第66話 ユイガ・ナギ
船旅十一日目。
海だった。
朝も。
昼も。
夕方も。
海だった。
最初の数日は楽しかった。
朝日を見た。
夕日を見た。
飛び魚を見た。
海鳥を見た。
でも。
もう見た!!
甲板。
つめは手すりに顎を乗せていた。
「あきた」
風が吹く。
「ずっと言ってるな」
リオンが笑う。
「海しかない」
「そりゃ船旅だからな」
つめは遠くを見る。
海だった。
やっぱり海だった。
「陸まだ?」
「子供か」
リオンが呆れる。
フィオナは本を閉じた。
「あと数日でしょ」
「長い」
「二週間の船旅だもの」
「長い」
同じ事を二回言った。
本気だった。
リオンはそんなつめを見ながら笑う。
そして。
空気を変えるためか。
はたまた空気を読んでいないだけか。
リオンは懲りずに言った。
「それにしても二十六かぁ」
つめの眉が動く。
フィオナが目を閉じた。
嫌な予感がした。
「まだ言うの?」
「だって気になるだろ」
「気にならないわ」
つめの纏う温度が上がっている事に気付かずリオンは続ける。
「二十六歳ってどんな気分なんだ?」
「普通」
「腰痛い?」
「殴るよ」
即答だった。
リオンは笑う。
「いやでもさ」
まだ続ける。
「俺らが十歳の時って」
つめがゆっくり振り返った。
「やめろ」
「え?」
「やめろ」
リオンは止まらない。
「その頃何して――」
椅子が鳴った。
つめが立ち上がる。
静かだった。
妙に静かだった。
「リオン」
「はい」
「頭冷やしてきな」
つめは海を指差した。
本気だった。
リオンが逃げる。
「待て待て待て!」
つめが追う。
甲板を走る。
船員達が笑う。
客達も笑う。
フィオナは額を押さえた。
シエルは資料を読んでいる。
レインは海を見ている。
そして。
十分後。
本当に投げられた。
「うわあああああ!!」
派手な水音。
海面に白い飛沫が上がる。
甲板が静まる。
船員達も少し引いていた。
「本当にやった……」
フィオナが呟く。
つめは手すりから海を覗き込んだ。
リオンは浮いていた。
死んではいない。
ただ。
めちゃくちゃ慌てていた。
「おい!助けろ!」
必死だった。
その時。
海面が盛り上がった。
ざばぁっ。
大きな水音。
リオンの横から誰かが飛び出した。
青い髪。
若い女性。
海の中から現れたその人物は、慌てる様子もなくリオンの襟首を掴む。
そして。
当然のように泳ぎ始めた。
全員が固まった。
数分後。
その女性はリオンを引きずりながら船へ上がってきた。
髪から水が滴る。
服もびしょ濡れ。
なのに。
本人は平然としていた。
「はい」
女性は言った。
「回収しました」
沈黙。
リオンが床に転がる。
「し、死ぬかと思った……」
女性は首を傾げた。
「泳げませんでした?」
本気で不思議そうだった
「泳げるけど急だったんだよ!」
「なるほど」
納得したらしい。
つめは女性を見る。
「誰?」
女性は深々と頭を下げた。
「失礼しました。ユイガ・ナギです。
ヤマナギから迎えに来ました」
リオンが顔を上げる。
「泳いで?」
「泳いで」
即答だった。
フィオナが頭を抱えた。
「海人族?」
「はい」
ユイガは頷いた。
「船を待つより泳いだ方が早かったので」
当然のように言った。
つめ達は誰も理解できなかった。
昼。
船内食堂。
着替えを済ませたユイガが向かいへ座る。
海色の髪。
年齢はつめ達と同じくらい。
どこか真面目そうな顔立ちだった。
「改めまして」
ユイガは頭を下げる。
「トール・ナギの孫です」
シエルが反応する。
海人族代表。
十種族会議、重要人物の一人。
資料で見た名前だった。
ユイガは少し安心したようだった。
「良かった」
「何が?」
リオンが聞く。
ユイガはシエルを見る。
「王立リスティア魔導学園の方々ですよね」
シエルが頷く。
ユイガも頷いた。
「学園との交流はヤマナギにとっても大切なんです」
窓の外。
海が流れていく。
「魔法研究。教育。人材交流。
どれも大陸最高峰ですから」
ユイガは少し笑った。
「ヤマナギの若者が交流する機会はそう多くありません。
だから毎年楽しみにしている人も多いんです」
シエルは少しだけ姿勢を正した。
学園代表として来ている。
改めてそう実感したらしい。
だが。
そこでユイガの表情が曇った。
フィオナが気付く。
「何かあるの?」
ユイガは少し迷った。
そして。
窓の外を見る。
「今年」
静かな声だった。
「参加者が多いんです」
「祭りだからじゃね?」
リオンが言う。
ユイガは首を振った。
「もちろんそれもあります。
ただ」
少し言葉を探す。
「多すぎるんです」
商人。
観光客。
冒険者。
巡礼者。
学生。
例年より遥かに多い。
「ヤマナギは」
ユイガは続ける。
「来る者は拒まず。
去る者は追わず。
そういう国です」
風が窓を鳴らした。
「だから誰が来ても構いません。
しかし」
そこで言葉が止まる。
レインが初めて視線を向けた。
「何かあるの?」
ユイガは海を見る。
ずっと。
海を見る。
そして。
小さく呟いた。
「海が騒がしいんです」
沈黙。
「嵐の前みたいに」
窓の向こう。
海は穏やかだった。
青い。
静かだ。
どこにも異常はない。
「晴れてるぞ」
リオンは不思議がる。
それでも。
ユイガは首を振った。
「海だけが知ってる時があるんです」
つめは黙っていた。
胸の奥が小さくざわつく。
理由は分からない。
でも。
少しだけ嫌な予感がした。
夕方。
甲板。
水平線の向こう。
島影が見えた。
ヤマナギ。
十種族の国。
千種族大祭の開催地。
ユイガはその島を見つめる。
そして。
誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
「何も起きないと良いんですけど」
風が吹いた。
島は少しずつ大きくなっていく。
ヤマナギはもう目の前だった。




