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第84話 知恵の泉《ミーミル》

シエル視点――


祭り十日目。

十種族会議まで、あと二日。


シエルは、ヤマナギの森人族区画へ向かっていた。

街の中にあるはずだった。


けれど、足を踏み入れた瞬間。

祭りの音が遠くなった。


木々がある。

道がある。

家もある。


なのに。

森の中に入ったようだった。


建物は、木と一体化している。

枝が屋根を支え。

蔦が壁を這い。

窓から差す光は、葉に濾されて柔らかく落ちていた。


道は整っている。

けれど、まっすぐではない。


何度も曲がる。

同じ場所へ戻ったように見える。

地図の通りに歩いているはずなのに、距離の感覚がずれていく。


森人族の区画。


人が住む場所であり。

同時に、森だった。


シエルは足を止める。


焦っていた。

それは認めるしかなかった。


他のメンバー達は既に変化していた。

何かを得て、何かを失った感覚。

それはきっと覚悟と決断、

そして勇気が要ったことだろう。


私はまだ何も得られていない。

会議は迫っているのに。


では、私には何ができるのか。


資料は読んだ。

会議場の見取り図も見た。

サクラ教団の動きも整理した。

感情増幅の可能性も、開花装置の仕組みも考えた。


けれど。

足りない。

何かが足りない。


長達との交流会で、森人族代表のミサネ様が言っていた。


(理屈は分かります。


 でも人の心は理屈通りじゃない。)


その言葉が、ずっと残っていた。


今のヤマナギの問題は、理屈だけではきっと解決できない。


サクラ教団。

本物のサクラ。

偽物のサクラ。

民衆の熱。

十種族会議。

カノの過去。


全部に、人の心が絡んでいる。


だから。

シエルは、ここへ来た。


森人族代表。

ミサネに会うために。


森の奥へ進むと、二人の森人族が立っていた。


側近だろう。


一人は長身の女性。

もう一人は白髪交じりの男性。


どちらも静かだった。


武器は持っていない。

けれど、近づいてはいけない空気がある。


「リスティア魔導学園のシエル・アークライトです」


シエルは礼をする。


「ミサネ様にお会いしたく参りました」


女性の側近が静かに答えた。


「ミサネ様はお会いになりません」


声は荒くない。

だからこそ、拒絶ははっきりしていた。


「サクラ教団についてです」


シエルは言った。


「感情増幅と、開花装置について、相談があります」


「代表はすでに十分な報告を受けています」


「追加の情報があります」


「それは正式な経路で提出してください」


正しい答えだった。


シエルは一瞬、言葉を失う。


それでも引けない。


「森人族の知見が必要です」


「必要かどうかは、こちらで判断します」


男性の側近が言った。


「あなた個人と話す必要はありません」


その言葉が刺さる。


あなた個人。

シエルは、奥歯を噛んだ。


普段なら引いた。

正規の手続きを踏んだ。

資料をまとめて渡し、返答を待った。


けれど、今は時間がない。

十種族会議まで、あと二日。


「お願いします」


シエルは頭を下げた。

自分でも驚くほど、声が硬かった。


「私は、理解しなければなりません」


「理解は、あなた個人の問題です」


女性の側近が言った。


「ミサネ様の時間を使う理由にはなりません」


その通りだった。

だから、余計に苦しい。


シエルは顔を上げる。


「対価なら出します」


側近たちが、わずかに目を動かした。


「リスティアの術式知識を渡します」


必死に。


「記録術式。

 検索術式。

 禁書保管術式。

 共鳴探査術式」


知識を並べた。


「必要なものを」


言いながら、シエルは自分の声が早くなっていることに気付いていた。


焦っている。

完全に焦っている。

それでも止められなかった。


「リスティアの知識には価値があります」


「でしたら」


男性の側近は答えた。


「ですが」


女性の側近が続ける。


「森は、知識の取引所ではありません」


シエルは止まる。


「あなたが持つ知識に価値があることは分かります。


 ですが、ミサネ様があなたと話す理由にはなりません」


それで終わりだった。


知識では足りない。

理論では足りない。

リスティアの価値でも、森は開かない。


では。

自分は何を出せばいいのか。


「お帰りください」


シエルは動けなかった。


帰る。

ここで帰れば、何も得られない。


でも。

これ以上、差し出せるものがない。


その時だった。


「珍しいですね」


声がした。


側近たちが一斉に頭を下げる。


木々の奥から、ミサネが歩いてきた。


森人族代表。


交流会で見た時と同じく、落ち着いた表情だった。


足音はほとんどしない。


けれど。

森全体が、彼女に道を譲っているように見えた。


「ミサネ様」


女性の側近が言う。


「お通しする必要はないと判断しました」


「そうですね」


ミサネは頷く。


「普通なら、その判断で正しいです」


普通なら。


シエルは顔を上げる。


ミサネはシエルを見た。


「理屈を持ってくる子だと思っていました」


「……はい」


「今日は、ずいぶん必死ですね」


シエルは一瞬黙る。


否定はできない。


「必死です」


自分でも驚くほど、はっきり言った。


「今、必死になれないなら。


 私は十種族会議で何もできません」


ミサネはしばらく黙っていた。


木々の葉が、静かに揺れる。


「知識はいりません」


ミサネは言った。


「あなたが持ってきたその焦りを見ます」


「焦りを、ですか」


「はい」


ミサネは側近たちへ目を向ける。


「通しなさい」


「ミサネ様」


「森が少し、見たがっています」


側近たちはそれ以上言わなかった。


道が開く。


ミサネは森の奥へ歩き出した。


「来なさい」


シエルはその背中を追う。


少し歩くと、空気が変わった。


さらに音が遠くなる。

祭りの声はもう聞こえない。


足元の土が柔らかい。

木漏れ日が揺れている。

枝が重なり、空が細くなる。


ここは、本当に森だった。


「驚くかもしれませんが…」


ミサネは立ち止まる。


「あなたの母は、私の妹です」


シエルは息を止めた。


言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。


母。

妹。

ミサネ。


「……母を、ご存知なのですか」


「当然です」


少しだけ空気が和らぐ。


「私にとって一番の理解者でした」


けれど。

ミサネは表情を変えなかった。


「だからといって、あなたを甘く見るつもりはありません」


「……」


「森は、血だけで人を受け入れません」


静かな声だった。


冷たいわけではない。

しかし、優しくもない。


「あなたは半分、森人族です」


「はい」


「けれど、半分では森に立てません」


ミサネは言う。


「血ではなく、考え方を示しなさい」


シエルは喉を鳴らす。


「何をすれば」


「三つです」


ミサネは指を立てた。


「木は一本では森にならない。


 一枚の葉で木を決めてはならない。


 枝を切るなら正しい枝を切らねばならない」


その言葉が、森の中へ落ちる。


「森人の教えを示しなさい」


視界が揺れた。


木々が遠ざかる。

ミサネの姿が薄くなる。

足元の土が消える。


シエルは手を伸ばそうとした。


遅かった。


世界が変わった。



そこは、ヤマナギだった。


行き交う人々。

祭りの熱気。

和風な町並み。

そよぐ海風。


騒がしい港。


前方に人影がある。


クロード・ヴァレン。


シエルの幼馴染。

リスティア学園最強。

聖剣に選ばれし者。

弱点のない人。


けれど。

今はいないはずの人物だった。


クロードは船から降りてこちらを振り返る。


穏やかに笑っていた。


「シエル」


声も、記憶と同じだった。


「ここから先は、私がやる」


シエルは動けない。


「君はもう十分だ」


優しい言葉だった。


責めていない。

見下していない。

拒絶もしていない。


――記憶がよみがえる。


昔も、同じことがあった。


学園の実地演習。


暴走した魔獣。

崩れた結界。

泣き出す下級生。


シエルは術式を読んでいた。


結界の破損箇所。

魔獣の動線。

救助に必要な手順。

必要な魔力量。


答えは、もうすぐ出るはずだった。


その前に。


クロードが前へ出た。


聖剣が一度だけ光る。

魔力が結界と交じり、

修復しながら魔獣を一閃した。


魔獣は倒れた。

結界は保たれた。

下級生は助かった。


誰も傷つかなかった。


完璧だった。


教師たちはクロードを褒めた。

下級生たちは泣きながら礼を言った。


シエルの手元には、

使われなかった解析だけが残っていた。


クロードは悪くない。


誰も悪くない。

最も早く、最も正しく、最も安全に解決した。


だからこそ。

シエルには、何も残らなかった。


痛い。


クロード・ヴァレンに弱点はない。

少なくとも、シエルには見つけられない。


剣も強い。

魔術にも通じている。

判断も速い。

人望もある。

危機に立てる。

誰かを守れる。


正しい。


ずっと、そうだった。


だからシエルは、彼の隣で考えていた。


私がいなくてもいいのではないか。

クロードがいれば、足りるのではないか。

私が出す答えより、彼が動いた方が早いのではないか。


「大丈夫だ」


クロードは言う。


「君が無理をする必要はない」


それは優しさだった。


でも。

シエルの胸の奥に、古い痛みが刺さる。


必要ない。


そう言われたわけではない。

なのに、そう聞こえてしまう。


「……違い、ます」


シエルは小さく言った。


クロードが首を傾げる。


「何?」


「クロード、貴方には出来ない事はありません」


シエルは言った。


「少なくとも、私には見つけられません」


クロードは黙って聞いている。


「でも」


シエルは息を吸う。


「一人では出来ないこともあります」


――結界の解析は再発防止に使用された。


――その後、同じ事故は起こっていない。


視界の端で、葉が揺れた気がした。


「クロードが完璧でも。


 私が不要になる理由にはなりません」


クロードは静かに笑った。


その姿が、光のようにほどける。


ヤマナギの景色が消える。


一つ、認めよう。


森の声が聞こえた気がした。



次に現れたのは、リスティア魔導学園だった。


ただし、少し違う。


実際にあった過去。

Aクラスの教室。


窓際に、フィオナ・レイヴェルトが立っている。


白金色の髪。

整った制服。

まっすぐな背筋。


元Aクラスの侯爵令嬢。


シエルは、彼女を少し知っていた。


成績優秀。

礼儀正しい。

失敗しない。

隙を見せない。


けれど、近かったわけではない。


フィオナはいつも正しく立っていた。


誰とも深く混ざらず。

誰にも弱さを見せず。


そういう人だと思っていた。


場面が変わる。


廊下に噂が流れる。

教師を燃やしたらしい。

レイヴェルト侯爵令嬢が。


Eクラスに移されたらしい。


シエルは、その声を聞いていた。


記憶の中の自分は、立ち止まらなかった。


理由を探さなかった。


教師を燃やした。

その言葉だけで整理した。


何かがあったのだろう。

問題を起こしたのだろう。

貴族にも事情はあるのだろう。


そこで終わらせた。


視界の向こうに、Eクラスの教室が見える。


そこにフィオナがいる。

同じ教室に、リオン・クロックがいる。


リオンは笑っていた。


軽く。

何も考えていないように。


「いやいや、俺はいつでも真面目だぜ?」


フィオナが冷たく返す。


「その返しがもう不真面目だと」


「厳しいなあ、流石貴族サマ」


冗談。

軽口。

距離を取る笑い。


シエルは、その様子を見ていた。


リオンは、最初から遠かった。


Eクラスの軽い人。

冗談ばかり言う人。

真面目に見えない人。


そういう葉だけを見ていた。


知っていたつもりだった。


Aクラスのフィオナを。

Eクラスのリオンを。


でも。

見ていたのは一部だけだった。


一枚の葉。

それだけだった。


フィオナの正しさが、孤独の形だったかもしれないこと。


リオンの軽さが、踏み込まれないための笑いだったかもしれないこと。


シエルは見なかった。

見ようとしなかった。


「私は」


シエルは呟く。


「知っているつもりでした」


二人の声が止まる。


フィオナがこちらを見る。

リオンも笑ったままこちらを見る。


シエルは続けた。


「でも、見ていたのは一部だけです。


 一つの噂で、人は分かりません。


 だから」


息を吸う。


「もっと知るべきでした」


フィオナの姿が揺れる。


リオンの笑みも揺れる。


「今からでも、間に合うでしょうか」


二人の間に、細い枝のようなものが見えた。


弱い。

頼りない。

今にも折れそうな繋がり。


けれど。

今はしっかりと繋がっている。


世界がほどける。


二つ、認めよう。


森の声が、そう告げた気がした。



三つ目の世界は、静かだった。


シエルの手には大きな剪定バサミがあった。

触れれば何でも切れそうな鋭いハサミ。


頭の中で声がする。


『――枝を腐らす元凶を切れ』


すると。

白い舞台が浮かび上がった。


その中央に、カノが立っている。


いや。

サクラ様が立っていた。


草で編んだ金色の髪。

木でできた長い耳。

継ぎ接ぎだらけの白い衣装。

祈るような姿勢。


けれど顔は、カノだった。

鷹乃つめだった。


「……カノ?」


シエルの声は震えていた。


確かに聞いていた。

サクラという名前でカノが活動していた事。


ただ。

その存在があまりにも出来すぎていて、

脳が解析する前に別解を出していた。


サクラはカノであり、

今の問題にも関わっている?


「私がサクラだったら、楽でしょ」


その心を読んだようにカノが言った。


声はいつもの調子に近かった。


だから、余計に嫌だった。


「全部繋がるもんね」


カノは指を折る。


「サクラ教団も。


 感情の解放も。


 学園の護符事件も。


 私の力も。


 シエルなら、綺麗に説明できるでしょ」


説明できる。

恐ろしいほど、説明できてしまう。


カノがサクラだったなら。

そして裏で手を引いていたのなら。


今までの騒動の多くに筋が通る。


サクラ教団。

護符。

感情増幅。

サクラ様。

炎上の魔女。

観測される力。


名前。

信仰。

悪意。


全部が一本の線になる。


でも。

筋が通ることと、

その人を見たことは違う。


「……説明できるからといって」


シエルは言った。


「……それが正しいとは限りません」


カノは笑う。

へらへらと、リオンの様に。


「でも、人間はわかりやすい答えを望んでる」


「……はい」


「疑わしきは罰した方がリスクは低い」


「……はい」


「じゃあ、私を切ればいいじゃん」


カノは言う。

平然と、ユイガの様に。


一瞬シエルは戸惑う。


カノが今はサクラでないとして、

その後の騒動に関わってないとして、

ここで身柄を押さえることのデメリットはない。

むしろ不確定因子が減って解決しやすくなるのでは。


シエルは首を横に振った。


違う。

理屈じゃない。


これだけ一緒に過ごしているからわかる。


カノは。

鷹乃つめという女性は。


学園を混乱させたりヤマナギの地を侵そうとするはずがない。


それはただの感情論だった。

初めての暴論だった。


「カノは仲間です」


カノは目を伏せる。

孤独を知る、フィオナの様に。


「でも心からは信じてないでしょ」


「はい」


シエルは即答した。


「なら切っとけば?」


カノは淡々と言う。

何事も興味の薄れた、レインの様に。


そしてシエルは気付いた。


カノは演じてるだけだと。


だから。

解析も理屈もなにもなく。

感情だけで結論付けた。


カノは現在のサクラとは関係ない。

因果はあるのかもしれない。

けれど、それはまた別の話だ。


「もしも切るなら。


 カノを否定するためではなく。


 カノをサクラという名前に閉じ込めないために。


 過去のサクラだけを切ります」


カノは何も言わなかった。


シエルは金色の髪、長い耳、白い衣装をゆっくりと切っていく。


白い舞台に、枝の影が落ちる。


それは細く。

硬く。

複雑に絡んでいた。


切れば痛む。

切らなくても、痛む。


ほどくように丁寧に切っていった。


そして。

綺麗な枝が残った。


シエルはそれを見ていた。


三つ、認めよう。


森が囁いた。

世界が消える。



気付くと、シエルは森の中に戻っていた。


目の前にミサネがいる。


静かな表情。


けれど。

その目に、初めて違う色が浮かんだ。


警戒。

あるいは、危機感。


「今のものは、試練では済まされません」


ミサネが言った。


空気が冷える。


「サクラという名。


 観測により強化される力。


 周囲を巻き込む影響力。


 それらが一人に繋がるなら、森にとっても危険です」


シエルの胸が鳴る。


「シエル・アークライト」


ミサネの声は、代表の声だった。


「あなたが知っていることを、すべて話しなさい」


シエルは息を止める。


「カノとは、鷹乃つめとは何者ですか」


言える。


カノが何者なのか。


鷹乃つめという名。

カノという偽名。

炎上の魔女。

周囲を燃やすほどの影響。

サクラと呼ばれた過去。

観測により強化される力。

悪意を魔力に変える力。


情報としてなら、話せる。


筋道も立てられる。

説明もできる。

報告として整えることもできる。


ミサネは言った。


「森の知恵は、危険な者に渡せません。


 危険を隠す者にも渡せません。


 あなたが本当に森の知恵を求めるなら。


 仲間ではなく、森を選びなさい」


シエルは動けない。


「言いなさい」


ミサネの声は静かだった。


「それを言わなければ、森の知恵は授けられません」


欲しい。


シエルはそう思った。


森の知恵が欲しい。


十種族会議で必要になる。

感情操作を見抜くために必要になる。

仲間を守るために必要になる。


自分が置いていかれないためにも、必要になる。


けれど。

そのために、カノを説明に差し出すのか。


仲間を守るために仲間を差し出す?


それは、おかしい。


「言えません」


シエルは答えた。


ミサネの目が細くなる。


「知らないのですか」


「知っています」


「では、なぜ」


シエルは息を吸った。


「仲間を守るためです」


「森の知恵を失っても良いと?」


「はい」


声は震えなかった。


不思議だった。


あんなに焦っていたのに。

今は、焦っていなかった。


「私は、カノを差し出しません」


シエルは言った。


「必要な情報を持っていても。


 森の知恵が得られなくても。


 言いません。


 理屈じゃないんです」


長い沈黙。


森も黙っていた。


風もない。

葉も揺れない。


やがて。

ミサネの目から、危機感が消えた。


「正しい嘘です」


その瞬間。

閉じていた枝が、音もなく開いた。


道が現れる。


ミサネは言う。


「森人族は、嘘を好みません。


 けれど、仲間を守る嘘を罪とは呼びません。


 あなたは、知恵より仲間を選んだ。


 だから、森はあなたを認めます」


シエルは息を吐いた。


足元が少し震えていることに、そこで気付いた。


ミサネは奥を示す。


「進みなさい」


道の先には、光があった。


シエルは歩く。


一歩。


また一歩。


森の奥へ。


そこにあったのは、木ではなかった。

けれど、木に見えた。


巨大な樹。


幹は見えない。

根も見えない。

枝だけが、空へも地面へも広がっている。


その根本。

小さい泉があった。

水は澄んでいるのに底は見えない。


水面を見る。


魔術式。

記録。

噂。

感情。

名前。

使命。

運命の選択肢。

未来の可能性。


様々な情報が水の中で揺蕩っていた。

それは知識の泉だった。


ミサネの声が背後から届く。


「知恵は、ただでは得られません。


 泉を覗くなら、目を置いていきなさい」


目。


その言葉だけで、意味が分かった。


シエルは目に手を当てる。

怖くないわけではない。

見えなくなる。

そう理解していた。


けれど、ここまで来て戻れない。


戻りたくない。


「分かりました」


シエルは泉を覗き込んだ。


水面が揺れる。

視界がぼやける。


左目の視界だけが、白く抜けた。


痛みはなかった。

ただ、見えていたものが消えた。


その代わりに。

見えないはずのものが、流れ込んできた。


情報が見える。


魔力の流れ。

人の気配。

声の震え。

感情の分岐。


情報の洪水。


多い。

多すぎる。


シエルは息を呑んだ。


――警告。


――情報処理には暁のヴェールが必要です。


そして情報は勝手に正解を求めていく。


きっと正しい。

だからこそ、怖い。


自分が考えているのか。

知恵の泉が答えを出しているのか。


シエルは左目を押さえた。


情報の洪水が止まった。


見えない。

左だけが、ずっと白い。


ミサネが近づいてくる。


「世界樹の根本にある知恵の泉」


静かに言った。


「あなたは、その泉を覗きました」


シエルは顔を上げる。


右目でミサネを見る。

左目には、何も見えない。


「泉の力は使いすぎてはいけません」


ミサネは言った。


「知恵は、身体を置いていかせます。


 少しずつ感覚は薄くなっていき、


 最後には、考える機能だけが残るでしょう」


その言葉は、妙に重かった。


まるで、どこかにそんな未来があるみたいに。


シエルは左目から手を離す。


「それでも」


声は少し掠れていた。


「必要な時には使います。


 仲間を守るために」


ミサネは何も言わなかった。


森の音が戻ってくる。


葉の音。

土の匂い。

遠くの祭りの声。


全部が戻ってくる。


けれど、戻らないものもあった。


右目には、世界が見える。

左目には、何も見えない。


その白い闇の奥で、

泉の水面が静かに揺れていた。

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