第一話 烏の知らせ
伝説の剣も、槍も、盾も、ぜんぶ神様からの借り物だった。
返す期限は、一年後の明け。
ナオがそれを知ったのは、預かり暦千年の冬至の朝、死んだ漁師の包丁を返しに行った帰りのことだ。
◇
包丁は布にくるんで、胸に抱いていた。
北の港町の冬は、夜明けまでが長い。坂の石段は凍りつき、踏むたびに靴の底が鳴る。海から吹き上げる風が、外套の裾をめくった。
外套の襟の裏には、ナオの知らない男の名が縫い取ってある。セイタ。首巻きにはトワ。手袋は左右で別の名だ。
着ている物はどれも、誰かが着古して返し屋の宿に置いていった物だった。
坂のいちばん上の家に、灯りがひとつ点いていた。
戸を叩くと、すぐに開いた。起きて待っていたのだと分かった。
「返し屋です。ネリカさんに、お届け物を」
出てきたのは四十くらいの女の人だった。目のふちが赤い。ナオの顔を見て、それから胸の包みを見た。
「……あの人のかい」
「はい」
ナオは布をほどいた。
柄の黒ずんだ、刃の細い包丁が出てきた。魚をさばくための物だ。
ひと月前の嵐で、ガデルという漁師の舟が沖で返った。
板切れは三つ先の入り江に流れ着き、網や樽や、ほかの漁師たちの道具といっしょに、浜の番小屋に積まれた。
誰の物とも分からない物の山だ。「せめて包丁だけでも」と返し屋の宿に頼みが来たのは、十日前のことだった。
祖母は帳場でその頼みを聞き終えると、ナオを呼んで言った。
「ナオ、頼むよ」
ナオの仕事は、いつもその一言で始まる。
番小屋の山には、包丁が七本あった。ナオはそれを一本ずつ握った。
そのうち一本だけ、指が勝手に収まる場所があった。親指の当たるところが浅く窪んでいる。人差し指の腹が触れるところだけ、木が飴色に光っている。毎晩、同じ手が同じように握ったところだけが、こうなる。
――これだ。
ナオには、ときどきこういうことが分かる。失くし物のほうから、手に寄ってくるような気がするのだ。
ナオは包丁を両手で持ち、柄を相手に向けて差し出した。
「ガデルさんの包丁です。お返しします」
返し屋は、手渡しで返す。どれほど小さな物でも、届け先の手のひらに自分の手で置く。戸口に掛けて帰ったりはしない。ナオが七つで仕事を手伝いはじめたとき、祖母がいちばん先に教えた掟だった。
ネリカさんは、すぐには受け取らなかった。
両手を前掛けで拭い、もう一度拭って、それからそっと柄に手を伸ばした。指が窪みに収まりかけて、止まった。窪みは、その手には大きすぎた。
「研いでたんだよ。毎晩」
ナオは黙って聞いた。
「漁から帰って、飯を食って、それから土間に座ってさ。しゃっ、しゃっ、って。うるさいって言ったら、刃物は寝る前に機嫌を取っとくもんだって。あたし、あの音が嫌いでね。ほんとに嫌いで……」
声がそこで切れた。
ナオは待った。
届けた物について持ち主が話しはじめたら、最後まで聞く。それも祖母の教えだったが、ナオは教わる前からそうしていた気がする。
人が何かを手放したり受け取ったりするときの話は、たいてい、いちばん最後のところに、いちばん大事なことがある。
「……ゆうべ、眠れなかった。音がしないと眠れないなんてね」
ネリカさんは包丁を胸に抱いた。さっきまでナオがしていたのと、同じ抱き方だった。
「ありがとう。あんた、名前は」
「ナオです」
ネリカさんの目が、ナオの襟もとに落ちた。縫い取りの糸が、灯りに光っていた。
「セイタ、って書いてあるけど」
「前に着てた人の名前です」
「あんたのは、ないのかい」
ナオは少し考えた。
「おれの物は、ないので」
変な顔をされた。返し屋の子は、たいていそういう顔をされる。自分の物を持たないように育てられるからだ。持てば、いつか返す物と自分の物の区別がつかなくなる。
人の話なら、最後まで聞ける。けれど、自分の話を最後まで誰かに聞いてもらったことは、なかった。話すほどのことが、ナオにはなかった。
代金を受け取って家を出ると、隣の家の戸が開いた。
「返し屋の子だろ。ついでにこれ、下の網元んとこへ」
油紙の包みを押しつけられた。はい、と言った。中身は訊かなかった。頼まれた荷の中身を訊いたことは、一度もない。
断る、という言葉がナオの口から出たことは、たぶん一度もない。
坂を下りきるころには、腕の中の荷が三つに増えていた。
◇
返し屋の宿は、港のはずれにある。
二階建ての古い木の家で、軒先に、葉を一枚彫った板が下がっている。譲葉の葉だ。
ユズリハの木は、新しい葉が育ってから古い葉を落とす。だから代を譲る木なのだと、ナオは小さいころに聞いた。ナオたち一族の印だった。
宿の前に、祖母が立っていた。
チヨは今年で七十八になる。腰は曲がっていないが、いつも杖をついている。
去年の秋、酔って暴れた水夫の手から、その杖で短刀を落とさせたのを、ナオは見たことがある。手首をこつんと打っただけで、短刀は石畳に転がった。
宿の仕事は、みんな祖母が割り振る。ナオの一日も、祖母の言いつけでできていた。起きな。食べな。これを届けておくれ。――頼むよ、ナオ。
その祖母が、空を見ていた。
「ばあちゃん。外は寒いよ」
「ナオ。荷を置きな」
声が、いつもと違った。
ナオは軒下に荷を下ろし、祖母と同じほうを見上げた。
夜明け前の空は、まだ星だらけだった。北の冬の星は大きい。
その星のあいだに、ところどころ、穴があいている。
欠け星だ。
星座の中に、星があるはずなのに、ない場所がある。昔の星図には描かれているのに、空には暗がりしかない。
数えると九十九あるのだと、帳場の古い暦に書いてあった。子どものころ、ナオは指で一つずつ数えようとして、いつも途中で分からなくなった。
「今日は、何の日だい」
「冬至の明け。年が替わる」
「何年に替わる」
「預かり暦の……千年」
チヨは、ゆっくりとうなずいた。
「千年目だ」
そのとき、空の穴が、いっせいに瞬いた。
ないはずの星が光ったのではない。穴のほうが、まばたきをしたように見えた。空の暗がりが一度だけ深くなり、また、もとに戻った。
港のどこかで犬が吠えた。どこかの家で赤ん坊が泣き出した。足もとの石畳が、ごく小さく揺れた。
ナオは息を止めていた。
羽音がした。
宿の屋根の、雪の積もった棟木に、一羽の烏が降りていた。若い烏なのか、羽の黒が濡れたように艶めいている。烏は首をかしげ、まっすぐにナオたちを見下ろした。
それから、口をきいた。
「千年の預け、明けにより、お知らせいたします」
人の言葉だった。少し甲高い、少年のような声だった。
「預け物の返し期限、千年目の明け。残り、一年でございます」
チヨは驚かなかった。
驚かないことに、ナオは驚いた。
「お前……誰だ」
「証し烏、シルシと申します。帳を付けにまいりました」
烏は答えると、屋根の上で羽をたたみ直した。そこを動くつもりはないらしかった。
「ナオ。入りな」
◇
帳場の炉には、まだ火が残っていた。
チヨは炉端の、自分がいつも座る場所の床板に杖の先を差し込み、こじ開けた。板の下から、細長い包みが出てきた。
包んでいるのは返し布だった。返し屋が荷をくるむ布だ。
この布は、ナオが宿で見たどの布よりも古かった。藍がすっかり褪せ、指で撫でられたところだけ、布目が柔らかく毛羽立っている。
チヨが布をほどいた。
木の棒が一本、出てきた。
長さは、ナオの腕ほど。一本の木を縦に割った片方らしく、片面は平らで、もう片面は丸い。平らな面は、磨いたようにつるりとしている。丸い面の縁に沿って、小さな刻みが、端から端までびっしりと並んでいた。
「刻みは百ある」
チヨが言った。
百のうち、ひとつだけが、ほのかに白かった。残りは暗い。欠け星の穴と同じ暗さだと、ナオは思った。
「持ってごらん」
ナオは、棒を両手で受け取った。
ぬくかった。
炉のそばに置いてあったからではない。誰かがたった今まで握っていたような、人の手の温みだった。それが、手のひらから腕を伝って、胸の奥まで上がってくる。
「割符だよ」
チヨは炉端に腰を下ろした。
「お伽話は覚えてるね。千年前、神様たちは悪いものと戦って傷ついて、眠りについた。眠るあいだ人が困らないように、自分たちの武具を九十九、人に預けた」
「星降りの夜の話だろ。子どもでも知ってる」
「お伽話じゃないんだよ」
チヨは、ナオの手の中の棒を見た。
「あんたが聞いてきた伝説の剣も、槍も、盾も、王様の冠も、みんな神様からの借り物さ。それを千年目の明けまでに、一つ残らず、人の手で返す。そういう約束だった。この割符を合わせてね。片割れは神様が持ってる」
ナオは笑おうとした。笑えなかった。
手の中の木が、ぬくかったからだ。
窓の外から、烏の声がした。
「申し添えます。一つでも返らなければ、神々はみずから取り立てに降りられます」
炉の火が、ぱちりとはぜた。
「……取り立てって」
「借りた物を返さない家に、貸した者が来る。それだけのことさ。ただ、来るのが神様だってだけで」
チヨの声は静かだった。
ナオは、坂の上のネリカさんを思い出した。包丁一本を受け取るのに、二度も手を拭った人を。
「……王様たちは、返すかな」
「返したがる者は、少ないだろうね」
チヨは炉の火に目を落とした。
「千年も手もとに置いてりゃ、誰だって自分の物だと思うようになる。家宝だ、国の守りだって、祀ってるところもある。借り物だなんて、もう誰も覚えちゃいない」
「ばあちゃんが、ずっとこれを持ってたの」
「あたしの母も、その母も、黙って持ってた。返し屋の中でも、知ってるのは持ってる者だけだ」
ナオは割符を見下ろした。
九十九。どこにあるのかも分からない。一年で。
「返しに行きな」
チヨが言った。
「あんたの手なら、返せる」
「ばあちゃんが行けば」
「あたしの手じゃ、だめなんだよ」
チヨは、膝の上の自分の手を見た。皺だらけの、節の太い手だった。数えきれない物を、数えきれない人に手渡してきた手だった。
なぜだめなのかを、チヨは言わなかった。
ナオは待った。
炉の火がはぜる音のほかは、何も聞こえなかった。
次に来る言葉を待った。頼むよ、ナオ。行っておくれ。十日前に包丁の頼みを渡されたときのように、そう言ってくれれば、ナオは、はいと答えられる。
どこへでも行ける。頼まれたことなら、ナオはこれまで一度も、やり遂げなかったことがない。
チヨは顔を上げて、ナオの目を見た。
「これだけは、頼まない」
ナオの口が、はい、の形のまま止まった。
「あんたが決めな」
答えは、出てこなかった。
頼まれれば、どこへでも行ける。けれど、頼まれなければ、ナオはどこへ行けばいいのか分からなかった。生まれてから十七年、自分で決めたことが、ひとつも思い出せなかった。
手の中の割符だけが、ずっと、ぬくかった。
◇
チヨが、ふいに窓のほうへ顔を向けた。
ナオも耳を澄ませた。
足音だった。凍った石畳を踏む、重い靴の音。一人ではない。十や二十ではきかない。宿の前の通りの右からも、左からも、裏の水路のほうからも聞こえる。
鎧戸の隙間が、青白く光った。
ぱちっ、ぱちっ、と、乾いた音がした。焦げたような匂いが、隙間から入ってきた。
ナオは鎧戸に寄り、隙間に目を当てた。
兵だった。帝国の兵だ。北の砦にいる、雷の軍団。
手にした槍の穂先に、小さな稲妻がまといついて、まばたきのように明滅している。神器の写しを持つ兵だと、港の誰もが知っていた。本物の雷の槌を真似て鋳た、偽の雷。それが、数えきれないほど並んでいた。
宿は、囲まれていた。
「……見られたね」
チヨが言った。
屋根の上には、まだ烏がいた。夜明けの空を背に、黒い影が、くっきりと浮かんでいる。
「烏は、神様から預かった物のある所にしか降りない。返し屋の宿に降りたら、ここに何があるか、分かる者には分かるのさ」
烏の声が、屋根から降ってきた。
「わたくしは隠れられません。嘘もつけません。そういう者でございますので」
通りの向こうから、低く、よく通る男の声がした。
「返し屋の婆さん。夜明けにすまんな」
チヨは立ち上がり、杖を握り直した。
ナオの手の中で、割符は、まだぬくかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
伝説の武器が、ぜんぶ神様からの借り物だったら――という一行から始まった物語です。
返し屋の少年ナオと、嘘をつけない烏の旅に、しばらくお付き合いいただけたらうれしいです。




