最終話 鈴虫
再び神泉苑に訪れた頃には、辺りはすっかり日が落ち、暗い夜の帳が下ろしていた。
晩夏の夜。
湿度を纏いながらも、すでに秋の気配を感じさせる鈴虫の音が優しく響き渡る。
そのリーン、リーン……という鈴を転がすような涼しげな空を通り抜ける音に、自然と心安らかな気持ちにさせられる。
――亜子姫の屍と乙桐の魂が、この神聖なる池の中で放たれたというのならば――
宮は手元にある御髪を、愛した人と同じく、また水の中に溶き放つことが残された役目なのだと悟る。
しかと土を踏みしめ、池の畔に立つ。
そして、包みに丁寧にしまい込んだ御髪を、そっと両の掌上にかざしながら水面に置くように浮かべる。
「亜子の屍と、乙桐の魂を繋いだこの池から、屍の片鱗である御髪も極楽へ連れて行っておくれ」
そのように囁くと、不思議なことに、池のそこかしこからあの時見た青白い光が粒だって現れる。初めは泡のようだった小さなものがやがては水面に。
そして段々と浮かび上がり大きく、あの時見た夜光虫のような大きな膨らみとなって水面に放たれていく。そしてその光の中に御髪は吸い込まれていく。
御髪は、それ自身も細いくも青白い燐光を放ちながら天から張られた弦のごとく一本一本が舞い上がって行く。
宮はまさに、実態から解き放たれた魂の片鱗が、浄土へと向かうさまを目にした。
その幻想的な燐光にこの世の摂理を思い、しきりに見つめていると、どこからともなく、水面から二粒のものがふわりと浮かび上がり、宮の周りを彷徨うようにゆらゆらと浮遊し出した。
よく見れば、それは二匹の蛍のように、儚げであるも、温もりを感じる光である。
――そういえば、――
宮は、乙桐が『浄土に行った後、蛍になり舞い戻りたい』と話していたことを思い出した。
それを想えばこの二つの淡い光が、亜子と乙桐の魂だという確信に思い至り、宮は胸にぐっと熱いものがこみ上げる。
しばらく宮の周りと飛び交っていたかと思うと、示し合わせたように二つの光が同時に昇天していく。
そしてその様子を宮は胸を焦がしながら、いつまでも見つめていた。
辺りではしきりに鈴虫が鳴き、まるで自分の心に降り積もった離れ難き思いに優しく寄り添い、寂しさを分かち合おうとしているようだ。
耳を擽る音に、宮は思いの丈をそっと詠む。
――今更に心とめじと思ふ世に 惜しみ顔なる虫の声かな――
(今さら、この世に心を残すまいと思うのに。
まるで別れを惜しむように、虫が鳴いている)
神聖なる池から浄土へと昇って行った屍と魂。
たしかにそれは形のない名状しがたい光となり極楽へ向かったのであろう。
そう考えれば、体という実態に閉じ込められこの世はなんと儚いことか――。
宮は亜子への悔恨と、この数日に起こった乙桐との奇々怪々に思い巡らせ、この先は出家し、二つの魂を弔いたいという思いで満たされていくのであった。
その後、神泉苑の池が青白く光ったという話は耳にしていない。
了




