第80話 失敗作の時計《ノルン》
リオン視点――
朝。
リオンは、宿を出ようとしていた。
工具袋。
小さな鞄。
いつもの軽い足音。
そして、張り詰めたような顔。
「どこ行くの」
背後から声がした。
カノだった。
リオンは振り返る。
「過去と向き合いに」
「なにそれ」
本気で不思議そうなカノの顔。
それを見てリオンは少し笑った。
「ちょっと会ってくる」
カノの眉が動く。
「……家族?」
「ああ。家の面倒くさい連中」
カノの表情が変わる。
クロックの噂のことを思い出したみたいだった。
「すぐ帰ってくるよ」
リオンは軽く手を振った。
「うん」
カノは止めなかった。
「リオン」
「ん?」
「ちゃんと帰ってきて」
リオンは一瞬だけ黙った。
それから、笑った。
「帰るよ。まだ朝ご飯食べてないし」
そう言って、宿を出た。
扉が閉まる。
その瞬間。
リオンの笑みは消えた。
クロック家の別荘は、祭りの中心から少し離れた場所にあった。
派手ではない。
大きくもない。
ただ、静かだった。
門の上には、古い時計盤がある。
針は動いていない。
中に入ると、音がした。
かちり。
かちり。
かちり。
歯車の音。
振り子の音。
針が進む音。
どこから聞こえているのか分からない。
屋敷全体が、時間を刻んでいるみたいだった。
リオンは立ち止まらない。
表情は暗い。
声もない。
足取りだけが、まっすぐだった。
使用人が一人、廊下の奥で頭を下げる。
「若様、お戻りですか」
「いや」
リオンは淡々と言った。
「用があるだけ」
使用人は顔を上げない。
「先代がお待ちです」
「だろうね」
世界の異変に敏感なクロック家。
きっとこの先、何があるかも感づいている。
リオンは歩く。
案内はいらなかった。
道は覚えている。
忘れたくても、覚えている。
部屋の奥に、老人が座っていた。
小さな身体。
白い髪。
深い皺。
けれど、その目だけは古びていない。
机の上には、閉じられた古い時計箱があった。
リオンは膝をつかなかった。
頭も下げなかった。
ただ、立ったまま言った。
「先代」
老人はリオンを見る。
「来ると思っていた。小さき魔術時計」
お互いに名前は呼ばなかった。
世界のために名前を捨てた老人。
自分のために家を捨てた少年。
その道が再び交差することはないと思っていた。
部屋が静かになる。
かちり。
どこかで針が進んだ。
「戻る気になったか」
「いや」
「では、何をしに来た」
「世界時計を借りに来た」
世界時計。
ウルド――過去
ヴェルダンディ――現在
スクルド――未来
正規の時計は、この世に三種だけ存在する。
老人の目が細くなる。
「虫のいい話だ」
「分かってる」
リオンは言った。
声に軽さはなかった。
「家を出た。時計からも逃げた。継承からも逃げた」
一つずつ並べる。
言い訳ではない。
確認だった。
老人は黙っていた。
「それで今さら戻って、力だけ貸せと言ってる」
リオンは拳を握った。
身勝手だとは思っていた。
けれど、他に手は思い付かなかった。
「それを分かっていて来たか」
「うん」
老人は小さく息を吐いた。
「スクルドは貸せん」
「……やっぱり」
「知っていて来たのか」
「他に手がないと思った」
「スクルドは、お前の父が持つ」
老人は言った。
「継承した時点で、父ではなくなった。
名を失い、世界時計の部品となった」
リオンは何も言わない。
「ウルドの時計はお前の叔父が持つ。
ヴェルダンディの時計はお前の兄が持つ。
スクルドの時計はお前の父が持つ」
老人は机の上に手を置く。
「家を捨てたお前には渡せる時計などない」
リオンは思わず天を見上げた。
襲ってきたのは無力感と後悔だった。
沈黙。
かちり。
かちり。
時計の音だけが続く。
「奇跡の小人族、小さき魔術時計」
老人が言った。
「昔は、皆がそう呼んだ」
「そうだね」
「クロック家の神童」
「そうだね」
「お前は、最年少で新たな世界時計を作ろうとした。
そしてノルンの時計を作った」
リオンは目を伏せた。
「だが。何も起きなかった」
老人は続ける。
「針は動かない。
過去も変わらない。
現在も変わらない。
未来も変わらない」
「失敗作だったよ」
リオンが言った。
淡々としていた。
「お前の評価は落ちた」
「そうだね」
「見返そうとして、別のものを作った」
お兄ちゃん――
記憶がよぎり、リオンは頭に手をやる。
ゴーグルが揺れた。
「それも失敗して、お前は妹を失った」
「……そう」
「それから、お前は時計に触れなくなった」
リオンは短く息を吐いた。
笑わない。
「……そうだね」
過去は、そこに置かれたままだった。
触れば鳴る。
鳴れば戻れなくなる。
そういうものだった。
老人は、古い時計箱を開けた。
中にあったのは、小さな時計だった。
黒い文字盤。
細い針。
割れた硝子。
『並行世界の世界時計』
リオンの指がわずかに動いた。
「……捨てたはずだけど」
「確かにお前は捨てた」
老人は箱を見た。
「だが。保管しておいた」
古びている。
古びているのに。
針が、動いていた。
かちり。
リオンの目が、わずかに開く。
かちり。
「……動いてる」
声が落ちた。
老人は頷いた。
「最近だ」
「いつから」
「正確には分からん」
老人は時計を見下ろした。
「ただ、記録上は、異邦の女がある村に現れた頃からだ」
リオンは何も言えなかった。
異邦の女。
カノ。
鷹乃つめ。
なんとなく、そんな気がした。
「お前の時計は、失敗していたわけではない」
老人が言った。
「早すぎただけだ」
その言葉が、部屋に落ちる。
リオンは時計を見ていた。
昔、何度も見た。
何度も直した。
何度も魔力を通した。
何度も祈った。
動け。
動け。
動け。
何も起きなかった。
何も。
だから捨てた。
自分の評価ごと。
自分の自信ごと。
時計に関わる未来ごと。
捨てたつもりだった。
「……」
リオンが聞く。
「なんで今更動いてるんだ?」
「世界に分岐が生まれた」
老人は答えた。
「この世界の結末を、一つに決めずに見ているものがいる」
「……観測者?」
「そうだ」
リスティアで学んだ観測論。
それが今、生きていた。
老人はリオンを見る。
「ノルンの時計は、観測がなければ動かない」
「今は、観測されている?」
「……そうだな。
今も、観られているのかもしれない」
針が進む。
かちり。
「その時計は、分岐した未来を観測する」
老人は言った。
「観測した未来を、少しだけ現在に下ろす」
リオンが続ける。
「起きなかった未来を、少しだけ使う?」
「便利な言い方をする」
「そう、かも」
声に少しだけ昔の色が混じった。
すぐに消えた。
老人は言う。
「使えば、お前は観測者になる」
リオンは黙って聞いていた。
「観測者になった者は、観測される側には戻れない」
針が鳴る。
「分岐を見る代わりに、自分の未来は分岐しなくなる」
「……未来」
「仲間に少し先の力を渡せる。だが、お前自身の未来は固定される」
未来が固定される。
世界を何度も変えてきたクロック家。
それに連なる者としてはとても重い代償に聞こえた。
「未来を失うぞ」
「……うん」
返事は、少しだけ低かった。
老人はリオンを見る。
「なぜそこまでして使う」
沈黙。
リオンは、ようやく少しだけ顔を上げた。
「前に出る奴らがいる」
「誰だ」
「俺の仲間」
顔を思い浮かべる。
軽くない声で。
「たぶん全員、勝手に前に出る」
老人は黙っている。
「誰かが、後ろで見てないといけない」
リオンの手が、軽く握られた。
「後ろから、みんなを支える」
「それがお前の役目か」
「うん」
即答だった。
「俺は、舞台に立つ人間じゃない」
そこで初めて、リオンは小さく笑った。
暗い笑いだった。
「俺の舞台はもう……」
老人は目を閉じた。
長い沈黙が落ちる。
かちり。
かちり。
時計の音だけが続く。
やがて、老人は小さな時計をリオンの前へ押し出した。
「返そう」
それだけだった。
リオンは、時計を手に取った。
冷たかった。
けれど確かに、針は進んでいる。
かちり。
かちり。
まるで、ずっと待っていたみたいに。
「制限は」
リオンが聞く。
「使えるのは短時間になるだろう。
対象はお前が強く観測した人間だけ」
老人は答える。
「死者は戻せない」
「わかった」
「壊れたものは戻らない」
「わかった」
「見えた未来が正しいとは限らない」
「……わかった」
「それでも使うか」
リオンは時計を握った。
「使う」
老人は、ほんの少しだけ眉を下げた。
それは、怒りにも見えた。
諦めにも見えた。
「リオン・クロック」
老人が初めて名を呼んだ。
リオンは時計を鞄にしまう。
「……」
「戻ってくるつもりはないか」
「戻れる未来があればね」
軽い言葉だった。
けれど。
笑ってはいなかった。
屋敷を出る頃には、昼近くになっていた。
祭りの音が遠くから聞こえる。
明るい音。
軽い声。
馬鹿みたいな笑い声。
リオンは門の前で立ち止まった。
鞄の中には、かつての失敗作がある。
ノルンの時計。
並行世界を刻む時計。
動かなかった時計。
自分がクロックから離れるきっかけになった時計。
その針が、今は動いている。
カノ。
フィオナ。
シエル。
レイン。
ユイガ。
前に出る者たち。
そして、
いまだ戻らないカガリ。
自分は、しっかりと観測する。
観客席から。
全体を。
分岐を。
まだ起きていない未来を。
リオンは鞄の上から時計に触れた。
未来が閉じる音はしなかった。
ただ、今まで聞こえなかった時計の音が、少し近くなった。
かちり。
かちり。
かちり。
リオンは空を見上げる。
「今度こそ」
誰にも聞こえない声で言う。
「針を進める」




