【第三部 鎖が解けるまで】第20話 粉屋の裏
エルドは、借りた馬の上から、街道の先に町の屋根を探していた。
馬車の足に合わせて、王都から十五日かかった。夏の盛りだ。道の両側で、麦の穂が重そうに垂れている。馬の汗の匂いに、乾いた穂の匂いが混じっていた。
一行は、長い。先頭を、王宮の兵が四人行く。そのあとに、白い外套のリヴィアが馬を進めている。続く馬車には、ドナートと侍女が乗っている。侍女の名は、道のあいだに覚えた。ノエミという。
後ろは、南の兵が六人だ。門の兵のサンドロと、その組の者になる。槍は、関に預けてきた。腰には、剣だけがある。六人の名も、十五日のうちに訊いて覚えた。
いちばん後ろを、レイフが来る。王宮は、厩でいちばん大きい馬を貸してくれた。それでも、鐙から下がる足が長い。
「エルド様。馬が、気の毒です」
後ろから、声がした。発った日にも、同じことを言っていた。
「あと少しです。町に着いたら、いちばん先に水をやってください」
「はい」
道が、ゆるい上りになった。行く手に、町の屋根が見えてくる。その向こうの坂の上に、石の壁があった。屋根は無い。夏の空の下に、壁だけが立っている。
リヴィアが、馬を止めた。エルドは、隣へ馬を寄せた。
「北の当主。あれが、城か」
「城でした。十年前の冬に、焼けました」
壁の上を、鳥が一羽、越えていった。
「建て直さぬのか」
「建て直しません。町に住んでいます」
「町の、どこだ」
「粉屋の裏です」
「……粉屋の、裏」
リヴィアは、その語を一度くり返した。証文でも帳簿でも、見たことのない語らしい。
黒い目は、石の壁へ戻った。
「あそこで死んだ者の名は、どこに書いてある」
名を書く国の人の問いだ。
「城の東の林に、石があります。その下に、六十余りです。石に、字はありません。名は、城の教え役が書き残して、町の者が隠して持っていました。私も、写して覚えました」
「字の無い石か」
「はい。草は、町の者が毎日刈っています」
リヴィアは、少しのあいだ黙っていた。
「帳簿に無いものを、町の者が持っている。そういうものなら、わたしの国にも一つある」
「存じています。祭りの二日目です」
「……辻は、口が軽い」
怒った声とは、違っていた。手綱を持つ手が、少しだけ緩んでいる。
城のさらに向こうに、北の峠が見える。岩の色をした、夏の峠だ。
「雪は、どこだ」
「ありません。夏です。峠の上にも、いまは残っていません」
「北へ来れば見られる、と思っていた」
「冬に来ないと、見られません」
言ってから、自分が何を言ったのかに気づいた。
リヴィアは、答えなかった。峠を見たまま、馬を進めていく。前を向いた横顔からは、何も読めない。町の南の口が、近づいてきた。
◇
南の口の手前で、南の兵は馬を下りた。
足をそろえずに歩いてもらえますか、と道のあいだにサンドロに頼んである。この町は、足のそろった兵を恐れる。訳も、話した。
「二十年あまり、そろえてきた足だ」
サンドロは、嗄れた声で言った。
「ばらすほうが、骨が折れる」
六人は、歩幅をわざと変えて歩きだした。一人は大股で、一人は小刻みだ。かえって、目立つ。通りの端で、子どもが一人、まねをして歩いて、声を立てて笑った。母親が、その口を手でふさいだ。ふさいだ母親の肩も、揺れていた。
今日は、戸の閉まる音がしない。町の者は、戸口と通りの端に立って、遠くから見ている。
道の脇で、コンラートが遅い礼をした。町の兵は、今日も槍を持たずに立っている。その向こうに、南から来た者たちが並んでいた。春に橋で迎えた者も、去年からの者もいる。畑から来た者の手には土が付き、道から下りてきた者の肩には石の粉が付いていた。テオがいる。ルチオもいる。みな、右の手のひらを上に向けていた。
リヴィアは、馬を下りた。
「南の姫さんだ」
通りの端で、誰かが言った。
リヴィアは、並んだ手のひらを端から見ていった。一人も、飛ばさない。それから、こちらへ向き直った。名代の声だった。
「北の当主。見に来た」
「北の家が、お迎えします。王女殿下」
「証文は、要らぬのか」
「この国では、客に証文を書きません。口で言います」
「書かぬ国だ」
「名代」
コンラートが、一歩出た。脇に、綴りを一冊抱えている。
「北の家の帳簿に、客としてお名前を書いてよろしゅうございますか。聞いたことは、書く者でございますので」
リヴィアは、コンラートを見た。それから、口元が緩んだ。
「書く者が、いたか。代官であろう。文で読んだ。書け」
コンラートは、その場で綴りを開いた。細かい字が、四行目に入る。
——客、メリディアの王の名代リヴィア。迎える。
南の王宮の門で、客の欄に名を書いたのは、去年の秋だ。今日は、こちらの帳簿に、この人の名が載った。
「北の当主。イェンスという者は、この中にいるか」
不意に、名が出た。
鍛冶場の前に、革の前掛けの若い男が立っていた。腕を組んで、南の兵を見ている。
「あの者です」
リヴィアは、供の兵を手で止めて、一人で通りを渡った。町の者が、道を空ける。イェンスは、腕を解いた。逃げ場を探すように、左右を見た。
「イェンスだな。冬に、吹雪の山へ、テオを探しに上がったと読んだ」
「……杭の場所を、知ってただけです」
「テオは、去年の春まで、王の家が川べりで食わせていた者だ。その者を、そなたは探しに上がった。礼を言う」
右の手のひらが、上を向いて出た。左の手が、添えてある。
イェンスは、その手を見たまま動かない。返し方を、知らないのだ。
「同じ形で出せ」
後ろから、ルチオが言った。
「何も持ってない、と見せる礼だ」
イェンスは、ルチオを一度にらんでから、右の手を出した。炭で、黒い。
「……鍛冶場の手です」
「見れば分かる。よい手だ」
リヴィアは、それだけ言って戻ってきた。通りの端の者たちが、黙ってそれを見ていた。粉屋の女房が、隣の者に何か言った。
「若様」
町の兵をまとめるディルクが、小さい声で言った。
「南の姫さんは、名を覚える人ですね」
「はい。一度読めば、忘れない人です」
泊める所は、道のあいだに決めてあった。
「宿は、町に一つです。王女殿下とノエミと副使殿は、宿へ。南の兵の方たちも、宿に入れます。王宮の兵は、役所の裏で代官が預かります」
宿の戸口で、エーリクが頭を下げている。
「足りぬものは」
リヴィアが訊いた。
「部屋です。兵の方は、三人で一つになります」
「門の兵は、二十年あまり、石の上に立ってきた。屋根があれば足りる」
サンドロが、後ろで短く笑った。
「山へ上がられるなら、上に湯の宿があります」
エルドは続けた。
「宿の主から、言づけが来ています」
「姉君の宿だな。何と言っている」
言づけを預かっているのは、ディルクだった。太い声が、言われたとおりに言った。
「姫でも、客の値だよ、だそうです」
「払う。当主からも取る宿であろう」
六人が、宿の戸をくぐっていく。足は、もうふつうに歩いていた。町の者は、それを終わりまで見ていた。
◇
日が傾いてから、リヴィアは、ノエミを連れて宿を出てきた。
「雇う家を、見る」
「雇う家、ですか」
「川べりの者を雇っているのは、北の家であろう。雇う家がどういう構えかを、わたしは、川べりで口で言わねばならぬ」
筋は、通っていた。
粉屋の角を曲がる。石臼の音は、もう止まっている。夕方の風に、挽いた粉の匂いが残っていた。角のすぐ先に、通りに面した低い戸がある。
レイフが、先に戸を開けた。屈んで、入る。
机が、一つある。竈が一つと、棚が一つ。棚には、革の表紙の帳面が四冊並んでいる。戸口の脇の床に、畳んだ寝床があった。
リヴィアは、戸口に立ったまま、中を見た。黒い目が、机から棚へ動いて、戸口の脇で止まった。
「俺の寝床です」
レイフが、戸の内から言った。
「エルド様のは、奥です」
訊かれる前に、答えていた。リヴィアは、寝床とレイフを、順に見た。
「当主の家が、これか」
責める声とは、違う。呆れた声でもない。確かめたことを、そのまま言った声だ。
椅子は、二つある。
どちらを出せばいいのかを、エルドは、まだ決めていなかった。




