第三話 幽鬼
「わたくしは、乙桐と申します」
亜子姫のその顔で、鬼は嫣然と笑う。
その表情は一見すると、人のそれと然程変わりないように見える。
しかし暗い堂の中にあって獣のように紅い瞳が人ならざるものであると教えている。
双眸の奥には炎を滾らせており、刺すように強い眼差しがこの世への恨みを含んでいるようであった。
三ノ宮は、大君の姿をした人ならざるものを訝しみながら、冷たく言い放つ。
「乙桐と申すものよ、死者の亡骸に入り込むとは許されざる所業ぞ。
亜子の体を明け渡すがよい」
「あなた様は、亜子姫と親しいお方とお見受け申します。
しかし、亜子姫もこのこと承諾していたからこそ、このように屍を
我が物にすることが出来たのでございます。
であれば、何故わたくしが罪に問われましょうか」
「宮さま、鬼の戯言に耳を傾ける必要などござりませぬ」
穂刈は宮にそのように告げると鬼と間合いをとりつつ近づき、呪符と念珠を用いて二組の間に結界を張る。途端に呪を唱え結界の中に鬼をその中に閉じ込めた。
一畳ほどの結界に封じられ、刹那、鬼は苦痛の表情を見せる。
亜子姫の美しい顔に、ぬぅと細い犬歯を二つ伸ばしながら口惜しそうに声を漏らす。
「そなた、陰陽師であったか」
本堂の隅に鬼が一人、柱に縛られるがごとく硬直しながら苦しみもがく。
もともと人が一人歩くにも心許なかった床板がガタ、ゴト。と音を立てて震える。
このままでは鬼が結界を破るか、それとも本堂の板が外れるかのどちらかとも思えるほどの緊迫した状況の中で穂刈は三ノ宮に、
「今でござります、悪鬼の寝首を経ち、成敗なされませ」そう告げると、さらに強く右腕の印に力を込める。
三ノ宮は腰に佩いていた刀を抜き取ると、そのモノが捕縛されている場所へにじり寄る。
ギシ、ギシと朽ちかけた床板と、呼応するように壁面の塵にまみれた土壁がにわかに震えるような音を響かせている。
それが妙に心に忍び込むように、空間を劈いていく。
――目の前の愛する人の形を成したそのモノを成敗せねば。
このままでは大君の黄泉路は涙であふれ、溺れてしまうだろう。
わたしが恋人の魂を鎮めるために、この外道の鬼を成敗するのだ。
そう思い刀を頭上高く振りかざし、一気に太刀を振り下ろす――。
次の瞬間、ハラリ。と一枚の呪符が破れ、念珠の玉が辺り一面にバラバラと散らばっていく。
事態をすぐに理解した穂刈が声を上げる。
「宮さま、危のうございます!」
三ノ宮は、左側面から穂刈に身を巻き込まれるように押し倒され、二人は堂内に大きな音を立て崩れる。
瞬間、目の前にいたはずのモノがするどい爪を立て、穂刈の狩衣の左肩の布を抉っていった。
黒い影となったそのモノは、亜子の顔をしたまま鋭い爪をのぞかせ、倒れこむ二人の男を上から見やると、低く唸るような声で告げる。
「宮さま、どうやらそなたはこの亜子姫を殺せぬようですな。
であれば、気が向いた時にでもまたわたくしに会いに来られるがよろしいでしょう。
亜子の最期を、そなたにだけ教えて差し上げましょうぞ」
まるで呪うように言葉を吐き捨てると、窓ともいえぬ木枠から飛び出、するりと夜の風となって山奥へ消えていった。
***
「宮さま、お怪我はございませぬか」
「わたしは問題ないが、そなた、その腕大丈夫なのか」
穂刈は三ノ宮を助けた際に、左腕を鬼の爪で引き裂かれたようである。
幸いにも傷は浅く済んでいるが、震えるようにじゅくじゅくと蠢き瘴気を放っている。
「このような傷、どうということでもございませぬ。
しかし宮さま、さきほどは――」
「そなたにはすまぬことをした……。私は、己が許せぬ」
「責められますな、人であれば己が愛した者の形をしたものを、
迷いなく打ち捨てることなどできませぬ。
しかし、かように逃げ仰せられることは二度はござりませぬでしょう。
努々、おひとりで暗き場所へはお近づきになりませんよう。
わたくしはしばらく都に滞在する予定でございますので
御用があればいつでもご連絡ください」
三ノ宮は虚ろな目で頷きながらも、己の心と体のばらけてしまった事実に心苦しく、車の小窓からあたりの山間と空の境に目をやる。
――鬼とわかっていたのに。
亜子の魂は屍を取り戻してほしいと願っているのに……
わたしは、何を望んでしまったのか――。
宵空と黒く浮かび上がる山並みの陰影が、同じ暗澹であるにもかかわらず何故こうもくっきりと見えるのか。人ならざる者に情けをかけてしまったために闇に近くなってしまったのかもしれぬ、と一人気が沈みゆくのを眺めていた。
やがて闇夜の中、牛車は憚りながら都へ舞い戻る。
穂刈は去り際に懐から呪符を取り出し三ノ宮に渡す。
「宮さま、この呪符をお持ちになれば、鬼は近づいてくることはできませぬ。
どうか肌身離されませぬよう。」
「――わかった。しかし、あの鬼は、亜子の体で何か悪さはしないであろうか」
「血なまぐさい瘴気はございませんから人獣を食い荒らすような
低俗なモノではないでしょう。
しかし、それも時間の問題でありましょう。
早いところ手を打つべきものかと思いますれば、わたくしから
陰陽寮の知り合いに仔細を伝えておきましょう」
「すまぬ。しかと頼む」
この闇夜の中、亜子姫の屍は一体どこを彷徨っているのであろうか。
成敗することができないのであれば、せめて閉じ込めておけないものかと、宮は胸が痛むのであった。




