、温かかった。
浜が、遠ざかっていく。
波打ち際に並んだ稲妻の点が、ひとつ、またひとつと小さくなっていく。
その中に、背の高い影が一つだけ、波の中へ踏み込んでいた。ほかの兵が退いても、その影だけは、膝まで水に入って、こちらを見ていた。
追い風が、男の声を、船まで運んできた。
「……還し手だ」
低い声だった。怒っても、慌ててもいなかった。ただ、確かめたことを、自分に言い聞かせるような声だった。
ナオは、自分の右の手のひらを見た。
割符を握っていた手のひらの、真ん中。
そこに、小さな星の形の焼け跡が、ひとつ、白く光っていた。
◇
浜の灯が、見えなくなった。
船は、暗い海の上を、ひとりでに進んでいた。舵を取る者はいない。帆は、夜明けの色のまま、ふくらみつづけている。
ナオは、船の底に座りこんで、震えていた。
濡れた靴を脱いだ。水が、どっとこぼれた。足の指は白く、自分の指ではないように動かなかった。手で握って、こすった。
しばらくすると、針で刺すような痛みが戻ってきた。痛いのは、生きているからだと、祖母に教わった。
船の底の板は、ほんのりと温かかった。そこに足の裏を当てていると、震えが少しずつ収まってきた。
烏が、帆柱から、すうっと降りてきた。ナオの膝の前の、船べりにとまった。
「本来の姿でございます」
烏は、帆を見上げた。
「掌のそれは、星焼け。還し手殿が、ご自分の手で抜かれるたびに、ひとつ付きます」
ナオは、手のひらを握った。焼けたところが、ずきりと痛んだ。それでいい、と思った。痛いほうが、夢でないと分かる。
「……開いた」
「はい。開きました」
ナオは、帆を見上げた。
お願いだから、と言ったときには、開かなかった。返しに行く、と言ったら、開いた。
誰かに頼まれたのではなかった。誰かに頼んだのでもなかった。自分で決めて、自分の口で言った言葉に、何かが応えた。
そんなことは、初めてだった。
ナオは船べりを、そっと撫でた。板は、まだ温かかった。
「おれのじゃないけどな」
「はい。豊穣の神様の船でございます。いまは、お休みになっております」
ナオは、少しだけ笑った。今度は、ちゃんと笑えた気がした。
借り物の船だ。返しに行く船だ。だから開いた。
手の中の割符が、ぬくかった。
ばあちゃん、と、ナオは口の中で言った。
開いたよ。
答える者はいなかった。チヨはいま、港の砦の、どこかの部屋にいる。炉のそばだと、あの男は言った。本当かどうかは分からない。
置いてきた。それは変わらない。
変わらないまま、船は、港から遠ざかっていく。
「シルシ」
名を呼んだのは、初めてだった。烏が、首をこちらへ向けた。
「この船、どこへ行くんだ」
「還し手殿が、行こうと決めたところへ」
「……決めてない」
「では、いまは、ただ沖へ」
烏は、それきり黙った。嘘をつけない者の、正直な沈黙だった。
北の空には、星が満ちていた。
その星のあいだに、暗い穴が、黙って並んでいた。
ナオは、振り返った。
はるか後ろ、暗い海の向こうに、港の灯が小さく固まっている。その灯の中で、何かが動いていた。
帆だった。
一枚、また一枚と、大きな帆が上がっていく。帆柱の先で、小さな稲妻が、まばたきのように明滅していた。




