第六話 相生
二人は三ノ宮の所有する宇治の山荘まで逃れてきた。
追手もなく逃げ遂せたようである。
すっかり夜半となり、牛車の音だけが空気を割いていく。
車をそのまま邸宅につけ亜子姫の成りをしたものを内へと招き入れる。
屋敷の者たちも主の急な来訪に、その上素性も知れぬ女人を連れてきたことを訝しむが、袖で顔を覆い足早に殿内へと案内される様子を見て、みな一様にただ事ではない関係なのだろうという認識で一致したようだ。
殿内の局、さらにその奥深く、誰の目も届かぬ几帳の先に二人は身を落ち着かせていた。
宮は鼓動の高鳴りを抑える術もなく、額から汗を滲ませてながら呼気を煽っていた。
「宮さま、このようなことになり、大事ございませぬか。
鬼の類を屋敷に招き入れるなど……」
「過ぎたことはどうしようもない」
三ノ宮は己がこのように大それたことをするような男であったのかと自らに驚いていた。
死や人ならざるもに触れ過ぎたためか、平時の自分では無い何かが身の裡で蠢くのを感じていた。
「先日の法師陰陽師も申していた通り、わたくしは悪鬼などではない故、
人獣の類に危害を加えたりは致しませぬ。ご安心なされませ。
人気のない頃合いを見計らい、この場所から離れます」
「そうはさせぬ」
「なぜ……?」
「その体は、亜子のものだ」
今や三ノ宮の中には、一つの気持ちだけが輪郭を伴っていた。
それは、穂刈にも、陰陽寮の者にも、誰にも亜子の屍を渡したくないという思いであった。
「そこまでして、ご自身でこの屍を弔いたいとお考えですか」
「亜子が夢の中でそう申していたのだ。私の手で叶えてやりたい。
しかし、今は、その他にもそなたを傍に置きたい訳があるような気がして
ならぬのだよ」
「……それは一体?」
「……今は、まだ、わからぬ」
二人の間に静かに空気だけが漂う。
宇治の邸宅では人もまばらであり、さらに夜も深まっているためか、しんと冷たい夜気の中二人は触れそうで触れない近しい距離で静かに見つめ合っていた。
互いの想いに馳せながら、亜子姫の屍をどうするべきか目線は暗闇をさまよう。
その時ふと鬼が、思い出したように尋ねる。
「先ほど、あなた様が亜子姫に赦しを請いたいと仰っていましたね。
実はわたくしも、あなた様に一つだけ叶えて欲しいことがあるのです」
「それは、なんだね?」
「……あの人の代わりに、私に『寂しい想いをさせてすまなかった』と、
そう言ってくださりませぬか――」
三ノ宮は、亜子姫その人の口からそのように言われたことに、咄嗟にどう答えれば良いかと思案し、苦しい顔持ちのまま左手にある几帳に目線を逸らす。
あまりにも大胆な願いを申し出たことを悟った鬼は、あきらめの表情を浮かべながら細い右手をそっと宮の左頬に沿え優しく呟く。
「声に出したくなければ、そうせずとも構いませぬ。
亜子姫の屍を前にして言の葉に出来ぬこともございましょう。
けれど、さきほどのあなた様の言葉を聞いて、もしや――、
これは互いが望む言葉を聞くために天が遣わした機会なのではないかと、
そう思いましてございます」
その優しい言葉に宮は思わず鬼の方を向き直り、紅い瞳を見つめながら、
重い気持ちをこじ開けるが如く、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「亜子が最後の数か月、悩ましい思いをしていたのは私のせいなのだよ。
私は愚かにも他の姫御にほんの少し心を持っていかれてしまったのだ。
そのわたしがこの期に及んで、亜子のその口から赦しの言葉を得ても
良いのだろうか」
「そのようなことは昔からよくあること。
ましてあなたのような高貴なお方であればそのようなことは
気にされることでは無いのでは」
「しかし深く心を通わせた人を悲しませ、
死に至らしめた原因の一端はわたしにあるのだ」
「誰もあなたが悲しむことを望んではいません。
わたくしは殿方への恨みで幽鬼と化した身ではありますが、
それでも今あるのは、何も人を憎む気持ちだけではございませぬ。
この世に生まれ慈しんだことも愛された記憶も確かに持っているのです。
ですから亜子姫も、あなた様への悲しみだけが心を占めていたのでは
ないと、そう思うのです」
鬼は左頬をことさら優しく撫でながら呟く。
宮はその右手を、自らの左手で包むように握りこめる。
「……そなたは数十年も幽鬼であったのに、
優しい心を持っているのだな」
「悲しみと憎しみだけでこの世に留まっているわけでは
ござりません。この世に一欠片でも愛情が残っているからこそ
留まっているのでございますよ」
二人は互いの欠けた部分を寄せ合うように、局の中で心を通わせていく。
夜が明ければ芦屋穂刈が陰陽寮の者を伴ってここまで追ってくるのは明白であった。
宮は、穂刈が鋭い眼力のある男だと踏んでいた。であれば、この山荘はすぐに目星をつけられ、すなわちこの鬼は明日で成敗される身だということだ。
本来であれば亜子姫の体はそれをもって解放されるのだから、宮としては好ましいことであるはずなのに、今はなぜかこの鬼と接している時を名残惜しく感じている。
それはこの女の心の端々に少なからず触れてしまったからなのだろう。
そのような想いが胸をよぎると、鬼の手を握る左手に自然的に力がこもっていく。
「乙桐よ。
今夜だけはどうかここで最後の時をくつろいでおくれ。
それがそなたと、亜子のその屍にできる最後の私の情けなのだから」
耳元で囁くと、乙桐の体をそっと右腕で引き寄せて抱きしめる。
乙桐は小さく左胸にもたれかかり、猫のように頬をこすりつけて人のぬくもりを感じている。
「はじめて、名を呼んでくれましたな、宮さま――」
亜子でも乙桐でも、よい。
その体をしかと抱きしめながら、宮は自身の心が粉々に砕けていくのを感じていた。
「……そなたに寂しい想いをさせて、済まなかった。
どうか赦しておくれ」
「あなた様を憎む気持ちなど、はじめからござりませぬ。
こうして再び抱きしめてくれただけで、わたくしは幸せにございます」
二人は強く強く抱きしめあい、互いが欲しい言葉をしきりに交わし合う。
そこには、赦してほしい男と、慰めてほしい女だけがいる。
三ノ宮と乙桐は、相生の縁の元に出会ったのだ。
晩夏の夜、庭にたわわに実った鬼灯が、さながら鬼の瞳のように月に照らされていた。




