第64話 船旅
出港の日。
港は騒がしかった。
潮の匂い。
荷車の軋む音。
商人達の怒鳴り声。
空には海鳥が飛び回っている。
巨大な船が桟橋へ横付けされていた。
人がいる。
物がある。
声がある。
旅が始まる匂いがした。
でも。
つめだけは死んだ目をしていた。
「帰りたい」
リオンが振り返る。
「まだ出港してねぇぞ」
「もう酔った」
「早すぎる」
「船見たら酔った」
「嫌いすぎるだろ!?」
フィオナが呆れたように息を吐く。
風が髪を揺らした。
「二週間よ」
「無理」
つめは首を締めるジェスチャーをした。
「まだ一歩も乗ってないわ」
「精神がもう無理」
シエルは資料から目を離さない。
「なら降りますか」
つめは少し考えた。
本当に少しだけ。
「……いや」
「行くんですね」
「このままにはしておけないから」
はっきり言った。
「カノらしいね」
レインが笑っている。
珍しい。
つめはそんな顔をみて、
少しだけ複雑な気持ちになった。
船員達の声が響く。
縄が外される。
船がゆっくりと岸を離れた。
未知の島国へと旅が始まった。
三時間後。
つめは死んでいた。
甲板の端。
手すりへ突っ伏している。
顔色は真っ白だった。
波が船腹を叩く。
一定の揺れ。
一定の音。
その全てが。
つめの三半規管を破壊していた。
「うぅ……」
リオンが笑う。
「本当に駄目じゃねぇか」
「世界が揺れてる」
「当たり前だ」
この世の終わりみたいな顔をした。
つめは小声でいう。
「……ここで守らないと倒れるよ」
一瞬出てきた黒い靄は、
面白がるように霧散した。
「……だめか」
フィオナが水を差し出した。
「飲みなさい」
「ありがとう」
「弱すぎるのよ」
フィオナは嘆息した。
「陸では強い、ちょっとだけ」
「茶化せる元気があるようで良かったわ」
その後ろで。
レインは手すりにもたれたまま海を見ている。
青かった。
どこまでも青かった。
空と海の境界が曖昧だった。
レインは一度だけこちらを見る。
そして。
また海へ視線を戻した。
昼。
船内食堂。
焼き魚の匂いが漂っていた。
スープが湯気を立てる。
客達の笑い声。
食器の音。
賑やかな空間だった。
そして。
つめは復活していた。
「なんで元気なんだよ」
リオンが引いた。
つめは無言でもりもり魚を食べていた。
さっきまで死にそうだった人間とは思えない。
リオンはしばらく見ていた。
そして。
「お前すげぇな」
とだけ言った。
フィオナが呆れた顔をする。
「図太いのか弱いのか分からないわね」
シエルは資料を読みながら食事していた。
無駄に器用だった。
つめが覗き込む。
「何読んでるの」
「ヤマナギの資料です」
資料を指差す。
十種族、と書いてあった。
「真面目」
「仕事ですから」
ページがめくられる。
地図。
歴史。
種族構成。
会合資料。
びっしりだった。
資料には付箋が大量に貼られていた。
色分けまでされている。
つめは少し引いた。
「いつ読んだの」
「昨日です」
「全部?」
「全部です」
「怖」
「私は学園名代です」
シエルは淡々と言った。
「祭り期間中は各種族との交流。
情報収集。会合参加。
その辺りが仕事になります」
「面倒そう」
「面倒です」
即答だった。
リオンが吹き出す。
「事実です」
シエルは真顔だった。
すると。
フィオナがふと思い出したように言う。
「そういえば」
「ん?」
「私も面倒なのよね」
リオンが首を傾げる。
「何が?」
フィオナは少しだけ眉を寄せた。
本当に面倒そうな顔だった。
「父が人族代表団にいるの」
沈黙。
リオンが止まる。
「誰の父?」
「私の」
「いや、え、マジか」
つめも止まる。
「聞いてない」
「聞かれなかったもの」
「いや聞く機会無かったけど!」
フィオナは肩を竦めた。
「会場で貴賓扱いされるかもしれない」
「マジかよ」
リオンは驚いてフォークを落とした。
「私も面倒だと思ってる」
「全然そう見えねぇ」
「本当に」
つめも真顔だった。
リオンは頭を抱えた。
「このパーティ。
思ったよりヤバい奴しかいねぇな」
「失礼ね」
「否定できるか?」
フィオナは黙った。
数秒後。
「できないわね」
あっさり認めた。
夕方。
甲板。
海は赤く染まっていた。
夕日が沈み始めている。
風が気持ち良かった。
昼間の暑さが嘘みたいだった。
皆それぞれ好きな場所にいた。
リオンは海を見ている。
シエルは資料を読んでいる。
フィオナは手すりにもたれている。
レインはぼんやり空を眺めていた。
その時。
船員の男が近付いてきた。
日に焼けた顔。
年季の入った腕。
長年海で働いてきた人間だった。
「学生さんか」
リオンが頷く。
「そう」
「ヤマナギは初めてか?」
「初めてだな」
船員は少し笑った。
「あそこは変な国だぞ」
「変な国?」
「何人たりとも姿を偽る事なかれ」
風が吹いた。
船員は海を見る。
「それがヤマナギの不文律だ」
「不文律?」
「嘘を嫌う」
静かな声だった。
「身分を偽るな。
名前を偽るな。
姿を偽るな。
そういう土地だ」
リオンが眉をひそめる。
「……だるそう」
船員は笑った。
「まぁ観光客なら気にしなくていい。
だが長く滞在するなら覚えとけ」
そう言って去っていく。
夕日だけが残った。
赤い海。
赤い空。
揺れる波。
静かな時間だった。
でも。
つめだけは黙っていた。
カノ。
鷹乃つめ。
炎上の魔女。
サクラ。
頭の中に浮かぶ。
全部。
繋がっている。
レインが隣へ来た。
少しだけ海を見る。
そして。
「気になる?」
つめは苦笑した。
「まぁ」
短い返事。
レインは頷く。
「今は“カノ”だから?」
つめは少し驚く。
レインは海を見たままだった。
「ふーん」
それ以上聞かない。
でも。
見ていた。
ちゃんと見ていた。
つめは夕日を見つめる。
そして。
小さく息を吐く。
「……着く前に」
風が吹く。
「話しとかないとなぁ」
誰にも聞こえないくらいの声だった。
夕日が海へ沈んでいく。
ヤマナギはまだ遠い。
けれど。
少しずつ近付いていた。




