第十話 神泉苑
宮は一人、池の岸に引き上げられていた。
目覚めると乙桐の姿はなく、かわりに従者が一人と、僧都が一人、不安げに見守っていた。
従者は青ざめた顔で困り果てた顔に俄に喜色を示し、
「宮さま、お命をとりとめられて何よりでございます。
大きな水音がしたので寺の者が掛けつけてみれば……
本当に身の縮む思いでした」そのように声をかける。
宮は呆然としながら呟く。
「……彼女はどこに?」
「わかりませぬ……宮さまのお体のみが岸辺に寄せられていたのです」
近くにいた僧都が左手に数珠を持ちながら祈るような姿勢で語り掛ける。
「水音が二つ鳴ったので、急ぎ寺の者を複数遣わせ池の中を探させたのですが
従者の方が仰る、お連れのお方は見つかりませなんだ」
聞けば、従者も寺の者たちも確かに二つの水音を聞いたというのに、なぜか乙桐は見つからないという。ならばあの発光し消えていく姿は幻影ではなく、真の景色であったというのか。
宮は寺で簡易に着替えを済ますと、おぼつかない足元も気に留めず、その足で蘆屋穂刈を訪ねた。
穂刈が滞在しているという、二条通りにある小さな宿坊を尋ねると、
「宮さま、お待ち申し上げておりました」
そのように、待ちかねていたかのように門下で出迎えられる。
室内で向き合って座すと、何も訪ねてこない穂刈に対し、
宮は、「なにがあったのか、聞かぬのか」そう語気を強めて尋ねる。
すると穂刈は、それすらもまさに予想通りの如く涼し気な表情のまま、淡々と答える。
「神泉苑の方角の雲行きが怪しく、わたくしの呪符の力も
消えたようですので凡そのことは検討がついておりまする……。
もしよろしければ宮さまの見たままに、仔細をお聞かせいただけますか」
仔細を聞きながら、穂刈は静かに頷く。
「左様ですか、それは、苦しまずに逝けたようで善うござりました。
出来うる中での最も幸せな成仏の仕方でござりましょう」
「亜子姫の屍は、泡となって砕けてしまったのか」
「実態としては、おそらくそうでござりましょう。
幽鬼と融合し、その鬼の魂とともに放たれたのでしょう。
もとより鬼道に触れ過ぎたお体ゆえ、一片も残ることはできなかったかと」
「それでは、わたしは……亜子の願いを、
叶えてやることはできなったのか」
「そうとも限りませぬ。
魂が青く放たれた先は浄土でございますれば。
屍も荼毘に付されるのと同じく弔われてございます。
姫も御安堵なされたでしょう」
その言葉を聞いた途端に宮の心はやっと安心を得たように、じわりと目元が潤むも、穂刈を前にしただ堪えるしかない。
「しかし、詰まるところ、
わたしは何も救えなかったのかもしれぬな」
「そうではございません。
鬼と成ろうとしていた亜子姫を、幽鬼の乙桐が救い、
その乙桐の魂を、あなた様が救ってさしあげたのでしょう」
「……すべてが夢幻の中に、いたようだ」
「この世のことなど、夢幻のうちにすぎませぬ」
そう宮に告げると、穂刈は腰を上げ奥の間にあった櫃の中から一つの包みを取り出した。そして、そっとその包みを広げると――、その中には屍を探すために使った亜子姫の御髪があった。
「宮さま、慌ただしくしておりました故、お渡しそびれておりました。
この御髪は宮さまにお返しするのがよろしいかと思いまして、
お預かりしておりました」
穂刈の思いがけぬ心遣いに、宮は胸の内が熱くなるのを感じた。
突発的に出会った男ではあるが、やはり気の利く者であった。
亜子姫が極楽からこの男を手配してくれたのも得心がいく。
宮は改めて包みに御髪を丁寧に包み直すと、そっと懐に抱くようにしまう。
「そなたには世話になった。何かあったときは、また頼む」
「こちらこそお願い申し上げまする」
帰りがけに弟子と思われる童が座敷から裏口まで付き添い案内してくれる。
仮にも物忌み中なので、気を遣ったのだろう。
「そなたとも、また長い付き合いになるかもしれぬな」
「我が師匠からは俗事のことまでも幅広く学んでおりますゆえ、引き続きよろしくお願い致します」
「これ道摩よ、そのように。口葉が多いことを申すな」
小突かれ照れ笑いをしながら、その童は奥へ引っ込んでいった。
穂刈に見守られ、宿坊の裏手から車に乗り込むと、宮は御髪の入った懐にそっと手を添えその存在を確かめる。そして確りと握りこみながらこの御髪をどのように弔うべきか考えあぐねる。
その時ふいに、晩夏の女郎花が放つ、まろい香りが漂ってきた。
乙桐と過ごした際も同じ香りが漂っていたものだなどと様々な思いが過ぎっては消え、また現れては薄くなり、そしてついに、行き先を決めたのだった。
「車を、いま一度神泉苑へ向けておくれ」
御髪を、青白く魂放たれた屍と同じく、あの池に解き放つのが善いように思った。
車は日に二度目の神泉苑を目指しガタゴト、ガタゴト……と進んでいく。




