第四話 悔恨
その夜、三ノ宮は月を眺めつつ酒を飲んでいた。
あの日のこと――、亜子を傷つけてしまったことを思い出していた。
きっかけは些細なことであった。
宮中の宴で楽を奏でたのだが、それを初夏の頃から出仕していた女官に気に入られてしまったのだ。
かの姫は左大臣家の四の姫でいづれは女御になるものと皆が見立てていたため、このように好意を持たれることなど宮にとっても、宮中の他の他の者にとっても意外なことであった。
なぜ姫君の好意が露見したかといえば、人目も憚らずに左大臣からの打診と、それにあわせてように四の姫からの文をもらった。左大臣家の姫君から文をもらえば無下にすることもできず、義務的な気持ちで返歌を送った。
だが、宮のそうした態度に、噂には尾ひれがつき広まっていくものだ。
事の次第は大納言の耳にも入り、必然的に亜子姫の耳にも入り、知るところとなった。
そうしているうちにも次から次へと左大臣からの圧力があり、身の置きようもないほど煩わしく感じているも、漫然と日々が続けば恐ろしいことに、宮は自然と左大臣家と姻戚関係なればどうなるだろう、などと妄想してしまう己がいることに慄いた。
人間という生き物は、心の中には一人しかないと思いつつも、もう一方の頭では選べるだけの未来を勝手に描いてしまうものなのだ。
そうして描いた未来を頭をふるいながら打ち消していく中で、宮の胸の中にどうにも拭えない亜子に対する罪悪感が生じてしまった。己の内に生じた黒い感情と向き合うことが恐ろしく、大納言邸へと向かう足が遠のいていってしまった。
そのように鬱々と過ごしている最中、亜子から文が届いた。
それが、「世間の噂など何も気にしていません」などと毅然とした思いが込められていて、輪をかけて宮の心情を突いていくのであった。
そして宮の元に、次の便りが来た時には、亜子姫は流行り病にかかっていた。
大納言家の女房がいうには、亜子姫はみるみるうちに衰弱していったという。
宮は己の曖昧な態度によって心魔に取りつかれていたことが原因かもしれぬ、そう責任を感じていたのだ。
――そうか、己は……亜子に、謝りたかったのだ。
そしてできれば赦してもらいたいのか――。
宮の心中に、悔恨という、決して消せないものが消えぬ火種の如く燃えていた。
その火は次第に周りさえも焦がし、燃やし、浸食していくようである。
その晩、三ノ宮は枕元に穂刈から渡された呪符を置いて床についた。
夢の中で三ノ宮は大納言家の邸宅の簀子に座し、亜子姫と二人酒を嗜んでいた。
亜子姫はいつも好んでいた、桜色の柔らかい色合いの袿を大仰に広げながら男の右肩に体重をかけ風雅に座していると、そのうちふと左にいる男を見上げるように見つめてくる。
そしてそれに応えるように三ノ宮も姫を見つめ返す。
徐に亜子姫は三ノ宮の頬を右手でしっかりとつかむと、優しく微笑む。
宮は彼女の腰に手を回しながらそっと抱き寄せ、聞こえるか否かはかり兼ねるほどの細い声で左耳に吹き込む。
「亜子姫、どうか、わたしを赦してくれないか……」
亜子姫はその表情を微動だにせず、漆黒の大きな目を見開きじっと見つめ返してくる。
そうして暫く二人で一つのように見つめ合うと、宮は『もはやこのまま夢の中で過ごしていたい』そのように感じ瞼を閉じ、一筋の涙をこぼしていた。
塗れた瞳でもう一度目をあけると、あの破れ寺で会った赤い目の亜子姫がこちらを覗き込むようにじっと見つめていた。
その血のように赤い目を見た瞬間に全身が総毛立ち一気に汗ばむのを感じる。
慌てて現の世界に目を覚ました三ノ宮は、息も絶え絶えに身を起こす。
夜半の中、鳴りやまぬ虫の声が現実だと教えてくれる。
破れ寺で鬼と接触し瘴気を浴びたことで、己は今夢と現の境に閉じ込められたのやもしれぬ。
だが、しかし、鬼の言っていた言葉の意味を反芻していた。
『亜子姫の最期を教えて差し上げましょう』
その言葉が脳裏から離れない。
亜子はいったい、わたしをどのように思っていたのだろうか。
恨んでいたのか、深い仲になったことを後悔していたやもしれぬ。
知ったところで後ろ暗く辛い気持ちになるのであれば、もはや鬼に近づかぬほうがよいのではないか。あの穂刈もそのように申していた。
そのように自身の心を諫めるも、もはや拭えない欲望を抱いてしまった。
――いったいこの世に、愛する人の最期を知るという機会を逃す者などいようものか。
愛していたのなら、知るべきではないのだろうか?――
三ノ宮の心はすでに決まっているのであった。




