第五話 鬼灯
何ということも無いのだけれども、気になってそこへ足が向いてしまうことがあるものだ。
しかしその実、心の奥底では明確に何を望んでいるか、知っている――。
三ノ宮は呼び寄せられるかのように、穂刈の呪符を屋敷の自室に置きざりし、あの破れ寺に来ていた。
供立っているのは牛飼い童、そして従者が一人だけである。
諸々の気まずさ故か、親王というその高貴な身分故か、牛車は裏手口の目立たぬ場所に停めさせた。
以前来た時分から幾日も廻っていないのに、漂う風の香にすっと晩夏の気配が混じり、露草の枯れた様子などを端々に見るとなぜか切ない気になる。
露草と同じく、本来ならばとうに枯れるべき恋人の屍を訪ね、ここまで来てしまった。
穂刈にこのことが知れれば怒るだろうか、軽蔑されるだろうか。
尊い身である親王が、法師陰陽師の意見に怯え、秘め事が知れることの後ろめたさを抱えながら裏門へ続く不揃いな石段を踏みしめる。
はじめて来た時と同じく、その一段一段を夕日が赤々と照らしている。
色の赤さを石段が吸い込み、石自体が怪しく発光するかのようである。
まるで人の気配もなく、かといって獣の声も、鳥も虫も鳴かぬこの景観は、とっぷりと大口を開けて三ノ宮をいまにも飲み込もうとしているようだ。
三ノ宮は己のある欲求のままに、ここまで来てしまった――。
亜子姫が自分を恨んでいなかったのだと、そう信じたくて、夢の中だけでは足りずに。
彼女の体で、その声で、はっきりと許しを得たいがためにここまで来てしまった。
たとえ中身が人ならざるモノであっても、これは致し方のないことだ――。
ミシリ、と音を立てて本堂の扉を開くと、待ち構えていたように紅い目がこちらを見やる。
「やはり参られましたか。
あなた様は必ずこちらへ来ると思うておりました」
亜子姫の姿をしたモノは、またも美しい笑みを浮かべうっそりと語り掛ける。
愛した姫が、そこにいるという錯覚に三ノ宮は眩暈を感じながらも、ふらりと堂の中央付近まで進むと、怯える気持ちを代弁するかのように床板が軋んだ。
そして戸惑いながらも三ノ宮は、重い口を開く。
「……なぜだ。そなたは、なぜ亜子の屍を奪ったのだ。
亜子の最期はいかようなものであったか……気になって、気が狂いそうだ」
「奪ったのではありませぬ。亜子姫の今際の際――。
かの姫はその若く美しい屍に執着し、鬼に成ろうしていました。
そのような折、幽鬼であったわたくしの魂が漂っておりました」
「そのように都合よく死に際の近くに幽鬼が漂っているものか。
そなたがすべて企てたのではないのか」
「亜子姫は屍と化す前の数月、鬱々と過ごしておられました。
その深淵が年端の近い、わたくしの魂を引き寄せたのでしょう」
三ノ宮は、亜子を鬱々とさせた数か月に胸を締め付けられる思いがした。
それでは、自分の迷いや曖昧な態度が亜子姫の屍を、このような暗澹なる世界へ導いてしまったのではないか――。
声も出せずただただ眉根をよせて苦しい顔で俯く三ノ宮に、鬼はそっと言葉を向ける。
「あなた様は、亜子姫と深い仲とお見受けいたしました。
黄泉路への門は、様々な要因が重なって開かれるもの。
あなた様が、姫の心魔のすべてを引き受けなくとも許されましょう。
かの姫は幽鬼にも鬼にもならず、お幸せな最期であられましたよ」
存外に優しい言葉をかけられ、三ノ宮は体を震わせ、目線を上げ鬼と改めて対峙した。
すると不思議とその紅い目がほんのりと明るく、潤々とした湿度を含ませているように見える。
まるで己が幽鬼となった苦しみと比べれば亜子が幸せだったと、そう言う鬼に対して、三ノ宮は何とも言葉に名状しがたい想いを抱いていた。
数十年も漂う幽鬼であったこのモノは、その間どのような思いを抱え彷徨っていたのか。
そう感じ入ると、紅い目までもがまるで鬼灯のように丸く可愛らしいもののように思えてくる。
「そなたが生前被った不幸とは、どのようなものだ」
「家同士の計略のために恋心を利用されたのです。
家が没落した後に捨てられ身よりもなく若くして死にました。
屍はすぐに燃やされ執念だけの幽鬼と化し、数十年漂っておりました」
「――」
「亜子姫のお心は最後まで鬼となることを拒んでおられました。
たとえわたくしが屍を引き継いだとしても、荼毘に伏されたいと思うのは当然でしょう
突然に陰陽師に調伏されるのでなければ、わたくしも抵抗いたしませぬ」
「はじめから、こうして話せばよかったのだな。
そなたとも、亜子とも――」
悔やんでも悔やみきれない思いが、三ノ宮の肩を震わせる。
亜子の姿形をしたモノを目の前に、想いが溢れて止まらくなってしまう。
「悲しいお顔は、風雅なお方に似合いませぬ。
亜子姫も、そのようなお顔は望んでいないでしょう」
この女人は、なぜこうも優しい言葉を次々に発するのか。
三ノ宮が欲する言葉を、望む眼差しで向けられる。
右の袂で両目の水を含ませるように拭うと、今一度、向き直り問う。
「しかし、確かに野辺で葬儀はいたしたぞ。
すべてが偶然の引き寄せだというのなら、あの偽の屍はいったい何だと申すのか」
「わたくしもわかりませぬが……
おそらく貉か狐の妖がかけた幻術でございましょう。
幽鬼や鬼の所業に手を貸しては、人を惑わし遊ぶのです」
本堂の中で一丈ほどの距離を置き向かい合いながらも、その言い分に「やはり世界が違うのだ」と感じざるをえない。
「それよりも、宮さま。なぜもう一度わたくしへ会おうと思ったのですか。
なにかお望みのことがございましょう」
「――わたしは、亜子に許しを得たいと思うたのだ。」
「わたくしは亜子姫ではござりませぬ」
冷たく響く鬼の言葉に、宮は眉根を寄せて俯く。
床板の隙間から時折立ち込める山間の霧を含んだ空気が、ひゅるりと肌をかすめる。宮はその風の動きが自分のおこがましい願いを嗤っているようだと思う。
その時、徐に鬼は紅い目を見開くと何かを察し、唸るように呟く。
「宮さま、なにやら外に陰陽師の気配を感じまする。
あなた様がお呼びになられたので……?」
「いや、わたしは何もしておらぬ」
「では先日のあの法師陰陽師が仲間を呼んだのでござりましょうか。
なにやら多勢の様子、わたくしもここで終わりでござりましょう。
もとより数十年も漂い怨念も執念も、もはやございませぬ。
短い間ではございましたが、今一度殻を得た幸運、
なんと幸せなことでしょう。
最後にやんごとなきお方ともお話でき、なにやら未練もございませぬ」
鬼は亜子の体を手放すというのか。
このまま再び彼女の屍が荼毘に付せられるのをみるしかないのか、そのような苦しいことを再現するのであればいっそ――。
宮はまるで境界線のようにひかれた板目をぐっと踏み込むと、鬼に一気に近づきその腕をつかむ。
「そなたはそれでよくとも、今のわたしはまだ終わらせられぬ。
こちらについてくるがよい」
驚きのあまり言葉もなく、鬼は宮に連れられ破れ寺から連れ出される。
二人は裏手に隠してあった牛車に乗り込み、そのまま宇治方面へと消えていくのであった。




