第九話 幻影
明くる日。
陽光をあびた女郎花が放つ、陽気な香りが鼻をくすぐる。
二人は庭の紅葉の木の下に毛氈を敷き、休んでいた。
言葉を交わすでもなく交わし、時の過行くのを感じている。
――あぁ、この女人とこの紅葉が色づくのを見ることは無いのだな――
そのように思うと、この先のことすべてが己を歓迎してないような気がしてくるものだ。
ふいに、乙桐は眠たげな顔を擡げながら宮に強請る。
「宮さま、もしご用がなければ都の神泉苑に向かいとうございます」
「一体どうしたのだい」
「かの場所は観世音菩薩を祀った神聖な場所でございます。
この呪われし我が魂の汚れを祓ってくれる――
そのような気がしてなりませぬ」
彼方を見つめながら告げる乙桐の様子から、宮は「何か思い入れのある場所なのだろうか」そのようなことを思案していると、乙桐が自ら、
「もう数十年も前でございますが、
生前かの地で拝んだことがあるのです。
もし神仏がわたくしの魂を覚えていてくださるのなら――、
もしかしたら、幽鬼として漂ったわたくしめも、
極楽浄土へ迎えてくださるやもしれませぬ」
朝靄の中で御仏のことを語る様子がなんとも儚くて、宮はうっそりとしながら乙桐の頭を撫でてやる。
「宮さま、私にはわかるのです。
この体の裡なるモノが蠢いているのが。
今日にも別れの刻を迎えるでしょう。
せめて最期は、御仏に見守られ、迎えとうございます」
「悲しい事を言わないでおくれ」
後ろ髪を引かれる思いであったが。
二人は牛車に乗り込むと都の神泉苑に向かって進め始めた。
都についた頃にはすでに夕刻となっていた。
日が落ち始めた頃にわざわざ木々の鬱蒼と茂る神泉苑に訪れるものも無く、池の畔を歩むのは二人だけとなっていた。
一帯は静まり返り、都の中にあって、まさに神仏の世界との関であるかのような佇まいである。
「宮さま、私は昼過ぎから胸のあたりが苦しくて堪りませぬ。
この屍が真に鬼に化そうとしているようでございます」
乙桐の双眸から涙がとめどなく溢れる。
「宮さま、いま一度、抱きしめてくだされ。
その腕の中でこの命を感じとうございます」
宮は両手を広げ、乙桐の体をやさしく包み込む。
乙桐とも亜子姫ともいえず、ただ自分の愛した人を思いながら。
切なくも愛しく強くひとしきりに抱き込めるのであった。
その時、徐に乙桐が宮の懐に手を差し伸べたかと思うと、穂刈の呪符を取り出し、宮の身体を、その力の限りを出し撥ね退けた……。
そして足早に駆けだした乙桐は、神泉苑の池の畔にその呪符を持ったまま立ち、宮の方へ向き直る。
宮を見つめる乙桐は、片方の口端を上げ嫣然とした笑みを浮かべながら、とめどなく涙を流していた――、
「宮さま、これでおさらばでございます。
短い間でございましたが、身に余る幸せでございました。
冥途でもし亜子姫に会うことができましたら、
二人であなた様のことを語らいお幸せを見守りましょう」
まるで告げる言葉を決めていたかのように、笑みの中に苦しみを滲ませながら一気に捲し立てると、呪符を自らの喉元に張り付ける。
焼けるように呪符が頸に纏わりつき、乙桐は熱く苦しい声を上げながら悶える。
紅い目に、まさに血が染みるような線を走らせ眸を剝き出しにしながら藻掻き、池に背を叩きつけるように落ちていった。
――乙桐――、
三ノ宮はたまらず乙桐の後を追って池の中へ飛び込んでいくのであった。
ゴポゴポ、という泡をあげながら深く、深く潜っていく――。
***
体が池に沈んでいく――。
狩衣が水をふくみ、重く、深く潜るように。
夏であろうと水温は沁みるように冷たく、宮は肌が張り詰めてるのを感じる。
その右手を伸ばすように、乙桐を掴もうとするも届かず、ただただ水だけを掻いていく。
その間にも、どこまでも先へ先へと乙桐の姿は消えていく。
亜子姫の屍とともに――。
ついには三丈ほども離れたかと思ったつかの間、突然に乙桐の体が青白く発光し、それがひとつひとつ小さな粒となって放たれようとしていた。
まるで夜光虫のように青く鮮やかな広がりをもって、魂を放っていくようだ。
彼女はどこか恍惚とし満足げな笑みを浮かべながら、その体の色彩は徐々に薄くなり、淡く広がりながら、桜重ねの衣がまるで顔料が水に溶けるかのように消えていく。
宮は驚きと、悲しみとに一度に責め立てられ、困惑したまま次第に意識が薄れていく。
その直前に見た乙桐は、自分を惑わすための幻影なのかと思わせるような、夢幻的で美しい青白い光景であった。
意識が遠のく中、宮は亜子姫と訪れた丹後のある浜辺を思い出していた。
あの海では夜光虫がしきりに輝き、この世ともあの世とも見分けのつかない夜景を見たのだ。
――あぁ、あれを一緒に見たのは亜子姫だったのか、
それとも乙桐だったのだろうか。
時限を超えた幻惑的な夢に絡めとられていく。




