第82話 献身の毒盃《シギュン》
フィオナ視点――
街の熱は、少しも下がっていない。
本物のサクラ様。
偽物のサクラ様。
十種族会議で、どちらが本物か見極める。
そんな言葉ばかりが、街の中を走っていた。
どちらかが本物なら面白い。
どちらも偽物ならさらに面白い。
誰も正解なんて求めていなかった。
ただ娯楽として。
一時の話題として。
人々は盛り上がっていた。
フィオナは窓の外を見る。
屋台の旗。
走る子ども。
声を張る商人。
噂を笑う大人たち。
その全部が、遠く見えた。
――七日目の朝。
リオンは朝から出ていった。
戻ってきた時には、いつもの軽口を言っていた。
けれど。
目の奥だけが、少し暗かった。
――同じ日。
レインも竜人族の拠点へ向かった。
戻ってきた時。
銀髪に、黒色が混じっていた。
汚れではない。
洗えば落ちるものでもない。
詳しいことは、レインはあまり話さなかった。
――八日目。
皆が別々に動いていた。
カノは教団とサクラの噂を追っていた。
シエルは資料を整理していた。
ユイガは会議場と人の流れを確認していた。
レインはまた竜人族の拠点へ行った。
リオンは時計を抱えたまま、誰とも話さなくなった。
フィオナは、今日も妖精契約の記録を探していた。
種族間契約。
古い誓約。
商業契約。
血盟。
それらは残っている。
なのに。
妖精契約だけがない。
抜けている。
消えている。
あるべき場所に、空白だけが残っている。
フィオナは、その空白を見ていた。
残っていないのではない。
残らないのかもしれない。
そう思った時、肩の近くで契約妖精が揺れた。
フィオナは視線だけを向ける。
契約妖精は答えない。
ただ、少し不安そうにフィオナを見ていた。
その顔が分かる。
前なら、分からなかった。
光っている。
飛んでいる。
笑っている。
それくらいだった。
今は違う。
困っている。
怯えている。
何かを伝えようとしている。
分かってしまう。
「……変な顔をしないで」
契約妖精は、もっと変な顔をした。
フィオナは小さく息を吐く。
図書館には、もう手掛かりがない。
そして現在。
祭り九日目。
十種族会議まで、あと三日だった。
他の仲間は少しずつ変わっていった。
私だけがずっと足踏みをしている感覚。
焦りと不安に押し潰されそうだった。
その日は、古書商の並ぶ通りへ向かった。
祭りのために集まった露店の中には、普通なら街に出回らないような本もあった。
魔術書。
旅日記。
種族史。
詩集。
誰かの家から流れてきたような古い冊子。
その中に、一冊だけ白い本があった。
題名はない。
装飾もない。
値札すらない。
ただ、白い。
汚れてもいない。
新しくもない。
古いのに、古びていない。
フィオナが手を伸ばす前に、
契約妖精が小さく震えた。
フィオナは指を止める。
「知っているの?」
契約妖精は首を横に振った。
分からない。
けれど、知っている。
そんな顔だった。
フィオナは本を手に取った。
軽い。
本とは思えないくらい軽かった。
乾いた花びらを束ねたような重さ。
店主に尋ねようとした。
けれど、店主は別の客と話していて、こちらを見てもいなかった。
フィオナは本を開く。
文字はなかった。
白いページ。
白い余白。
白い紙。
何もない。
そう思った瞬間。
景色が流れ込んできた。
情景が。
人々が。
流れ込んでくる。
――
あるところに、災いを連れてくる男がいた。
男は神ではなかった。
人でもなかった。
獣でもなかった。
けれど、神々の宴に座っていた。
終わりなく続く談笑。
交わされる杯。
高らかに響く歌。
聖なる誓い。
飾られた言葉の数々。
神々は誰もが美しい顔をしていた。
神々は誰もが綺麗な言葉を使っていた。
男だけが、それを笑った。
「お前の言葉は全て嘘だ」
男は言った。
一人の神が黙る。
「お前は勇敢ではない」
別の神が顔を歪める。
「お前は正しくない」
杯が止まる。
「お前は誰かを愛しているふりをしている」
歌が止まる。
「お前は裁く側にいるつもりで、ただ怖がっているだけだ」
誰も反論しなかった。
反論できなかった。
男の言葉は、美しくなかった。
綺麗でもなかった。
だが嘘ではなかった。
ただ、当たっていた。
だから嫌われた。
宴の灯りが冷えていく。
神々の顔から笑みが消える。
災いだ、と誰かが言った。
男は笑った。
自分が持ち込んだわけではない。
最初からそこにあったものを、ただ指で示しただけだった。
けれど。
示した者が、災いになる。
フィオナは、息を止めていた。
似ている。
姿ではない。
言葉でもない。
嫌われ方が、似ていた。
皆が隠しているものを指して。
嫌な顔をされて。
騒動の中心にされて。
いつの間にか、その名で呼ばれる。
カノに似ていた。
男は姿を変えた。
魚になった。
鳥になった。
女になった。
老人になった。
火になった。
影になった。
名も変えた。
顔も変えた。
声も変えた。
それでも逃げられなかった。
一度つけられた災いの名は、皮膚より深く張り付く。
神々は男を捕らえた。
石の上に寝かせた。
動けないように縛った。
その鎖は鉄ではなかった。
血だった。
家族だった。
罪だった。
名前だった。
男は笑わなかった。
頭上に、蛇が置かれた。
蛇の牙から、毒が落ちる。
一滴。
男の顔が歪む。
一滴。
大地が震える。
一滴。
神々はそれを罰と呼んだ。
正義と呼んだ。
秩序と呼んだ。
当然の報いと呼んだ。
男は何も言わなかった。
毒は、ただの毒ではなかった。
憎悪だった。
責任だった。
お前のせいだという声だった。
お前が始めたのだという糾弾だった。
お前が悪いのだという祈りだった。
それが、男へ落ち続ける。
その側に、女がいた。
女は杯を持っていた。
男を許すためではない。
男を救うためでもない。
男の罪を消すためでもない。
ただ、落ちる毒を受けた。
一滴。
杯に落ちる。
一滴。
女の手が震える。
一滴。
女の指が白くなる。
毒は消えない。
浄化されない。
美しいものにもならない。
ただ、溜まる。
杯は満ちる。
満ちれば、女はそれを捨てに行かなければならない。
その間だけ、毒は男へ落ちる。
男が震える。
大地が揺れる。
世界がその痛みを知る。
女は戻る。
また杯を掲げる。
何度も。
何度も。
誰も褒めなかった。
誰も止めなかった。
誰も代わらなかった。
女は、ただ側にいた。
――
フィオナは、契約妖精を見た。
契約妖精も、フィオナを見ていた。
小さな身体。
薄い羽。
いつも側にいた光。
私の寂しさを、受けていた。
フィオナはようやく分かった。
寂しさを消していたのではない。
なかったことにしていたのでもない。
受け止めていた。
ずっと。
母がいなくなった時。
父と上手く話せなかった時。
屋敷の中で、誰にも言えなかった時。
友達がいないことを、認めたくなかった時。
この子は側にいた。
話を聞いていた。
笑っていた。
何もできない顔で、そこにいた。
何もしていないのではない。
受けていた。
フィオナの孤独を。
怒りを。
みじめさを。
言えなかった言葉を。
杯のように。
妖精契約は、友達になる契約ではない。
妖精になる契約。
ルルフェの声が、胸の奥に残っていた。
なら。
今度は、私が受ける番なのだ。
フィオナは、白いページを見下ろした。
まだ文字はない。
けれど、物語は続いている。
災いの男。
毒を受ける女。
満ちる杯。
こぼれる瞬間。
それでも戻ってくる足音。
終わりのない献身。
綺麗な言葉だった。
けれど、綺麗なものではなかった。
逃げられない。
終わらない。
報われない。
それでも側にいると決めた者の形だった。
「昔は、貴女が受け止めてくれたのね」
声は小さかった。
契約妖精は笑う。
「だから」
フィオナは指先でページに触れた。
「今度は、私の番」
契約妖精が何かを言った。
声は、肩の近くからではなかった。
耳元でもない。
胸の奥から聞こえた。
フィオナは息を呑む。
契約妖精を見る。
そこにいた。
まだ、いた。
けれど輪郭が薄い。
光がほどける。
羽が透ける。
身体が、花の影のように揺れる。
「消えるの?」
契約妖精は首を横に振った。
違うよ、フィオナ。
その声は、胸の奥で聞こえた。
フィオナは理解した。
消えたのではない。
近すぎて、見えなくなり始めている。
一滴。
本の中で、毒が杯に落ちた。
同時に。
フィオナの胸の奥でも、何かが落ちた。
今まで妖精が受け止めていた寂しさ。
それがフィオナに落ちる。
胸が焼ける。
喉に苦い味が残る。
指先が冷える。
契約妖精が震えた。
いや。
震えたのは、私だったのかもしれない。
フィオナは胸元を押さえた。
器などない。
けれど。
黒い一滴だけが、そこに残っている。
痛い。
思ったより、ずっと痛い。
消えない。
薄れない。
流れていかない。
受け止めるということは、消すことではない。
抱え込むことだ。
フィオナは奥歯を噛んだ。
物語の中で、女は杯を掲げ続けていた。
男は災いだった。
けれど。
災いの側には、杯があった。
毒を消さない杯。
罪を許さない杯。
痛みをなかったことにしない杯。
ただ、こぼさない杯。
最後の毒が、杯へ落ちた。
その瞬間。
本から、物語が消えた。
白いページ。
最初から何も書かれていなかったみたいに。
フィオナは、ページをめくる。
白い。
次も白い。
その次も白い。
何も残っていない。
残らない。
そういうものなのだ。
妖精契約も。
契約者も。
寓話になった者も。
語られなければ、残らない。
覚えられなければ、消えていく。
フィオナは本を閉じた。
契約妖精は、もう肩にはいなかった。
フィオナは周囲を見る。
いない。
古書商の棚の間にも。
自分の肩の近くにも。
手の届く空中にも。
いない。
けれど。
胸の奥で、小さな羽音がした。
「……そこにいるのね」
返事はなかった。
ただ、羽音だけがある。
フィオナは自分の髪に触れた。
指先に、細い髪が絡む。
白金色の髪。
そのはずだった。
けれど、毛先へ向かって淡く色が変わっている。
白金。
薄金。
蜂蜜のような、冷たい金。
陽光ではない。
炎でもない。
花の奥に残る蜜の色だった。
指先に、色は付かない。
けれど。
もう戻らない変化があることだけは分かった。
フィオナは目を伏せる。
怖くないわけではない。
契約妖精が外にいない。
髪の色が変わった。
胸の奥に黒い一滴がある。
その全部が、怖い。
けれど。
逃げたいとは思わなかった。
昔は、あの子が受けてくれた。
なら。
今度は、自分が受ける。
それだけだった。
フィオナは白くなった本を戻し、古書商の棚から離れた。
一歩。
本の輪郭が、ほどけた。
二歩。
白い表紙が、花びらのように崩れる。
三歩。
光の粉が、棚から落ちる。
まばたきの後には、もう何も残っていなかった。
ルルフェの足元に咲いた花と同じ消え方だった。
あった。
確かにあった。
けれど、残らない。
フィオナは空になった棚を見る。
胸の奥には、黒い一滴がある。
契約妖精は、もう側にはいない。
けれど、消えてはいない。
フィオナは毛先に触れた。
白金から、淡い金へ。
戻らない色。
「大丈夫よ」
誰に向けた言葉かは分からなかった。
自分へ。
胸の奥の妖精へ。
それとも、まだ何も知らないカノへ。
ただ。
覚悟だけは残っていた。




