第83話 沈まぬ宴《エーギル》
ユイガ視点――
祭り九日目。
十種族会議まで、あと三日。
ユイガは、会議場の周囲を歩いていた。
石畳。
出入口。
観客席へ続く階段。
代表席へ向かう通路。
裏手の細い道。
荷運び用の門。
警備が立つ位置。
一つずつ確認する。
地図で見た時とは違う。
実際に歩くと、道には癖がある。
広いのに、人が通りたがらない道。
狭いのに、声が集まる道。
見通しがいいのに、逃げ道にならない場所。
逃げ道に見えて、途中で詰まる場所。
ユイガは足を止めた。
会議場は、海ではない。
けれど。
どこか、港に似ていた。
人が来る。
人が待つ。
人が騒ぐ。
人が帰る。
流れがある。
“クル……”
耳の奥で、音がした。
ユイガは顔を上げる。
風の音ではない。
人の声でもない。
水音でもない。
けれど、意味だけが分かる。
来る。
繰る。
何かが、海の底で軋んでいる。
そんな気配だった。
「……」
十種族会議で審判が下される。
サクラ教団はどうなる。
声は、あちこちから流れてくる。
広い道ではなく、細い通りへ。
静かな広場ではなく、噂がよく聞こえる角へ。
人は便利な道ではなく、面白い声のある場所へ流れていた。
自然ではない。
そう思った。
けれど、まだ言葉にはできない。
「ユイガ様」
背後から声がした。
海人族の若い使いだった。
ユイガより少し年上。
祭りの警備補助をしている者だ。
「トール様がお呼びです」
「おじいちゃ、お祖父様が?」
「はい。至急に、と」
ユイガは頷いた。
会議場をもう一度見る。
石でできた大きな建物。
まだ静かだ。
けれど。
その静けさの下に、何かが溜まっている。
“サイヤク……”
また、音がした。
災厄。
何処で。
何が。
ユイガは答えを見つけられないまま、海人族の控え所へ向かった。
トール・ナギは、窓の外を見ていた。
そこから海は見えない。
見えるのは、祭りの屋根。
旗。
人混み。
遠くの会議場。
それでも、その部屋には潮の匂いがした。
実際に潮があるわけではない。
だが。
確かに海の匂いがする。
ユイガにとって祖父は、ずっと海に近い人だった。
「来たか」
「はい」
ユイガは姿勢を正した。
トールは振り返らない。
「会議場は見たか」
「見ました」
「どうだった」
「人が多すぎます」
「うむ」
「それだけではありません」
トールが少しだけ目を細める。
ユイガは続けた。
「広い道に人が流れていません。
噂が聞こえる場所へ人が集まっています。
会議場周辺の導線も、すでに偏っています」
「誰かが誘導していると思うか」
「はい」
迷わず答えた。
トールは、わずかに笑った。
「見えてきたな」
「まだ、全ては見えてはいません」
「見えていないと分かるなら、十分だ」
ユイガは黙る。
トールはゆっくり椅子に座った。
「まず、聞いておけ」
声が少し低くなる。
「十種族の長たちは、サクラ教団を信じているわけではない」
ユイガは顔を上げた。
「では、なぜ会議へ」
「呼ばない方が、潮が荒れるからだ」
短い答えだった。
「教団は、五戒に触れている」
トールは指を折る。
「己の姿を偽るな」
「他者の名を辱めるな」
「客を辱めるな」
「誓いを軽んずるな」
「死者を乱すな」
一つずつ。
重く落ちる。
「まだ確定ではない。だが、疑いは濃い」
「サクラ様の名を使っているから、ですか」
「それだけではない」
トールはユイガを見る。
「感情を無理に動かしている」
ユイガは息を止めた。
「人の心を開くと言えば、聞こえはいい。
だが、無理に開かせれば、それは辱めだ」
「……はい」
「サクラ教団にとっては居心地の悪い舞台になるだろう」
トールの声は淡々としていた。
「危険性の確認になるのだからな」
ユイガは胸の奥が重くなるのを感じた。
なら。
会議は最初から緊張している。
そこに民衆が来る。
教団が来る。
本物のサクラを名乗る者も来るかもしれない。
カノ達も近い席にいる。
混ざれば、荒れる。
「もう一つある」
トールは言った。
「本物のサクラと呼ばれている者を、援助している連中がいる」
「単独ではない、ということですか」
「場の作りが上手すぎる」
トールは窓の外を見る。
「人の集め方。退路。教団の信徒が近づきにくい隙間。どれも偶然ではない」
ユイガは昨日の報告を思い出す。
草で編んだ金色の髪。
木を削った長耳。
夏幻祭を知る少女。
そこに集まった民衆。
笑いながら流れた噂。
「翼人族の一派だろう」
トールは言った。
ユイガは一瞬、言葉を失う。
「ツヅリ様の?」
「翼人族の、だ」
トールは訂正した。
「同じではない」
「目的は?」
「ツヅリ・アマツの失脚」
空気が冷えた。
「ツヅリ様を」
「演じることは嘘ではない。あの者はそう言った」
「はい」
「その考えを嫌う者もいる」
トールは静かに言う。
「今回の件で、翼人族がサクラを動かしていたとなれば、責任は代表にも向く」
「ツヅリ様が関与していなくても、ですか」
「関与していないからこそ、責められる」
ユイガは唇を結んだ。
理不尽だと思う。
だが、政治とはそういうものなのだろう。
「情報はここまでだ」
トールは言った。
声が変わる。
「ここからは、ナギの話をする」
ユイガは背筋を伸ばした。
トールは首にかけていた紐を外した。
小さな石がついている。
青とも緑ともつかない色。
磨かれているのに、宝石のような派手さはない。
海の底で長い時間眠っていたような石。
凪石。
ユイガは、それを知っている。
ナギ家に伝わる守り石。
航海に出る者が、無事を祈って触れる石。
子どもの頃、遠くから見たことがある。
けれど、触れたことはなかった。
「これは、ただの守り石ではない」
トールは言った。
「ヤマナギを抱く海の石だ」
ユイガは石を見つめる。
“ナギ……”
また、音がした。
今度は近い。
石の奥から聞こえた気がした。
「この島に来る客は、みな海を渡る」
トールは続ける。
「祭りも、会議も、商いも、祈りも。
全部、海の上で行われている。
だから、ヤマナギの地が沈む時。
先に沈むのは海だ」
ユイガは言葉を返せない。
トールは凪石を差し出した。
「ユイガ」
「はい」
「今日から、お前はこの海の守り手だ」
ユイガは息を止めた。
「族長ではなく、ですか」
「族長より古い役目だ」
トールは言う。
「ヤマナギを沈めない者」
凪石が、ユイガの手の上に置かれた。
冷たい。
海の底のように。
朝の凪のように。
重い。
石の重さではない。
役目の重さだった。
「お祖父様」
「私は、長を降りることになるだろう」
ユイガは顔を上げる。
「なぜですか!?」
トールは静かに答えた。
「この騒ぎが終われば、私は舞台から降りる」
舞台。
その言葉が妙に響いた。
「潮が変わった」
トールは窓の外を見る。
「海が、私を呼んでいる」
“カエル……”
音がした。
帰る。
還る。
海へ。
ユイガは凪石を握る。
「では、次の長は」
「しばらくはカイリが継ぐ」
叔父の名だった。
「お前ではない」
「……はい」
「お前はまだ学べ」
トールは言った。
「学び、考え、迷い続けるんだ。
それから戻ってこい。
海は逃げない」
ユイガは返事をしようとした。
けれど、声がすぐには出なかった。
トールは続ける。
「何かあれば、族長もお前に託す」
「族長を、私に」
「私を守れという意味ではない」
トールの目が、まっすぐユイガを見る。
「このヤマナギの宴を沈める潮が出たら」
「その時は、私ごと流れを変えろ」
ユイガの指が、凪石に食い込む。
「そんなことは」
「ある」
トールは断言した。
「今回の敵は、心の潮を触る。
私が無事である保証はない。
十種族の長も同じだ」
ユイガは何も言えない。
祖父を止める。
海人族の長を止める。
そんなことを、自分が。
「できるか?」
トールが聞いた。
ユイガは答えなかった。
できるとは言えない。
できませんとも言えない。
沈黙の中で、凪石だけが冷たい。
“マモル……”
守る。
誰を。
“カエス……”
帰す。
どこへ。
“シズメナイ……”
沈めない。
何を。
ユイガはゆっくり息を吸った。
「分かりません」
正直に言った。
「今の私には、まだ分かりません」
トールは頷いた。
「それでいい」
「ですが」
ユイガは凪石を見る。
「沈めないために、できることをします」
トールの口元が、少しだけ緩んだ。
「海人の守りは、勝つことじゃない」
低い声だった。
「帰すことだ。無事にな」
その言葉が、ユイガの胸に残った。
控え所を出た時、街の声が大きくなっていた。
本物のサクラ様がまた出たらしい。
そんな噂が走っていた。
「こっちだって!」
「会議場の近くで見られるらしいぞ!」
「金髪の方か?」
「教団のサクラ様も来るんだろ?」
人が流れる。
細い通りへ。
会議場へ続く横道へ。
屋台の間へ。
広い道は近くにある。
けれど、誰もそちらへ行かない。
声が流れる方へ、人が流れている。
ユイガは足を止めた。
子どもが押される。
老人がよろめく。
屋台の布が引っかかる。
荷車が斜めに止まり、道の半分を塞ぐ。
まだ事故ではない。
けれど、このままだと詰まる。
ユイガは凪石を握った。
石が冷えた。
一瞬、街の音が遠くなる。
人の顔が薄れる。
見えたのは、流れだった。
足の向き。
肩の角度。
声の高さ。
視線の先。
笑いの震え。
息の詰まり。
それらが、波になっていた。
押し波。
前へ行きたい人の波。
白波。
面白い。
見たい。
知りたい。
正しさに見える熱。
底波。
分からないまま流されている不安。
“ナミ……”
海の声が言う。
“ミル……”
見る。
“ワル……”
割る。
ユイガは息を吸った。
流れを止めてはいけない。
そう思った。
止めれば、詰まる。
押し返せば、別の場所が崩れる。
なら、帰す。
流れたい先を、変える。
ユイガは近くの屋台の主に声をかけた。
「その布を外してください。すぐに」
「え?」
「人が詰まります。今」
ナギ家の紋を見て、屋台の主が慌てて布を外す。
視界が開く。
その向こうに、広い道が見えた。
ユイガは会議場の警備補助に合図を送る。
「横道を閉じないでください。
半分だけ開けて、広場側へ流してください」
「ですが、人が」
「全部通すと詰まります。半分です」
声を張る。
けれど怒鳴らない。
怒鳴れば、波が荒れる。
「こちらは会議場入口ではありません」
ユイガは通りの前に立った。
「観客受付は広場側です。こちらは荷運び口です」
嘘ではない。
ただ、言い方を選ぶ。
「広場側から進んでください。そちらの方が早く見られます」
見られる。
その言葉に、人の視線が動いた。
凪石が冷たい。
その冷たさの奥に、小さな灯りが揺れた気がした。
炎ではない。
宝でもない。
海辺で、帰る船を待つ灯り。
ユイガには、それが見えた。
通りの奥。
広場へ抜ける方角。
そこに、細い光がある。
人々には見えていないはずだった。
それでも。
足の向きが変わる。
一人。
二人。
五人。
流れが割れた。
押し波が弱まる。
子どもが倒れる前に、母親の手が届く。
老人が壁際へ逃げる。
荷車が動き、道が開く。
ユイガは息を吐いた。
流れは止まっていない。
けれど、淀まなかった。
「ユイガ」
声がした。
振り返ると、少し離れた場所にトールがいた。
いつから見ていたのかは分からない。
トールは短く言った。
「まだ荒い」
「はい」
「灯りが弱い」
「……見ていたのですか」
「どうだろうな」
トールは曖昧に答える。
「だが、潮は変わった」
ユイガは凪石を見る。
まだ冷たい。
けれど、先ほどよりも少しだけ馴染んでいる。
「きちんと帰せたのでしょうか」
ユイガは言った。
トールは頷いた。
「今はこれでいい」
祭りの声は、まだ続いている。
噂も止まらない。
人も止まらない。
面白がる熱も、消えない。
それでも。
子どもは倒れなかった。
老人は押されなかった。
道は淀まずに流れた。
ユイガは初めて、凪石を握り直した。
守るとは、止めることではない。
帰すこと。
沈めないこと。
その意味が、少しだけ分かった気がした。
石は静かだった。
けれど、ユイガの耳の奥では、まだ海の声がしている。
“ミライ……”
“ツナガル……”
“カエス……”
“シズメナイ……”
言葉にはなっていない。
それでも、意味だけが残る。
会議場は、海ではない。
けれど、潮がある。
宴がある。
客がいる。
そして。
この宴は絶対に沈めてはいけない。
ユイガは凪石に触れた。
冷たい。
海の底のように。
朝の凪のように。
その冷たさの奥で、
小さな灯りが揺れていた。




