第六章 新しい家
あたりを支配した静寂を、ときおり唸る風が引き裂いていた。
その静けさは、安らぎを与えるものではなかった。
むしろ、重くのしかかってくる。
蘇ったばかりの世界そのものが、虐殺のあとで息を止め、すべてが終わったことをまだ信じられずにいるようだった。
リチャードは、かつて下へ向かう第一歩を踏み出した場所に立っていた。
風が髪を乱し、肌を冷やし、破れた服の隙間へ入り込む。
はるか下で、世界はもう以前のままではなかった。
息をしていた。
ゆっくりと。
不規則に。
長い死から、ようやく目覚めたばかりのように。
リックは顔を上げ、目に見えない向こう側に感じる高次の存在へ呼びかけた。
「お母様……結界を解いてください。最後の敵を感じます。近くにいます」
その言葉は、自然にこぼれた。
なぜ自分がそう呼んだのか、リック自身にもまだ分からなかった。
ほとんど同時に、守りの構造が溶け始める。
つい先ほどまで砕けることなどあり得ないと思えた氷の面に亀裂が走り、淡い光の粒となって崩れ、空気の中へ消えていった。
そして、結界が消えていくのと同時に、不安がやってきた。
最初は弱かった。
ほとんど気のせいのように。
だが、それは少しずつ大きくなっていく。
リックは動きを止めた。
理解できない恐怖が、内側から彼を覆った。
息が詰まり、心臓が痛むほど強く縮む。
肌が粟立った。
敵の姿は見えない。
声も聞こえない。
いつものような力の気配も感じない。
それでも身体だけは知っていた。
この先にいるものは、あの虐殺さえ前触れにすぎなかったと思えるほどの何かだと。
ひとつの思いだけが、頭の中で何度も脈打っていた。
――急がなきゃいけない。
――先へ行かなきゃ。
――上へ。
彼は一歩を踏み出した。
次の一歩も。
動くたびに、身体は重くなっていった。
足に鉛を流し込まれたようだった。
ただでさえ厳しい上り道は、やがて苦行に変わった。
恐怖に、吐き気が混じる。
濃く、息苦しいものだった。
新しい一歩を踏み出すたび、喉元までせり上がってくる。
高く上がるほど、リックの内側は強くかき乱された。
彼は堪えようとした。
歯を食いしばる。
苦いものを飲み込む。
身体に命じて、さらに進ませる。
だが、弱りきった精神は、もう耐えきれなかった。
身体が折れ曲がった。
リチャードは吐いた。
胃の中のものではなく、内側に巣食った恐怖そのものを吐き出そうとしているかのようだった。
彼はしばらく、片手を樹皮につき、荒い息を吐き続けた。
それから唇についた苦いものを拭い、また上へ進んだ。
巨大な枝の奥深く。
そこに、途方もない大きさの建物が隠れていた。
それはまるで、木の一部だった。
生きた幹に食い込んだ、石の腫瘍のようでもあった。
広い玄関先には、生き残った子どもたちが、小さな塊になって震えていた。
泣いていた。
静かに。
力なく。
それでも、胸を裂くように。
「静かにしろと言っただろう」
荒い声が、玄関先に響いた。
子どもたちの中に、一人の子どもの姿をした何かが座っていた。
見た目は、ほとんど彼らと変わらない。
ほとんど。
だが、その静けさには、何かが間違っていた。
子どもの身体と、重すぎる眼差しが合っていない。
すべてを見透かしたような、冷たい動きも。
子どもであるはずがない、辛抱強い残酷さも。
幼い者たちは、泣き止むことができなかった。
その不気味な存在感に、もう耐えられなくなっていた。
互いにしがみつく者もいた。
意識を失う者もいた。
だが、眠りに落ちてもなお、涙だけは頬を伝い続けていた。
見知らぬ者は笑っていた。
彼は待っていた。
リチャードを待っていた。
数分が、数時間に変わる。
数時間が、数日に変わる。
蘇った世界の中で、幾週もの時が過ぎたころ。
ようやく、静寂の中に、擦り切れた声が響いた。
「……やっと、見つけた」
見知らぬ者が目を開けた。
その前に立っていたのは、旅人だった。
やつれ、青ざめ、今にも倒れそうな姿。
それでも、その視線だけは、子どもたちの中に座る存在へまっすぐ向けられていた。
「まだ裸足か」
見知らぬ者は、薄く笑った。
「ずいぶん待たせてくれたな」
リックは深く息を吸おうとした。
だが、空気そのものが粘ついているようだった。
「お前は……」
声が途切れる。
「僕は……」
「小僧、無理をするな。座れ」
子どもの姿をした見知らぬ者は、面倒くさそうに片手を上から下へ動かした。
床を示す、あまりにも分かりやすい仕草だった。
リチャードは座ろうとした。
だが、身体はもう言うことを聞かなかった。
壊れた人形のように、彼は床へ崩れ落ちた。
意識が揺らぐ。
四方からのしかかる圧に、心が耐えられなかった。
見知らぬ者は満足そうに頷いた。
ようやく望んでいたものを得た、というように。
指を鳴らす。
建物の周囲に結界が走った。
神が作ったものに似ていた。
だが、違う。
冷たい。
異質な。
守るための温度を持たない結界だった。
「これで、落ち着いて話せる」
彼は言った。
「余計な目も、耳もない」
立ち上がり、リックのそばへ歩み寄る。
そして、横にしゃがみ込んだ。
リチャードは意識を失ったまま、指一本動かせない。
見知らぬ者は、軽くその背を叩いた。
「よく来た。お前にしては上出来だ」
それから、リックの頭に手を置いた。
リックの身体が震える。
「贈り物だ。挨拶代わりにな」
そして、彼の額を弾いた。
「起きろ」
「――ああっ!」
鋭い痛みが、頭蓋を貫いた。
リックは、熱い鉤で深い闇から引きずり出されたかのように跳ね起きた。
「痛い……」
彼は頭を抱え、荒い息を吐いた。
「ほとんど消し飛ばされた時だって……ここまで痛くなかった」
そして、急に動きを止める。
「僕は……何をしてる?」
リチャードは立ち上がり、辺りを見回した。
何が起きているのか分からなかった。
弱さは消えている。
吐き気もない。
恐怖もない。
だが、それよりも大事なことがあった。
「子どもたちは?」
見知らぬ者が笑った。
大きく。
自由に。
ほとんど楽しげに。
「子ども? ここに子どもなんていたか?」
「違う……」
リックの顔から血の気が引いた。
「見た。意識を失う前に、確かに見た」
彼は見知らぬ者の胸ぐらを掴み、叫んだ。
「どこへやった。答えろ!」
答えはすぐに返ってきた。
不吉な気配が、異質な身体の周囲に膨れ上がる。
リックの手は、勝手に離れた。
自分の意思ではなかった。
恐怖ですらない。
抵抗することが、そもそも不可能だった。
「小僧、馬鹿な真似はするな」
見知らぬ者は静かに言った。
「休め。お前はもう、できることをやった」
リチャードは理解した。
今の自分には、何もできない。
逆らうことに意味はなかった。
彼はゆっくりと座り、両手を膝の上に置いた。
そして、声だけは落ち着かせた。
「答えてください。子どもたちは、どこですか」
見知らぬ者は、面白そうに彼を見た。
「本当にしつこいな」
再び、その手がリックの頭に置かれる。
「眠れ」
リックの身体から力が抜けていく。
まぶたが重くなる。
意識が、深い暗い水の底へ沈んでいく。
見知らぬ者は、彼が倒れないように、そっと支えた。
「目が覚めた時、お前は何も覚えていない」
その声は静かだった。
「また会おう。ここでやるべきことは、もう終わった」
子どもの姿をした影は、空気の中へ溶けるように消えた。
同時に、結界も消えた。
それから、さほど時は経たなかった。
リックが目を開けた時、そこにはまったく別の景色があった。
彼はもう、木の上にはいなかった。
小さな石造りの家の、寝台の上に横たわっていた。
最初は、ここがどこなのか分からなかった。
肘をついて身を起こし――そこで固まる。
炉のそばに、老人がいた。
運命。
だが今の彼は、声ではなかった。
輪郭でもない。
意識の中の影でもない。
本当の肉体を持って、そこにいた。
上着とベストは掛けられている。
シャツの袖はまくり上げられていた。
老人は、まるで先ほどまでの虐殺も、世界の死も、神々も、血も破壊も、すべてが果てしなく遠い場所の出来事であるかのように、静かに食事を作っていた。
リックの胸が温かくなった。
あまりに温かくて、自分の唇に笑みが浮かんでいることに、すぐには気づけなかった。
彼は寝台に座り、足を下ろした。
そして、子どものようにぶらぶらと揺らした。
その瞬間だけ、彼は本当に子どもに戻った気がした。
武器ではない。
アバターでもない。
運命を消す者でもない。
ただの子ども。
たとえ、今は大人の男の身体に閉じ込められていたとしても。
老人は振り返らずに言った。
「息子よ。私たちは、お前を心配していた。何かあったのか」
リックは眉をひそめた。
内側には、不思議な軽さがあった。
不安はない。
直前の出来事の記憶もない。
あるのは、温かい空白だけだった。
まるで魂から一枚のページを引き抜かれ、その破れ目を、誰かが優しく手で覆っているようだった。
「おじいちゃん」
リックは笑った。
「僕が覚えてるのは、軍勢を何とかしたところまでだよ。それだけ。何かあったの?」
老人の動きが、一瞬止まった。
それから、ゆっくりと振り返る。
「息子よ。もう、私をおじいちゃんとは呼ぶな」
リックの笑みが揺れた。
「私は、お前の父だ。私の妻は、お前の母だ」
胸に広がっていた明るい温もりに、痛みが混じった。
深いところに眠っていた悲しみと寂しさが、一度に目を覚まし、心臓を締めつける。
彼には、すでに両親がいた。
本当の。
血のつながった。
失ってしまった、父と母が。
それなのに、他人のはずの「父」という言葉は、あまりにも大切に響いた。
だからこそ痛かった。
リックは喜びたかった。
心から、そうしたかった。
だが、喜びと一緒に、恥ずかしさがやってきた。
新しい家族を受け入れることが、幼い心で愛していたあの二人を裏切ることのように思えた。
喉が詰まる。
老人はそばへ来て、寝台に腰を下ろした。
「リチャード。あまり考え込むな。私はいつも通り、言葉の選び方を間違えたらしい」
彼は不器用にリックの肩を軽く叩き、それから片腕でそっと抱き寄せた。
その動きに、いつもの戦いの正確さはなかった。
あるのは、粗く、少し不慣れな気遣いだけだった。
老人は、子どもの心がどれほど深く閉じられているのかを理解した。
「息子よ。私は言葉がうまくない。少し気を逸らそう。夕食はもうすぐできる。妻も、あと数分で戻ってくる」
リックの目が見開かれた。
老人の記憶の中で、彼はその女性を見ていた。
肩を並べて、長い道を共に歩んだ人。
たとえ影の中にいたとしても、ずっとそこにいた人。
そして、目の前の老人が何者なのか、リックはもう知っていた。
運命。
では、その人が運命なら。
彼女は何なのか。
老人はすぐにリックの顔の変化に気づいた。
言葉になる前に、その思いを読んだようだった。
「言っていなかったか」
老人が言った。
「お前は、あれの名を知っている。いや……役目と言ったほうが近いか」
「すみません」
リックは視線を落とした。
「なんとなく、分かる気はします。でも……」
その先を言う前に。
背後から、柔らかな女の声がした。
「人は、私を神と呼ぶわ。運命にとっては妻。そして、あなたにとっては――お母さんよ」
扉が開いた。
そこに立っていたのは、記憶の中で見たあの女性だった。
一瞬たりとも変わっていなかった。
天使のような姿。
白に近い淡い髪。
優しさと、果てしない古さが同時に宿った顔。
翼がないことだけが、彼女をこの世界の存在に留めているように見えた。
彼女はリックを見ると、両腕を広げた。
それだけで十分だった。
リックは駆け出した。
まるで、この瞬間をずっと待っていたかのように。
彼女は彼を受け止めた。
優しく。
壊れ物を扱うように。
あまりにも温かく抱きしめられて、リチャードの心は耐えきれなかった。
彼はその胸の中で泣き崩れた。
「お母さん……」
涙の間から、声が漏れる。
「もう二度と会えないと思ってた」
彼女は彼の頭を撫で、頬の涙を丁寧に拭った。
そして額に口づけ、静かに言った。
「目を閉じて」
リックは従った。
彼女はその手を取り、座っている老人のもとへ導いた。
そして、リックの両手を、夫の手の上にそっと置いた。
リチャードの身体が震えた。
指が、勝手に動き始める。
急ぐように。
貪るように。
ほとんど必死に。
彼は老人の手に刻まれた傷をなぞった。
かつて暗記するほど読んだ本を、忘れていないか確かめるように。
同じ場所へ、何度も戻る。
確かめる。
比べる。
納得しようとする。
傷。
手の形。
指の線。
皮膚の下に隠れた、古く、懐かしい力。
次に、彼は顔へ触れた。
頬骨。
顎。
皺。
髭。
その輪郭は、ずっと年老いていた。
あまりにも長い時間を越えていた。
だが、そんなことはもう関係なかった。
分かった。
理性より先に、心が知っていた。
リックは目を開けた。
目の前には、石のような顔をした老人が座っていた。
だが、その石の上を、わずかな涙が静かに伝っていた。
それでもなお、運命は顔を崩すまいとしていた。
リチャードは彼を見つめたまま、言葉を失っていた。
やがて、かすかに囁く。
「お父さん……ずっと、そばにいてくれたんだね」
老人は彼を強く抱きしめた。
「そうでなければならなかった」
リックは、再び失うことを恐れる子どものように、しがみついた。
「でも……どうして、今まで言ってくれなかったの?」
答えは、左右からほとんど同時に返ってきた。
運命と神が、同じように言った。
「すまない。今でも、それを話すことはできない。時が来れば、お前自身が知ることになる」
リックは黙った。
神が近づき、彼の肩に手を置く。
「今は一緒にいる」
彼女は言った。
「それが、いちばん大事よ」
リチャードは二人の両親を抱きしめた。
長く。
その瞬間が消えてしまわないように、必死に留めるかのように。
やがて、彼は小さな声で尋ねた。
「ここって……その、二人の家なの?」
老人は一瞬驚いた。
だがすぐに理解した。
息子が見ているのは、自分の記憶の中の家なのだ。
「今は、そうだ」
リックは顔を上げた。
「今は?」
老人はゆっくりと寝台から立ち上がり、扉へ向かった。
息子へ手招きする。
リチャードは立ち上がり、その後を追った。
運命が扉を開ける。
外には、リックが記憶の中で見たものに似た景色が広がっていた。
だが、同じではなかった。
家のそばに立つ木々は、ずっと小さい。
梢は雲の中へ消えていない。
根も、底の見えない闇へ沈んではいなかった。
家そのものの立ち方も違っていた。
周囲の世界は、新しかった。
まだ落ち着いていない。
まだ静かだった。
まるで、生まれたばかりのように。
老人は外へ出た。
木々のほうへ向き直り、両腕を広げる。
そして言った。
「ここが、私たちの新しい家だ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
作品を気に入っていただけましたら、下部の評価(★★★★★)やブックマーク登録で応援していただけると幸いです。
皆様の反応が、今後の執筆の大きな支えとなります。
次回もよろしくお願いいたします。




