第二話 落とし打ち
チヨは、自分で戸を開けた。
夜明けの光が、凍った通りに斜めに差していた。その光の中に、兵が並んでいた。槍の穂先で、小さな稲妻がぱちぱちと鳴っている。
ナオは割符を返し布でくるみ直し、胸に抱えて、戸口に立った。
兵の列の真ん中に、男が一人いた。
四十を少し過ぎたくらいだろうか。背が高く、肩が広い。外套の下の鎧には、帝国の雷の紋が打ってある。けれど腰に下げているのは、稲妻をまとった槍ではなく、ありふれた鉄の剣だった。
「朝早くにすまん。雷の軍団を預かる、ガルヴァドだ」
帝国の言葉だった。ただ、ところどころに、北でも南でもない訛りが混じっていた。
「今朝、この港で烏が降りたのは、ここ一軒だ。それも、返し屋の屋根ときた」
ガルヴァドは、屋根の上の烏を見上げ、それから、ナオの胸の包みを見た。
「探していた物は、それだな」
それから男の目は、軒下に落ちた。坂の途中で頼まれた荷が、三つ、積んだままになっていた。
「あれは、坊主が運んできたのか」
「……頼まれた物です」
訊かれたので、ナオは答えた。
「三つもか」
ガルヴァドは、それきり荷のことは言わなかった。
チヨが杖をついたまま、一歩前に出た。ナオと男のあいだに立つ形だった。
「返し屋に、何のご用です」
「その包みを、渡してもらおう」
ガルヴァドの声は穏やかだった。
「渡せば、婆さんには何もしない。孫にもだ。約束しよう」
「返し屋はね、預かった物を、預けた者にしか渡さないんですよ」
「神にか」
ガルヴァドは、少しだけ笑った。
「千年眠りこけている連中に、律儀に返して、それでまた千年、膝をついて暮らすのか。陛下は、そうはなさらんと仰せだ。俺もそう思う」
チヨは答えなかった。
ガルヴァドは小さく息をつき、両手を背で組んだまま、顎で兵に示した。
「取れ。年寄りだ。手荒にするな」
◇
兵が二人、前に出た。
一人目が、槍の柄でチヨを押しのけようとした。
チヨの杖が動いた。
こつん、と、乾いた音がした。
兵の手首の、親指の側の骨のくぼみ。そこを、杖の先が打っていた。兵の指がひとりでに開き、槍が石畳に落ちた。穂先の稲妻が雪に触れて、じゅっと鳴って消えた。
二人目が、驚いて槍を突き出した。チヨは半歩だけ横へずれた。杖が下から跳ね上がる。こつん。二本目の槍が、一本目の上に重なった。
ナオは、戸口で息をのんだ。
落とし打ちだ。
返し屋の護身術。相手を倒さない。傷つけもしない。ただ、手に持っている物を落とさせる。返し屋の荷を奪おうとする者から、荷を守るための技だった。
ナオも七つのときから、宿の裏庭で、型だけは何百回も習った。手首の骨の、親指の側のくぼみ。そこを、上からではなく、下から打つ。
けれど、本当に人の手を打ったことは、一度もない。
チヨの杖は、宿の裏の樫の枝から削った、ただの杖だった。そのただの杖で、チヨは、三本目、四本目の槍を落とした。
手首を押さえてうずくまる兵たちを、ガルヴァドは一度も見なかった。
「……噂より速いな」
ガルヴァドが、感心したように言った。両手は背で組んだまま、自分は一歩も動かなかった。
「囲め。前からかかるな」
兵たちが広がった。チヨの杖は一本で、手は二つしかない。右の兵の手首を打ったとき、左から槍の柄が振られた。
柄が、チヨの背を打った。
チヨの膝が、石畳についた。
「ばあちゃん!」
ナオは一歩、踏み出しかけた。
チヨが、片手を上げて止めた。膝をついたまま、杖を握り直して、振り返った。息が白く乱れていた。
「決めな。あんたが」
ナオは動けなかった。
「坊主」
ガルヴァドが、ナオを見ていた。
「頼む。それを、こっちへ。婆さんのためだ」
頼む、と言われた。
ナオの口が、はい、の形になりかけた。手が、勝手に動いた。包みを抱えた腕が、胸から離れ、前へ出ようとした。
男の目が、その腕の動きだけを、じっと見ていた。頼まれれば、ナオは渡せる。いつだって、そうしてきた。頼まれたことをして、礼を言われて、それで一日が終わる。それがナオの暮らしの全部だった。
腕の中の包みが、ぬくかった。
ネリカさんの手が浮かんだ。二度、前掛けで手を拭ってから、包丁を受け取った手。祖母の皺だらけの手。数えきれない物を、数えきれない人に手渡してきた手。
――あんたの手なら、返せる。
これを渡せと、ガルヴァドは頼んだ。
これを渡せとも、渡すなとも、祖母は頼まなかった。
ナオは、前へ出かけた腕を、胸に引き戻した。
「……行く」
声は、かすれていた。
生まれて初めて、誰にも頼まれずに口にした言葉だった。
「おれが、返しに行く」
ガルヴァドの眉が、わずかに上がった。
チヨが、笑ったように見えた。
◇
ナオは身を翻した。
帳場を抜けた。炉の火が、まだ赤く残っていた。壁には、届け先を待つ荷の札が何十枚も掛かっている。棚には、預かった手紙の束。土間には、昨日誰かが置いていった古い長靴。
持って出る物は、何もなかった。
この宿にある物は、どれもナオの物ではない。着ている外套でさえ、セイタという知らない男の物だった。腕の中の包みだけが、ナオの手に渡された物だった。
軒下の三つの荷は、置いていく。頼まれたことを途中で放り出すのは、生まれて初めてだった。
台所を抜け、裏口の戸を肩で押し開ける。裏は、すぐに水路だった。冬のあいだは半ば凍っていて、岸の石の縁だけが、人ひとりぶん、細く残っている。
ナオは、その縁を走った。
凍った石が、靴の下で滑る。片足が氷を踏み抜き、脛まで水に落ちた。息が止まりそうな冷たさだった。それでも割符の包みだけは、胸の上に抱えたまま離さなかった。
背中で、ガルヴァドの声がした。
「追え。……婆さんは丁寧に扱え。陛下が、お会いになりたがるかもしれん」
ナオは、この町の水路を知っていた。
どこが魚市場の下の暗渠につながっていて、どこで網小屋の裏に出るか。失くし物を探して、何年も、この町じゅうの溝と排水の口をのぞいてきたからだ。
指輪も、鍵も、子どもの片方の靴も、たいていは水の流れる先に落ちている。
二つ目の曲がり角で、ナオは一度だけ振り返った。
家と家の隙間から、宿の前の通りが、細く見えた。
チヨが、縄をかけられていた。杖は兵が持っていた。それでもチヨは、背を伸ばして、自分の足で歩いていた。
チヨは、一度も水路のほうを見なかった。
見れば、ナオの逃げた方角を、兵に教えることになる。
ナオは歯を食いしばった。置いてきた。ばあちゃんを、置いてきた。自分で決めて、置いてきた。
羽音がした。
水路の杭の上に、烏が降りていた。
「還し手ナオ殿」
「……え」
「帳に記しました。預かり暦千年、冬至明け。割符、チヨ殿の手より、ナオ殿の手へ。還し手、ナオ殿」
烏は、羽を一度ふくらませた。
「片割れは、人が持つ。そう定められております」
ナオは聞いていなかった。チヨの背中が、家の陰に消えていくのを見ていた。
「行け」
喉の奥から、声が出た。
「頼むから、どこかへ行ってくれ。お前がいると、見つかる」
「離れられません」
烏は、首をかしげた。
「還し手のおそばを離れぬのが、わたくしの務めです。それに、わたくしは隠れられません。先ほども申し上げました」
その言葉のとおりだった。
魚市場の下の暗渠は、暗くて、魚の臓物の匂いがした。膝まで冷たい水に浸かって、ナオは石の壁に背をつけた。頭の上を、市場の人の足音が行き来している。
ナオは、返し布を少しだけほどいた。
暗がりの中で、割符の刻みが、ひとつだけほのかに白い。残りの九十九は、闇と見分けがつかなかった。
九十九。どこにあるのかも分からない。誰が持っているのかも分からない。
「……どこへ、返せばいいんだ」
答えは、暗渠の出口のほうから返ってきた。
「わたくしは存じません。割符が、ご存じです」
烏の声だった。
白い光の中に、黒い影がひとつ、屋根の縁にとまっていた。その影を見上げて、通りの誰かが叫んだ。
ナオは水を蹴って、反対の出口へ走った。
どこへ逃げても、同じだった。
網小屋の裏に身を伏せれば、網の干し竿の先に、烏がとまった。古い舟の腹の下にもぐれば、舳先に、烏がとまった。そして烏のとまった場所へ、必ず、稲妻の槍の兵が駆けてきた。
「烏だ! 烏の下だ!」
北の冬の日は短い。昼を過ぎると、もう空が暮れはじめた。
ナオは逃げた。町の外れへ、外れへと追われた。家が途切れ、凍った草の土手になり、やがて足もとが、砂に変わった。
浜だった。
夕暮れの浜は、灰色に凍っていた。波打ち際には薄い氷が張り、その先で、黒い海がうねっている。浜の右も左も、切り立った岩だった。
振り返ると、土手の上に、稲妻の点が並んでいた。一つ、二つ、十。ゆっくりと、浜へ降りてくる。
前は海。後ろは兵。
ナオは、返し布の包みを抱きしめた。
朝から何も食べていなかった。濡れた靴の中で、足の指はとうに感覚がない。行く、と言った。おれが返しに行く、と。
けれど、どこへ行けばいいのかも分からないまま、ナオは一日じゅう、町の端へ端へと押し出されてきただけだった。
自分で決めたのに、決めた先が、どこにもなかった。
烏が、ナオの頭の上の、流木の枝にとまった。
「還し手殿。あちらの兵の数は、二十三でございます」
「数えなくていい」
「嘘はつけませんので」
ナオは笑いそうになった。笑えなかった。
腕の中で、割符が、ぬくかった。
そして、そのぬくみが、ほんのわずかに、片側へ寄った気がした。




